第18話 タガタイ第一高等学校 4

間もなく扉が開き、一人の大柄な男が入って来た。ニアダ以外の人に会うのは久しぶりだったので、マルはとっさに身を竦めた。

(いよいよ恐ろしい所に連れて行かされるんだ!)

「やあ、久しぶりだね」

 カサン語でかけられた言葉は思いがけない程気さくだった。マルは顔を上げ、相手の顔を見返した。そして気が付いた。

(この人、カサン語大会で会った人だ! おらを会場の中に入れてくれた人だ!)

「ハン・マレン君で間違いないな? いやはや、見違えたよ。どれどれ、顔を見せてごらん」

 男はマルの肩に手を乗せた。

「驚いたねえ。こんなにきれいにイボが無くなるとは。賢そうな顔をしている」

「あのう、私はどうしてここに来る事になったんでしょうか」

 マルはおずおずと尋ねた。

「君は選ばれたんだよ。ここはアジェンナ中で一番賢い子が集められた学校だ。ここに入学を許されるということは最高の名誉なのだよ」

 名誉! また名誉! 名誉とは、愛しい人や故郷と別れて寂しい思いをする事なんだろうか?

「私は……帰りたいです……スンバ村に……そして、アロンガの学校に行って、先生になるための勉強をしたいです……」

 マルは下を向いたまま、言葉を一つ一つ押し出すように言った。大きな男を目の前にすると、言葉一つ言うのも精一杯の力が必要だった。相手は、

「ふむ」

 と言ったまま腕を組み、黙り込んだ。マルは思いを伝えようと頑張って目の前の人から視線を外さないで言い切った。しかし体の震えはずっと止まらなかった。

「君がそう言うと思ったよ。よし、分かった。今から君に見せたいものがある」

 男はそう言って立ち上がり、マルを手招きして歩き出した。

一歩外に出ると、そこには石畳の道が続いていた。長い道を幾度が曲がり進うちに、今出て来たのとは別のレンガ造りの大きな建物が見えてきた。その男について歩く間、いきなり

「オウ! オウ! オウ!」

 という、まるで妖怪達の呻きのような声が耳に飛び込んで来た。マルはギョッとしてそちらに顔を向けた。視線の先に見えたのは、数十人の少年達がずらっと二列に並んで走っている様子だった。全員が今のマルのように髪を短く刈られ、裾の短い上衣にズボンという全く同じ格好をしている。それはあまりに異様な光景だった。走っている少年達のうち、誰一人として正気の者などおらず、悪魔に憑かれているように見えた。

「あの……あれはいったい何ですか?」

 マルは恐る恐る前を行く男に尋ねた。男は振り返って言った。

「ああ、あれは教練だ。ああやってここの生徒達は肉体と精神を鍛え上げるんだ」

(教練……!)

 教練とは、軍隊の訓練のことではないのか。自分はあんな恐ろしい事をさせられるのか!? 出来るわけがない!

 やがて、大きな建物の中に入った。そこで目にしたのは思いがけないものだった。壁じゅう、上から下までびっしりと、本が背表紙を向けて並んでいた。それだけではない。広い部屋の中には、ずっと奥の方までたくさんの棚が並んでいて、その全てに本が隙間無く詰められているのだ。マルはアッと息を呑んだ。こんなにたくさんの本が世の中にあるなんて! その一つ一つにおらの知らない物語が入っているなんて! マルは壁の本の方にフラフラと近付いた。

「ああ、ちょっと待って。そこに座って」

 男は、マルをそばの机の前の椅子に座るように促した。

「ここは図書館だ。ここが君の気に入ると思ったよ。君の事はオモ先生からよく聞いている」

「オモ先生……」

「ああ、私はオモ先生の昔からの知り合いだよ。テセ・オクムだ。まあ肩の力を抜きたまえ。君は罰を与えられるんじゃない。全く逆だ。君はここで最高の教育を受けることになる。休みの日にはここに来て好きなだけ本を読む事が出来るぞ。ここはアジェンナで一番たくさん本が集められている図書館だ。ほら、窓から建物が見えるだろう。あそこが君が今日から寝泊まりする寮だ。図書館から一番近いのが君の部屋だよ」

「…………」

 マルはうつむいたまま考えた。確かにこれほどたくさんの本は魅力だ。しかし帰りたいという気持ちは変わらない。その強い気持ちをどう伝えたらいいのだろう? テセ・オクムの淀みない言葉がずっと続いている。どう口を挟んで良いのかも分からなかった。

「この学校はもともとアジェンナ総督府のカサン人官僚の子ども達が通う学校だ。しかし今年から、現地の優秀な子ども達も入学出来るようになったのだ。君はその栄えある一期生なんだよ。しかしほとんどがタガタイに住むアジュ人の貴族の子弟ばかりだ。南部のアマン人は君とスンバ村の村長の息子しかいない。

(エルメライが!)

