第25話 タガタイ第一高等学校 11
マルは寝台に横になってもなかなか寝付けなかった。今まで体を横たえていた柔らかい藁の感触とは違い、ピシッとシーツの張られた寝床はまるで石のように硬かった。それでも地下の部屋で一人過ごしていた時は、心に浮かぶ歌を口ずさむ事が出来た。しかし今は、同室に上級生がいると思うとそれも出来ない。
一方で昨日までとは違って、隣の寝台からシンの寝息が聞こえて来る。それは幼い時の母の子守歌のような安らぎをくれた。マルはギュッと握りしめた毛布を時折噛みながら、いつしか眠りに落ちていた。
マルは不意に、自分の体にのしかかる強い力を感じて目を開いた。
(タガタイの恐ろしい妖怪が来たんだ!)
マルはそれを振り払おうともがいた。しかしいっこうに力は弱らない。ナティが教えてくれた妖怪払いの呪文を唱えてみたが、それでもダメだった。奇妙な事に、体の前側がやたらスースーする。次の瞬間、目の前が明るくなった。ランプの明かりの向こうに、二つの顔が見えた。それは妖怪達よりも恐ろしい人間だった。明かりの向こうで上級生達の細い目がさらにキューッと糸のように細くなった。
「なんだ、やっぱり男じゃねえか」
「あんまり小さいから、てっきり女かと思った」
驚き、気が動転したマルの口からカサンの古い物語の一節が転がり出た。
「どうかどうか、その手を収めて、触れないで。私の腹はイボガエル。あなたが触れたらその指に、醜いイボが生えてきて、腐って落ちてしまいます」
それは、『胡蝶の夢』というカサンの小説の主人公コン・ユンの台詞だ。学問好きのコン・ユンという少女が男装して全寮制の男子校に潜り込むという物語だ。同室の少年達に襲われ正体を暴かれかかった時にコン・ユンがとっさに放つのがこの言葉だ。
「は? イボなんか全然ねえぞ。女みてえなすべすべした肌だ」
上級生のうちの一人が、マルの腹を大きく撫で回した。
「待って下さい! 私は汚らわしい妖人なんです! 本当はこんな所に来てはいけないんです! 私に触れたらあなた方まで汚れてしまいます!」
しかし上級生達は、マルの取り乱した様子がおかしいのか、ケタケタ笑うばかりだった。
「どうかおやめください! 私はコン・ユンじゃありません! アマン人です! 男です! 十四歳です!」
「お、お前、コン・ユンの話を知ってんのか。土人のくせに」
「知ってます。でも私はコン・ユンのようなカサンの娘じゃありません! 男です!」
今日、何度も泣いたというのにまだ涙が余っているらしい。目の奥からそれはじわっとあふれ出し、上級生達の顔がぼうっと霞んだ。
「おい! 何してる!」
鋭い声に、マルの上にのしかかっている上級生達の体がサッと離れた。上級生のうちの「一人がランプを掲げた先には、シンの猿顔があった。
「黙れ黒猿! 貴様、上級生への口の利き方が分かってないのか!」
「とにかくそいつから離れろ!」
「はああああ!?? この汚らわしい土人め!」
二人の上級生のがっちりとした体が、シンの細く引き締まった体にジリ、ジリ、と迫った。マルはどうにか上半身を持ち上げたものの、どうしても腰が床から上がらない。
「俺は喧嘩がしたい訳じゃねえ。こいつに触れるなと言ってんだ」
「何を!」
上級生二人がシンに迫った。腕を左右から掴まれたシンは、しなやかにそれを振り払ったかと思うと、二人の襟ぐりをつかみ返した。そして三人はいっせいにドサッと床に倒れ込んだ。ランプが床に転がり、明かりが消えて辺りは闇になった。真っ暗な中を、獣たちが絡み合うような激しい音が響き渡った。
「やめてください! やめてください! やめてください!」
マルは必死で叫ぶ事しか出来なかった。
その時、いきなり部屋の扉が開かれ、明かりが部屋の中になだれ込んで来た。そして、上級生達よりさらに恰幅の良いカサン人の男が姿を現した。
「お前らー! 全員廊下に出ろ!」
二人の上級生達は、突如獣からおとなしい家畜に変身したかのように、黙って廊下に出た。シンはというとゆっくりと、さも面倒臭そうにだらだらと体を起こした。四人は廊下の壁際に並ばされた。男はランプを持ち上げ、四人の顔を順番に照らしながら言った。
「貴様ら! 喧嘩とは何事だ! そんな野蛮な行為は本校の生徒には許されてはおらん! ガキ共、よく聞け! 忠誠、規律、勉学、貴様らにそれ以外の事が許されると思うな! さあ、お前らに根性を叩き直してやる!」
