第27話 友とライバル 2

昨夜と同じように、ただ食事を口に運ぶだけの作業を終えると、マルはシンの後についていったん寮の部屋に戻った。これから向かうのは教室である。

 廊下の生徒達は、一言も喋らないまま

ほとんど一列になって、皆同じ速度で教室に向かっている。しかし、しばらくするうちに、急に列が乱れた。

「おい!」

 という苛立った声と舌打ち。

(何だろう?)

 マルが首を伸ばして前を見ると、一人のカサン人の少年が、フラリと列を離れて、苦しそうに廊下の壁に手を付いた。マルはその様子を見てゾーッと震え上がった。少年の肩には、何か濃い煙の塊のようなもやもやした物が乗っている。

(妖怪だ!)

 それはこれまで見た事の無いような不気味な妖怪だった。煙のようなのに周りに広がる事無く、少年の頭や肩にぎゅうぎゅうと纏わりついている。マルはとっさに前を行くシンに声をかけようとしたが、その暇も無かった。

 教室にはずらりと机と椅子が並び、既に多くの生徒が席についていた。同じ格好をした生徒達が、まるで石像のように机についている。マルはそれを目にした瞬間、スンバ村のあの壁の無い教室に今すぐ戻りたい、と思った。机についたとたん、自分も魔法にかかって石像になってしまったような気がした。

 一限目は地理だった。授業が始まって、マルの心は少し落ち着いてきた。授業はスンバ村でのヒサリ先生の授業を思い出させた。頭が禿げ上がり、髭をたくわえた教官は温厚だった。生徒を次々と当てて質問に答えさせたが、生徒が間違えても「よく覚えておきなさい」と言うだけで特に声を荒げることも無かった。

 二限目は数学だった。マルのあまり得意でない科目だ。必死に黒板を見詰めるマルだったが、たちまち内容が分からなくなった。

(どうしよう。当てられても分かんない。怒られる……)

 しかし先生は一度も生徒を当てることなくずっと一人で喋っている。もしこれほど緊張していなければ、マルはたちまち眠気に誘われ故郷スンバ村の夢を見ていただろう。

 二限目が終わると、生徒達は朝食時に食堂でもらった、昼食用のおかずを挟んだだパンを食べ始めた。誰一人喋る者はいなかった。食べ終えると、生徒達はさっそく、この後の教練に備え、着替え始めた。

マルは自分が人一倍体力が無いのは分かっていた。カサン人の教官は落ちこぼれの自分を見て殴るだろう、と思うと、全身の骨がバラバラになるのでは、という程体が震えた。マルの不安に察してか、シンは言った。

「いいか、もし鞭で殴られそうになったら相手の手元をじっと見る。手が振り上がるのを目で追う。そして鞭が当たる直前に大げさに倒れてみせる。いいな!」

(そんな事言われても、うまく出来っこない)

 もはや恐怖と緊張の余り涙も出て来ない。

 教室にいた五十人程のクラスメイトはあっという間に着替えを終えて、小走りで外に出た。かと思うとたちどころに五列縦隊になり、

「オウ! オウ!」

 と言いながら走り出す。もちろんマルはその速さについて行けなかった。

しかしついて行けないのはマルだけではなかった。色黒のアジェンナ人の少年達十人程がひと塊になって、体格の良いカサン人の少年達から遅れてぞろぞろついて行く。マルはどうにか、アジェンナの少年達の一団の尻にくっついて行くことが出来た。アジェンナの生徒達の走り方は無様だった。マルがスンバ村で追いかけて走っていたナティの俊敏さとは比べ物にならない。彼らはほとんど労働を知らない貴族の家の出らしい上に、カサン人のように体を鍛える習慣が無いからだろう。カサン人の生徒とアジェンナ人の生徒の間がだんだん開いてゆく。

「コラアアアア! この土人ども! さっさと走らんかァァ! てめえらはクラゲか! 脳みそが付いてるのか!」

 突然、そんな怒鳴り声が聞こえた。

(ああ、あれはきっと噂に聞く恐ろしい『狂犬ヒン先生だ……』)

そう思いつつ、マルは頭を上げる事も出来ない。汗はずるずると顔面を滑り落ち、目玉に蓋をする。

(ここの先生たちはいったいどうなんてんだ? まるでゴロツキみたいじゃないか! テセさんは言っていた。ここは最高の教育が受けられる場所だって。でも全然違う! ここの先生達はヒサリ先生は大違いだ!)

