第29話 友とライバル 4

部屋に戻り、掃除やベッドメイクを済ませ、へとへとになりながら席につき、今日の宿題をするために教科書とノートを広げた。しかし、同室の上級生達にいつ何を言われるだろうという恐怖感のためか、全く集中出来なかった。

横の机で勉強しているシンの方をふと見ると、彼も全く勉強に集中しておらず、鉛筆をクルクル回したり溜息をついたりノートに落書きをしたりしている。ただマルと違う所は、可愛い女の子の事でも考えているかのように上機嫌である事だ。

(強い! なんて強いんだろう! 彼なら地獄だって鼻歌歌ってるんだろうなあ……)

マルはただただ感心するより他無かった。

やがてシンは立ち上がって、

「俺、小便行ってくらあ」

 と言ってそのまま扉を開けて廊下に出て行った。シンがいなくなると、たちまちマルの不安は増した。案の定、上級生のうちの一人がすかさず机についているマルの背後に立ち、

「おい、チビ」

 と言った。

「は、はい」

 上級生はマルの前に本を突き出して見せた。

「これ、読めるか」

 どうやらカサン語の教科書である。

「は、はい……だいたい……」

 マルは言いつつぼんやりと思った。そうだ、読めないふりをした方がいいんだろうか? ここはアジェンナ人ごときは愚かなふりをしなきゃいけない所だから……。しかし、それ以上思案を巡らす暇も無かった。

「じゃあこれを読んで次の課題をやってみろ」

 と言ってマルのそばから離れた。マルは上級生から渡された教科書を見詰めながら思った。これは、宿題を代わりにやれっていう事だろうか? 先輩の服を畳んだり部屋を拭いたりするだけでなく、こんな事までさせられるとは! 自分もかつて、こっそりカッシの宿題を代わりにやった事があるけれど、ヒサリ先生にバレてこっぴどく叱られたものだ。それなのに、こんな事を「最高の学校」の生徒がさせるだなんて! しかし恐ろしくて断ろうにも断れない。マルは仕方なく、課題の文章を読んだ。上級生から渡された課題はいくらか堅苦しく、読みにくい文章だった。だから上級生はマルに渡してよこしたのだろう。

マルが文章を読んで課題を書いている間、シンが戻って来た。そして机についたものの、勉強はせず横からマルの様子をじーっと見ている。マルは自分がこんな卑怯な事に加担していると思うと恥ずかしくて、じっと下を向いたまませっせと鉛筆を走らせていた。やがて上級生が

「チビ、まだか」

 と言ってきたので、

「出来ました」

 と言って本と課題の答えを書いた紙を持って先輩の机に向かった。

「きったねえ字だな。さすがに土人だ」

「どれ、チビは何て書いてる?」

 上級生達は、互いにマルの書いた紙を見せ合っている。

「俺にも写させろ」

「そっくり同じに書くなよ。ばれるからな」

 マルは背後にそんなやり取りを聞きながら、ただただきまりが悪く首を縮めていた。シンがサッと振り返って上級生達の方を見た。しばらく上級生の様子を眺めた挙句、

「ヒヒヒ」

 と笑い声を漏らすのが分かった。

 夕食の鐘が鳴った。上級生達が出て行った瞬間、シンが椅子ごと抱えてマルのそばに寄った。そしてマルの肘を突っついて言った。

「お前、超ラッキーだぜ! バカな上級生と同室で」

「なんで?」

「利用価値があるって思われたからさ。これから先、あの猪二匹はあんまりお前をいじめねえぜ」

「気分良くないな。ずるい事してるみたいで」

「いいか、ここで生き抜くのに大事なのは要領だ。ずるくなきゃやって行けねえ。だけどお前が苦痛なら言えよ。俺があいつらに言ってやめさせてやる」

「いやいや! 部屋の掃除に比べたら何でもないよ」

 マルは慌てて言った。シンを巻き込んだらまた大変な事になる。

「先輩の宿題をやる事は苦痛じゃないよ。予習にもなるから。でも……おら、ここに来て、すべてが崩れ落ちているような気がするんだ。おらは一体何に憧れてきたんだろう? 何を信じてきたんだろう。おら、ちっちゃい頃からずっと、カサンに憧れてきた。カサン人になれたらなって、ずっと思ってきたんだ」

「分かるぜ。お前のカサン語はまるっきりカサン人みてえだもんなあ。残念ながら見た目はまるっきりカサン人じゃねえ。だがな、お前が、『カサン人になりたい』なんて思うのは、そりゃもう、間違ってる。絶対間違ってる」

「ばかげてるって思うでしょ。絶対なれっこないのに」

「そういう事じゃねえ! 違うんだ。いいか、俺達はアジェンナ国人だ。そういう事だ。俺はアジュ人、お前はアマン人。その違いはあっても俺達はアジェンナ国人だって事だ」

「分かるよ。おらはアマン人でアジェンナ人。でもカサン帝国人でもあるわけでしょ」

「ああ、確かに形の上ではカサン帝国人って事になるわなあ。でもそれは、カサンの連中がピッポニアの連中と戦って、勝って、上の奴らを丸め込んで勝手に決めた事だ。俺らが選んだんじゃねえ」

