第30話 友とライバル 5
図書館に通う事を覚えてから、マルは少しずつ落ち着きと元気を取り戻した。ここには一生かかっても読み切れない程の本がある。それらの中のすべてに自分の知らない物語がある事を思うと、マルの心は未知に向かって大きく羽ばたいた。
図書館は寮の消灯時間まで開いていて、中で勉強や読書が出来た。さらに本を借り出して部屋に持ち帰ることも可能だった。マルは先輩のための雑用や宿題を済ませた後、毎日のように図書館へ通った。たとえ短時間でも図書館で過ごす事で、まる一日の恐怖と緊張が少しばかり流される気がした。
残念なのはシンがあまり図書館に行きたがらない事だった。
「ああいう静かな所はどうも苦手でね。ただっぴろい上にシーンとしてるだろ。あのシーンっていう音を聞いてると、なんだか体がモゾモゾしてくる」
マルにもその気持ちは理解出来なくもなかった。自分も興味の無い授業だと、全く落ち着いて聞いていられない方だったから。
マルはある日、教室の中が普段にも増して緊張感に満ちた異様な雰囲気である事に気づいた。生徒達の口から、こんな囁きが漏れ聞こえる。
「カク先生が戻って来る……!」
「そうだ、カク先生だ!」
「やばい……」
「地獄だ。カク先生の名前を聞いただけで腹が痛くなる……」
カク先生、という名前には、マルにも聞き覚えがあった。マルはシンにそっと尋ねた。
「カク先生の事、確か以前話してたよね?」
「ああ。しばらく大学受験対策とやらで上級生だけを受け持ってた。だが一年生からカサン語をビシバシ鍛えなきゃならんとかいう気を起こしたらしい。やれやれだなあ~」
「確か、すごく怖い先生だって言ってたよね」
「ああ、とんでもなくおっかねえぞ。多分ヒン先生以上に生徒に恐れられてるのがカク先生だ。あの先生は殴りゃしねえが、とにかく口が悪い。あの毒舌に当てられたら、みんな泣くぜ。俺は意地でも泣いてやらねえけどな。情けねぇ事に、みんな大人しく罵倒されるままになってる。カク先生は学年主任で権力があるからな。あの先生に逆らったら殴られるよりおっかねえ罰が待ってる」
マルはため息をついた。恐らくこの先生にも、「ピッポニアの血を引いた茶色いねずみ」などと罵倒されるんだろう……。
「殴られるより怖い罰って何だろう」
「窓も無い部屋で、三日間、誰にも会わずひたすらカサン語の辞書の書き写しをされる」
「殴られるよりはマシだと思うけど」
「尋常じゃない量だぜ! 飲み食いの間も小便の間もねえ位さ! 一度でもやってみろよ。出てくる頃には幽霊みてえになってるぜ!」
「ていう事はつまり、君は経験済みなんだね?」
「一番こたえるのは誰にも会えねえことだよ。女にも会えねえ」
「女って……」
「ニアダとかさ! ……ほら来た! あの足音はカク先生だ!」
その足音は、マルの脳天を槌で撃つように響いた。マルは自然に頭を垂れていた。
「お前ら! 私がいない間、さぞかしカサン語の勉強をさぼったことだろうな!」
上目遣いにそっと見るカク先生は、他の先生達とは全く違う雰囲気をまとっていた。ここのカサン人の教官には珍しく、長髪を無造作に束ね、口髭を生やしている。まるで一本一本が棘のような髭は、大きな声を発する度にビリビリと震えた。伝統的なカサンの上衣に袴という姿も、マルが絵本以外で初めて目にするものだった。マルはどういうわけか、故郷でマルの母語であるアマン語の読み書きを教えてくれたバダルカタイ先生を思い出した。とはいっても二人は全く似ておらず、バダルカタイ先生はずっと穏やかな話し方をするけれども……。
この時、先生の視線がマルの視線にぴったり重なった。
「見ない顔だな。お前は編入生か」
返事をしようとしたが、恐怖の余り声も出ない。
「何だお前は! 口もきけんのか! つまみ食いがバレたガキか! だいたいお前はとても高等学校の生徒には見えん。部屋で寝小便を垂らしてるんじゃないのか。名前は?」
「ハン・マレンです」
マルは、次にはきっと『ピッポニアの血を引いた茶色いねずみ』と言われるだろうと身構えていたが、先生はそれ以上マルを標的にはせず、突如黒板に向かって詩を書き始めた。教室じゅうの生徒が途方に暮れているのが分かった。必ず教科書に沿って授業を進める他の先生とは違い、この先生は随分気まぐれらしい。