 しかしマルはこの瞬間、ハッとした。

(ヒサリ先生の事は忘れるって決めたんじゃないか!)

 マルはきつく唇を噛み、必死で脚を動かした。

 やがて、アジェンナの少年達の一団の中で走っていたシンが、周りの少年達の方をぐるっと見回しながら言った。

「何だかなあ、俺ら、こんなにバカにされてムシャクシャしねえか? ちょっくらあいつの鼻を明かしてやらあ!」

 そう言った次の瞬間、シンの姿が消えた。マルはしばらく地面を見詰めながらせっせと足を動かしていたため、何が起こっているのか分からなかった。しかし、ふと顔を上げたとたん、マルはとんでもない物を目にした。シンが少年達の群れを引き離し、一人ものすごい速さでぐんぐん先へ先へと走って行くのだ。マルはあまりの事に唖然としたが、やがて、今にもぶっ倒れそうな体の底からジリジリと嬉しさが込み上げてきた。自分の脚はこんなに重いのに、心は体から踊り出しそうだった!

(おらの友達はなんて素敵で格好いいんだろう! シンは親切なだけじゃなく、こんなに足が速いだなんて!)

 しかし、そんなシンの素晴らしい走りはヒン先生の怒号によって遮られた。

「コラアアアア! そこの土人! 勝手に先に行くなアア! 止まれ! 止まれ! 止まれエエエエ!」

 しかしシンは止まることなく、ぐんぐん先へ進む。校庭から飛び出してしまう程の勢いで走り続ける。

「止まれー! コラー! 止まれエエエー!」

 ヒン先生は怒りの余り興奮し、真っ赤になり、手にした角材でぐわんぐわんと振り回した。すると、シンはいきなりヒン先生の前でパタッと脚を止めて言った。

「はあ~? おたくが遅く走っちゃいけないって言うから速く走ったんじゃないっすか。褒められると思ったのに、怒られちゃうの? そんな殺生な~~!」

「貴様―、何じゃその口の利き方はアアア!」

 ヒン先生は、いきなり後ろ手に持っていた角材を振り上げ、打ち下ろした。シンの体は地面に倒れた。マルは思わず目を覆った。教官は続けざまに角材振り下ろした。シンは「打たれても当たる前に地面に倒れれば痛くない」と強がりを言っていたけれど、あんな風に打ち据えられたら痛いに決まっている。マルは思わず友の方に駆け寄った。

「コラアアア! そこのチビ! 列に戻れ! 戻れエエエ!」

 マルはこの時、シンが地べたに転がったまま自分に向かって手を挙げて来るなと合図するのが分かったが時既に遅し。マルは坊主頭のヒン先生に胸倉をつかまれていた。行く所まで行きつくした恐怖が一種の感嘆に変わり、マルは相手の眼球の濁った白目と邪悪な光をたたえた黒目とを見詰め返した。

「何じゃお前は。見ない顔だな、混血か? 茶色いねずみめ! お前の体からピッポニア精神を叩き出してやる!」

 ヒン先生がマルの掴んだ胸倉をパッと話すと、マルはドサッと地面に倒れた。マルはそのまま殴られはしなかったが、殴られたかのような衝撃を受けた。体と同時に心にも。まさか、先輩達だけではなく、先生にまで「茶色いねずみ」と言われてしまうとは!

しかし苦痛に浸っている暇は無かった。次は、全員で地面にうつ伏せの姿勢になり、両腕だけで体を持ち上げる「腕立て伏せ」だった。これもマルは全くお手上げだった。しかしヒン先生の標的となったのはマルや力の無いアジェンナ人の生徒達ではなく、異様な速さで腕立て伏せをやって見せるシンであった。

「バカタレエエエエ! かけ声通りにやれエエエ」

 またもやシンの体に角材が振り下ろされた。

(もう耐えられない。友達が打たれるのを見ているなんて、おらが殴られる方がよっぽどましだ……!)

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