「…………」

「いいか、アジュ族とアマン族ってのは対等な立場で長年闘ってきた。いわばライバル同士の関係さ。そしてたまたまアジュ族が勝って、アジェンナという一つの国が出来た。そりゃアジュ人の中にはアマン人を見下してる奴もいる。アマン人を南の遅れた田舎もんだって思ってる奴が多いのは確かさ。だが、それは時が解決する。いずれそういう事も無くなるさ。だがカサン人はそうじゃねえ。カサン人は外からやって来て、とてつもねえ力と武器と文明で俺達を抑えつけた。カサン人と俺達の間にゃ壁がある。それは簡単に乗り越える事は出来ねえ」

 マルはのシン言葉にどうしても納得がいかなかった。ヒサリ先生は、アマン人もカサン人も対等だと言っていたし、自分もずっとそう信じてきた。カサン語の本を読む時に特にそう感じる。カサンの物語を読んでも、自分は嬉しいとか悲しいとか感じる。つまりアマン人もカサン人も同じ心を持っているという事ではないか。

「おっと、今の話、女は別だぜ。たとえカサン人でもいい女なら俺は口説く。女にナニ人は関係ねえ。さてと! 早く飯食いに行かねえと。ここではぐずぐずしてると、飯が勝手に消えて無くなる所だからな、ここは!」

 マルはシンの後について歩きながら、この事についてはもっとゆっくりシンと話をしたい、と思った。

 その時だった。廊下の外で、「ザバン!」と物の落ちる大きな音がした。歩いていた生徒達が、いっせいに廊下の窓に駆け寄った。

(何だろう?)

 窓から外を見下ろした瞬間、マルの息は止まりかけた。一人の少年が中庭に落ちている。その周りにはおびただしい赤黒い血が広がっていく。

「今年三人目だよ」

「明日は我が身だな」

 そんな押し殺した声が聞こえて来る。マルの意識が一瞬スーッと遠ざかった。マルはその場にへたり込んだ。

「おら、見たんだ! 彼……肩に妖怪乗せてた……真っ黒で……そこにしゃがみ込んで……」

 マルはそれ以上口がきけなかった。不意に、シンの強い手ががしっとマルの肩の上に置かれた。

「おい、しっかりしろ、お前が何を見たか知らんが、お前まで肩にそのおっかねえ妖怪を乗せるなよ。このちっこい肩を振り回せ! 俺はお前をひどい目に合わせる奴はみんなぶちのめす。だがな、そんな妖怪にとりつかれたら俺にはどうしようもねえ。さあ、立て! しっかり食え! そして寝ろ!」


 マルは、生徒が自殺を図ったのを目の当たりにした衝撃から、しばらく立ち直る事が出来なかった。寮でも授業の間もずっとぼんやりしていた。挙句の果てに教練の時間にヒン先生に殴られて気絶し、そのまま医務室に運ばれた。気が付いた時、目の前にシンの顔があった。マルはぽろぽろ涙を流した。今までシンが、自分がヒン先生の標的にならないためにどれだけの事をしてくれたかを、ありありと思い出した。しかしシンがちょっと目を離した隙にマルは角材で打ち据えられ、そのまま気を失ってしまったのだ。

「よっ、気が付いたか!」

「情けない、悲しいよ……どうしておら、こんなに弱いんだろう」

「泣くなよ! 泣くなって!」

 扉が大きく開かれた。入って来たのは食事を手にしたニアダだった。ニアダは食器をガチャンとテーブルに置き、マルの方に駆け寄った。そして力強く抱きしめ、そして背中をさすった。

「ありがとう、ニアダありがとう」

 マルは覚えたばかりのアジュ語で言った。ニアダはシンの方を向き、何か言った。

「ニアダは、お前が本好きらしいから図書館に行ったら元気になれるはずだって言ってる。行ってみるか?」

(そうだ、図書館。すっかり忘れてた)

 マルは頷いた。

「行ってみるよ」

「まあ、でもその前に飯だ! 元気出せよ!」

 シンが食器を乗せたお盆をマルの目の前に置いた。

「お前が本で元気になれるっていうんなら、飯食った後図書館に行きゃいいさ。俺は本じゃ元気になれねえ。女じゃなきゃな。なあ、ニアダ! 俺のことも抱いて背中を撫でてくれよ。こいつにしたみたいに!」

 ニアダはアジュ語でシンをののしった。

「誰にでも言ってるだって!? そんなあ。 俺はニアダが一番だよ、本当だよ! 俺の真心が見えないの!?」

 マルは二人のやり取りを見て思わず噴き出してしまった。笑うのは何日ぶりだろう? 地獄にも救いはある。この二人がいてくれて、自分は幸せだ。自殺を図った少年はカサン人だった。一命は取り留めたものの退学し、精神病院行きだという。どれ程つらかっただろう。可哀想に。カサン人でもここでつらい思いをしてるんだ。それに比べて自分はどれ程恵まれていることか。マルは心よりそう思うのだった。

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