第19話 タガタイ第一高等学校 5


 マルは操り人形のように立ち上がった。そのままフラフラと、テセの後について行った。もはや自分の体の中に意思は灯っていなかった。スンバ村に戻りたい、という気持ちももはや無い。ヒサリ先生に裏切られたと分かった今となっては、どこに行ったとて自分は、からっぽの幽霊でしかない……。

テセの後について、二階建てのレンガ造りの建物の中に入って行く。テセはそのうち一つの扉を「ギイ」と音を立てて開いた。

部屋の中には寝台が四つ並んでいた。真っ白な布が冷え冷えと張られていた。さらにその奥には、体の大きな学生が二人背を向けて机に向かっていた。

「君たち、彼はこの部屋を使う新入生のハン・マレン君だ。アジェンナ人だが非常に優秀でカサン語は完璧だ。どうか仲良くしてやってくれ」

 次にマルに向かって言った。

「先輩達の話をよく聞いて、早く学校生活に慣れるといい。君が頑張っている所をオモ先生に報告出来る事を期待しているよ」

 テセは立ち去り、マルの背後でガシャン! と重い音を立てて扉が閉じられた。二人の上級生は、椅子に腰かけたまま、カサン人特有の細い目をさらに細めてマルの顔を凝視している。マルはイボだらけで醜かったために、これまでこんなに人にジロジロ見詰められる事は無かった。まるで獣と一緒に檻に閉じ込められたような気分だった。マルの頭は自然に垂れてていた。マルの目には硬く黒々とした石の床が映った。

「おいおい、この部屋の後輩は二人共土人かよ」

「土人にしちゃ色が薄いな。混血か?」

「そうだな。そうに違いねえ。クソ生意気な面しやがって。ピッポニアの白ねずみが土人女を孕ませて出来たんだろ」

「そうか。茶色ねずみか」

 ハハハハハ、と二つの濁った笑い声が重なる。

「おめえのピッポニアの親父は土人女と乳繰り合うとは悪趣味だな。あー? それともお袋が淫乱でピッポニアのご主人様の前で腰振って誘ったのかなあ~?」

 卑しい「妖人」で、人の嫌う病気を持っていたマルは、これまで様々な侮蔑の言葉を投げつけられてきたけれども、これ程下品な言葉は聞いた事が無い。マルは自分の耳が信じられなかった。

「おい、お前、口きけねえのか? 先輩がこれだけ喋ってやってるのによ!」

「は、はい……」

「いいか、ここの校風は『質実剛健』だ。お前のピッポニア風のチャラチャラした軽佻浮薄な精神を体から叩き出してやる。こっちに来い」

 マルはぎごちなく二人の先輩の方に寄った。

「見ろ! こいつ、女みてえに震えてるぞ!」

「本当だ! 女みてえだ!」

「女々しいピッポニア人と野蛮な土人の血のカクテルですなあ」

 先輩の一人は、いきなりマルの首元をがしっと掴むと、もう片方の手でねっとりとマルの顔を撫で回した。

(イヤだ、こんな所イヤだ、こんな所イヤだー!!!!)

 ひたすら「イヤ」の言葉だけがマルの脳の中に響いていた。

 その時、

「カラン、カラン、カラン……」

 けたたましい鐘の音が響き渡った。きっと何かの合図だったのだろう。先輩達は、いきなりマルの服からパッと手を放すやいなや、扉の外に向かって駆け出した。がらんとした部屋の中に、マルはただ一人立ち尽くしていた。

その部屋は、小説で読んで頭で思い描いてきた「獄舎」とも言うべき場所だった。マルはこれまで、脱獄囚が活躍する波乱万丈の小説を読みながら心ゆくまで楽しんだものだった。しかしああいう物語は本で読むからこそ楽しいのであって、自分に実際に降りかかる出来事となると全く話は別だった。

 マルは直後、思考ではなく本能に手繰り寄せられるかのように窓辺に寄っていた。窓にはめられた木の扉は開いていて、その向こうの空は暗くなりかけている。既に妖怪が跋扈する夜が近付いているのだ。窓には鉄格子がはめられていたが、その片側が錆びて外れており、いくらか隙間が出来ていた。体の小さなマルなら何とか通れる、というほどの隙間だった。部屋は二階に位置している。もしマルが正常な判断力を持っていたなら、恐ろしくて到底そんな真似は出来なかっただろう。しかしマルは、胸の中に沸き上がる「イヤだ、イヤだ、イヤだ」の声に突き動かされるように椅子を窓に寄せてその上に乗り、鉄格子の外に自分の両脚を押し込んでいた。そして壁一面にだらだらと流れ落ちている蔦につかまるなり、全身を窓の外に落とした。しばらくは蔦をつかんだまま体がずるずると下に落ちていたが、やがて蔦はブツンと切れて体ごと地面に落下した。足を挫いた、と思ったものの、マルは素早く立ち上がり、そのまま駆け出した。

どこに向かうという当てなど無かった。偶然にも門の扉が少し開いていたが、自分が幸運だと感じる余地も無かった。マルはただ走り続けた。もはやスンバ村に戻りたい、という気持ちも無かった。ただ逃げたかった。世界から逃げたかった。

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