男は、手にした鞭を四人にかざして見せつけた。マルはただ恐怖に震えていた。喧嘩をする事は野蛮だなどと言いながら、この人はなんと野蛮な口の利き方をするのだろう! そして驚いた事に、上級生達はさっきまでの荒々しさはどこへやら、借りてきた猫のようにおとなしく黙ってうつむいていた。鞭が振り下ろされると、二人の上級生のがっちりしたからだは床に倒れた。上級生は
「うあっ」
「ううっ」
と呻いた。男がマルの前に立った時、マルはもう、恐怖で体から魂が抜けだしそうだった。
「待って下さい!」
シンが、マルと男との間に自分の体を割り込ませた。
「こいつには喧嘩に関わっていません。こいつはずっと寝てたんです。殴らないでやってください」
「貴様がそのチビの分余計に殴られてもいいって言うんならな」
「望む所です」
マルが声を出す間も無かった。シンの体にバシッバシッと鞭が撃ち込まれる。シンの体は床に倒れた。
「ああ!」
マルはとっさにシンの横に跪いた。
「ガキども! 次に騒いだらただじゃ済まんぞ! 覚えとけ!」
男の足音が消えると、上級生は一言も喋らずのっそりと起き上がり、神妙な顔で部屋に戻った。しかしシンはなかな起き上がらない。
「大丈夫!? ねえ、大丈夫なの!?」
マルが必死でシンに呼び掛けた。すると、パッとシンの目が開いた。
「ああ、どうってことねえ」
シンは寝そべったまま答えた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……おらのせいで二回も殴られるなんて」
「なあに、鞭が体を掠ったか掠らないかっていう瞬間に派手に床に転がって大げさに痛がってみせる。そしたら相手は満足する。別にこっちはどうってことねえんだけどな」
これだけ言うとシンはようやく体を起こした。そしてマルの肩に手を置いた。廊下の窓から差し込む月明かりに照らされたその顔は、猿の面をかぶっていても何となく笑っているように見えた。
「そんな泣きそうな顔するなって! 俺は平気だと言ってるだろ?! いいか、俺がお前にこれからここで生き抜くための要領を教えてやる。お前さっき、あいつらに『自分は妖人だ』って言ったな。そんな事、奴らには通用しねえ。貴族だろうが妖人だろうが、、あいつらカサン人にとって俺らはまとめて『土人』なんだよ」
マルはハッとした。
「あのね……おらが妖人だっていうのは本当だよ。おらも家族も、妖怪から授かった言葉で歌や物語をして物乞いをする仕事をしてたんだ。君はおらに触れても平気なの?」
「あったりめえだろ! 俺はお前が女なら抱いて寝たい位さ! まあ残念ながら俺には男を抱く趣味はねえがな。お前が女みてえにかわいいけど、女がみんなまとってる黄金のオーラがまるで見えねえ」
この猿顔のルームメイトは随分女が好きらしい、と分かった所でさらにマルは尋ねた。
「聞いてもいい? ……君も妖人なの?」
しかしシンはそれには答えず、マルに部屋に戻るように促した。しかしマルは確信した。
間違い無い。彼は妖人だ。「妖人」と言われる人は、アジェンナ全土にいる。そして北部のアジュ人も、妖人以外の人が汚れた妖人に触れる事は普通無いはずだ。さらに、彼の黒くしなやかな肌には入れ墨がある。これはきっと魔除けのためで、妖怪に関わる仕事をしている証拠だ。ナティと家族のような妖怪ハンターなのかもしれない。
部屋に戻ると、シンは再びサッとマルのそばに寄り、耳元に口を寄せて言った。
「心配するな。俺がお前を守る。絶対」
マルはこの時、ナティの事を思い出した。ナティもよくマルに「俺がお前を守る」と言ってくれた。しかし二人のタイプじゃ全く異なる。ナティはいわば、自分の内なる火が消えないよう燃え立たせてくれる風だ。そして、いま自分の隣にいる背の高い少年は、激しい雨や洪水から守ってくれる堅固な建物のようだ。自分は何という良い友達に恵まれていることだろう!
(これ以上、泣いちゃいけない)
マルは思った。泣くもんか。そしておらを裏切ったあの人の事は一日も早く忘れるんだ。自分の肩に回された友の腕の温もりを感じつつ、マルは心に誓った。
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