 マルはテセの顔を見上げつつ、精一杯声を振り絞って言った。

「私はカサン語は出来るかもしれませんが、他の事は何も出来ません。教練なんかしたって銃なんて絶対打てるようになりません。どうかどうか、スンバ村に戻して下さい」

 マルの目から涙があふれ出した。男の子が人前で泣くのは恥ずかしい事だとオモ先生に何度も言われた。しかし涙を抑える事が出来ない。帰りたい。どうしても帰りたい。おらの涙を見て、この人はかわいそうに思ってくれるのではないか。マルの顔をじっと見ていたテセの上機嫌な顔が、急に険しくなった。

「君は自分の力を見くびっているようだね。君はカサン帝国に貢献できるものすごい力を持っているのだよ。いいかね、カサン帝国は立派な軍隊を持っている。すばらしい兵器もあれば、勇敢な兵士達もいる。君は『銃を打つ事が出来ない』と言ったね。なるほどその体だと立派な兵士になる事は出来まい。しかし戦争に勝つためには銃と同じ位大切な物がある。それが何か分かるかね?」

「……分かりません」

「それは情報だよ」

「……情報?」

「そうだ。君はそれをもたらす力がある。君はオモ先生にたくさんの作文を書いて渡したね。スンバ村の人々の暮らしや村に伝わる風習や物語。あれには感心した。あれこそがまさに、貴重な情報というものだ。君が書いた物はカサン軍が資料として保管している。それがどれ程すごい事か分かるかね?」

 マルは、テセ・オクムの話を聞きながら頭が混乱していた。

(この人は、おらがヒサリ先生に渡した『おみやげ』の事を言ってるの? どうして? どうしてそんな事が?)

 マルは恐る恐る尋ねた。

「私がオモ先生に書いて渡した手紙の事ですか?」

「そうだ。オモ先生が毎度報告書に着けて送ってきた作文が、我々の間でも話題になっていたのだ。けれどもそれが、現地の幼い子どもが書いているなんて誰も信じていなかったがね。しかし先日のカサン語大会で、あの作文は間違いなく君が書いたものだと証明された」

 マルはテセの話を聞きながら、体がブルブル震えるのが分かった。どうして? どうして? どうして? あの手紙はヒサリ先生のためだけに書いた特別な秘密だ。毎晩日が暮れて、紙に向かって頭に浮かぶ物語や言葉を綴る時間はヒサリ先生と自分との間の特別な時間だった。あの手紙が軍の作戦会議室の冷たい棚の中にしまわれているなんて! いったん冷え切った体の中で、次第に動悸が強まり、体が火照ってくる。

「オモ先生が、私の手紙を勝手に送ったんですか?」

「『勝手に』なんて言い方をするもんじゃない。オモ先生は君の才能がカサン帝国に貢献出来ると信じてそうしたんだ。君はオモ先生を随分慕っているようだが、オモ先生に恩返ししたいとは思わんかね。教え子がタガタイ第一高等学校に入学したとなれば大変な名誉だ」

 マルは呆然としたまま、目の前の机の木目を見詰めていた。ヒサリ先生は「名誉」という訳の分からない物のために、先生のための特別なおみやげを他の人に渡してしまったのか? 嘘だ、嘘だ、嘘だ……! 目から涙の塊がドッと吹き出す。そしてイボの無くなった顔をズルズルと滝のように流れ落ちる。

「どうした。泣く事は無いじゃないか。君が不安なのは分かる。遠く故郷を離れてここに来ているんだからね。けれども少し我慢すれば素晴らしい未来が待っているんだ」

 マルは首を振り、うー、うー、と呻き声を上げた。自分の未来も、牢獄のような場所に閉じ込められたことももはやどうでも良かった。ヒサリ先生に裏切られた。その事が、ただただ辛く、悲しかった。マルはそのまま机につっぷして拳で机を叩いて泣いた。イボの無くなった手に響く机の感触は固く、あまりに冷たかった。目の前のテセがあきれて自分を見下ろしている事は見ないでも分かった。そうだ。今の自分の気持ちは絶対に目の前の人には分からない。言えるはずもない。今、胸の中で地獄の炎がドロドロと煮えたぎっている。イボの無くなった自分は、今までとは違う何かに変身してしまったかのようだった。それこそ禍々しい妖怪の類に。

「さあ、いつまでも泣いているんじゃない」

 テセはこれまでとは打って変わって厳しい調子で言った。

「君はカサン帝国の立派な男の子だ。勇気を持ちなさい。君なら出来るはずだ。さあ、これから君が生活する寮に案内しよう」

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