第32話 友とライバル 7

 その日、マルが図書館に行き、借りていた本を司書に渡して書架に向かおうとしたその時だった。自分の背中の後ろをすり抜けて行く大きな人の気配を感じた。振り返ると、タク・チセンだった。

(今日こそ、彼に声をかけるんだ!)

 数日間、胸の中に抱えていた思いがどうにも抑えきれなくなった。マルはタク・チセンの後を追って図書館の外に出た。

 その時、マルの耳に、数人の少年達の低い、湿った声が飛び込んで来た。

「南部野郎め!」

「田舎者!」

「お前、生意気なんだよ!」

「カサン人に媚び売りやがって!」

 カサン語じゃない。アジェンナ国北部の言葉、アジュ語だった。アジュ語をよく知らないマルにも、それらが罵声の言葉である事ははっきりと分かった。マルは声のする図書館の裏へ、恐る恐る足を進めた。図書館の建物の角を曲がったその先で、四、五人のアジュ人らしい色黒の生徒が、地面に転がった一人の生徒を次々と蹴り飛ばしている。地面にうつ伏せに倒されている生徒は、蹴りが止んだ瞬間に体を起こし、グイと頭をもたげた。マルはハッとした。

(エルメライ!)

 その瞬間、また一人の生徒が彼の肩を踏みつけ、エルメライの身体は再びどうっと地面に沈んだ。

「やめて! やめてー!」

 マルがとっさに少年達に向かって飛び出しすと、色黒のアジュ人達の体がサッといっせいにマルの方を向いた。

「なんだこのチビは!」

「こいつも南部野郎だな!」

 たちまちマルは取り囲まれ、地面に転がされ、次々体の至る所に蹴りを撃ち込まれた。

(そうだ、そうだった……)

 マルは地面に転がされたとたんに気付いた。スンバ村にいた頃は、ナティにからんで来るいじめっ子に駆け寄ったら、みんなイボイボ病の自分を恐れ、蜘蛛の子を散らすように逃げて行ったものだ。けれども今はイボも無くなり、自分はいかにもひ弱な外見のアマン人のチビに過ぎないのだ……。

その時だった。

「おい、お前ら何してる」

 低くどっしりとした声が頭上に響いた。自分の体に打ち込まれる攻撃はピタリと止んだ。マルは顔を持たち上げて声のする方を見た。声の主はタク・チセンであった。

「ここでは喧嘩は厳禁だ。教官を呼ぶぞ。お前ら、鞭を受ける覚悟はあるのか」

 彼の声は落ち着き払っていたが、その大きな体から押し出される声には重量感と迫力が漲っていた。アジュ人の生徒らは声も立てずサッと身を翻し、あっという間にその場を立ち去った。

マルが茫然としている間、タク・チセンもまた「もう用は済んだ」とばかりその場を去って行く。マルはその背中を見ながら興奮していた。

(タク・チセンがおらを助けてくれたんだ!)

 この時、彼の立っていた場所にノートが落ちているのに気が付いた。マルはそれを拾い上げた。タク・チセンが落としたノートに違いなかった。

(よし、これを返す時に彼にお礼を言おう。そして話をしよう。いつも本を読んでいるけど、どんな本が好きなの? どこの町から来たの? 先生の事怖くないの? 他にも聞きたいこと、いろいろ……)

「ねえ、君はアマン人かい?」

 背後から突如アマン語で声をかけられ、マルはギョッとしてノートを手から取り落としそうになった。振り返ると、そこにはエルメライが立ち、真剣な目でマルの顔を見詰めている。彼はイボの消えたマルの事が分からないのだ。

「いいえ、違います!」

 マルはカサン語でそう答えると、そのままサッと向きを変え、逃げるように走り出した。走りながら思った。

(おらは何てバカなんだ! いくらカサン語で答えたって、アマン語で聞かれてそれに対して返事したんだから、アマン語が分かるっつてバレちゃったじゃないか……!)

 寮の部屋に戻るなり、シンはマルの顔を見るなり、

「うおーっと、どうした、その顔は!」

 と、先輩達がいるにもかかわらず声を張り上げた。

「シーッ、静かにして! 大した事じゃないよ。ちょっとそこで転んだんだ」

「バカ言うな。そりゃ転んで出来た傷じゃねえ。俺は傷に関してはプロ中のプロだ。ちょっと見せてみな」

 シンは机の引き出しから瓶を取り出し、マルを寝台に座らせて顔に体に薬を塗りつけた。

「これはな、猿の王の精液から出来てる特別の薬だ」

「エエー!!!」

「まあ黙ってろ。むちゃくちゃ効くぜ。全く、このかわいい顔に傷付けた奴はどこのどいつだ。言ってみろ」

「よく分からない。アジュ人だったけど、うちのクラスの子じゃなかった」

「よしっ、それなら俺が明日全クラス回って、どいつがやったか聞き出して話つけてやる!」

「やめてよう、お願いだから、喧嘩しないで!」

「何だ、お前、俺のことそんな危険人物だと思ってんのか? 俺はな、穏やかに、アジェンナのブリュタス山みたいに穏やかに言って聞かせてやるさ」

「怖い事言わないでよ。ブリュタス山って時々噴火するじゃない」

「そりゃ五年も前だろ? 俺も五年とは言わねえが、相手がおとなしく言う事を聞くようなら別に怒りゃしねえよ」

「でもね、ここのアジュ人はほとんどみんな貴族様なんでしょ。卑しい妖人のおら達の言う事なんて聞いてくれないと思うよ」

「俺はお前の事も自分の事も卑しいなんて思っちゃいねえぜ」

 マルはハッとした。

「ごめん、おら、君のこと、そんなつもりで言ったんじゃ……」

「分かってる。お前の言いてえ事は分かる。お前は俺に親しみを感じてるが、あいつらは気取って偉そうで近寄りがてえ、そういう事だろ? だがな、話をしてみねえ事には奴らを改心させられねえ。任せとき。借りてきた猫みたいな顔で穏やかにやるぜ俺は」

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