「ケー・ルイン、この詩を読んでみなさい」
「は、はい……」
ケー・ルインと呼ばれた生徒は立ち上がり読み始めたが、その声はかすれ、途切れ途切れで震えていた。無理もない。その詩は五百年前の、古語を用いた詩だった。
「何だその読み方は!」
カク先生はいきなり机を叩いて怒鳴った。
「さっぱり詩の意味を理解しておらん! お前は本当にカサン人か!? カサン語の分らんカサン人などは牛だ!」
ケー・ルインは実際に牛のような体を震わせた。
(あんなに怒鳴ったりしたらうまく読めやしないよ。詩はもっとゆったりした気持ちで読むべきものなのに……)
マルは心の中で思った。さらにカク先生は、次々生徒を当て、詩の中に出て来る言葉の意味や類義語や反対語を尋ねていく。誰一人きちんと答える事が出来ない。
「お前の父親は将軍だそうだが、息子が馬鹿者なら父親の頭の方もたかが知れてるな。頭を使わないで戦うからアラハンの戦いで大敗するのだ!」
そう言われた生徒が真っ赤になって震えているのが分かった。多分、カサン人が一番大切にしている「名誉」を傷付けられたからだろう。カク先生は黒板の詩を消し、新たな詩を書いた。それは英雄叙事詩の中に出て来るものだ、戦闘前夜の酒宴で詠まれた詩であった。
「タク・チセン、読んでみなさい」
最前列に座っていたタク・チセンと呼ばれた生徒が立ち上がった。クラス一の巨漢で黒縁の眼鏡をかけた彼が立ち上がると、威圧感があった。マルは、この生徒が教練でも他の教科でも抜きん出ている事を知っていた。タク・チセンは淀みなく詩を読み上げた。まさに英雄叙事詩にぴったりの堂々とした力強い読みっぷりに、マルは思わず授業中にもかかわらず
「はあーっ!」
と感嘆のため息をついていたが、カク先生にギロッと睨まれ、ウっと鳥が絞められるような声を出してしまった。カク先生はタク・チセンに対し矢継ぎ早に言葉の意味やこの詩が出てくる作品について次々尋ねた。タク・チセンの答えはどれも完璧だった。その事も凄いが、マルをさらに驚かせたのは、彼がまるで緊張とは無縁であるかのような落ち着き払っている事だった。彼は一度たりとも淀むこともつっかえる事もなかった。問われた事に答える速さは、まるで飛んで来た弾を弾き返すかのような速さだった。カク先生は、何とかこの生徒にもケチをつける事が出来ないかと思っていたようだが、ついに降参したらしく、
「座りなさい」
と言った。
(すごい、なんて凄いんだ……!)
マルはいくらか興奮して、自分の倍はありそうな大きな背中に見入っていた。
「ハン・マレン! 何を笑っている! そんなに嬉しいならこの詩を読んでみたまえ!
「は、はい!」
マルは立ち上がった。自分に取りついている「緊張」という妖怪を振り払うように、マルは深く息を吸って吐いた。カク先生が黒板に書いたのは、およそ千年以上前の物とされるカサンの古謡であった。不思議なリズムと旋律のある詩だ。恐らく男女が集まって輪になって歌う遊び歌だろう。
(最後の繰り返しの部分の意味を聞かれるかもしれない。でもとても古い詩だから、諸説あるもののこの言葉の意味ははっきり分かっていなかったはず……)
マルは詩を読んだ。遊び歌だから、教室の中だといっても自然に楽しげになってしまうのはどうしようもない。詩を読んでいるうちに、ここは教室ではなく、カラリと晴れた空の下のカサンの野原のような気がしてきた。
詩を読み終えると、マルの心に再び恐怖が戻って来た。ここはカサンの野原ではない。教室なのだ。カク先生から罵倒の言葉が降り注がれるのか? あるいは詩の中に出て来る言葉の意味を問われるのか……。しかしカク先生の恐ろしい声はいつまでたっても聞こえない。マルは恐る恐るカク先生の顔を見た。カク先生の恐ろしい視線はしばらくマルの方に注がれていた。やがて
「よろしい。座りなさい」
という声が聞こえた。マルは心の中でホーッと息を吐き、へたり込むように椅子に腰かけた。
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