第16話 タガタイ第一高等学校 2

どの位時間がたっただろうか。

箱の動きが止まったかと思うと、不意に大きく扉が開かれた。マルの目に、ぼんやりと薄い空の色が映った。

「おい、チビ、下りろ!」

 しかしマルは立ち上がる事も出来なかった。

「ええい! 下りろ! 聞こえねえのか!」

 御者はアジュ語で何やらそんな事を言っている。イボだらけのマルの体を掴んで引きずり下ろす事はさずがに出来ないらしく、その場で地団太を踏んでいた。マルがぼんやりと怒鳴る男を見詰めていると、御者は立ち去った。

やがて別の男二人に加え、たくましい体つきの女が姿を現した。三人はアジュ語で激しく話し合っている。男達はマルを見るなり顔をしかめ、首を振った。「こんなガキに触りたくない」と言っているのだろう。するとたくましい女は男達に何やら罵声を浴びせかけた後、箱の中に顔を突っ込み、マルに向かって外に出るように大きく手招きした。マルはどうにか体を起こし、箱から外に出た。そして女の後について、フラフラと足を運んだ。

目の前には、大きなレンガ造りの建物が見える。ああ、おらは一体ここで何をさせられるんだろう、とマルはぼんやり考えた。日の光が薄いように感じられる。そのせいで自分の命も半分に薄められたかのようだった。

やがてレンガ造りの建物の中に入った。床はひどく硬く、一足歩くごとにイボだらけの足の裏はまるで石で殴られるように痛かった。

女についてたどりついたのは、大きな部屋だった。マルと同じ位の年ごろの少年達が数十人詰め込まれ、突き当りの壇上でカサン語で喋る男の話を聞いている。マルは一目で、ここにいるのが、自分とは全く違う世界の子ども達だということに気が付いた。着ている物も雰囲気も、スンバ村の者達とは全く違う。マルが呆然と部屋の中を見つめていると、壇上の男がマルに視線を向け、いきなり大声を上げ、「つまみだせ!」とう風に大きく腕を振った。

 すると、部屋にいた子ども達はいっせいにマルの方を振り返って見た。その瞬間、子ども達の目が驚愕のため大きく開かれた。すると、いきなり一人の少年が立ち上がり、マルの方を指さしながら叫んだ。

「見ろ! 見ろよ! イボイボの子だぞ! すげえな! お前ら見たことねえだろ!」

 アジュ語だったが、アジュ語のよく分からないマルにも少年がそんな事を言った事は、はっきりと分かった。マルはその少年と目が会った。驚いたことに、少年はまるで猿のような顔をしている。他の少年達は、魔法にかけられて石のように固まったまま黙りこくっていた。マルをここまで連れて来た女は、再びマルを手招きして部屋の外へ出た。マルも彼女の後について廊下に出た。そのとたん、女は

「ギャッ」

 と大声を上げた。廊下に、マルの泥だらけの足が付けた足跡が付いている。それを見て怒っているのだ。

(おら、怒られても……)

 マルがその場に立ち尽くしていると怖い女の人はどこからか白い履物を取り出してマルの前に置いた。マルはそれを履くと、女性の後について歩き出した。履物を履いて歩くのは初めてだった。そしてその履物は、イボだらけの足が嫌だとでもいうように、一歩ごとに脱げて逃げそうになる。マルはたびたび立ち止まってそれを履き直さなければならなかった。

 階段を下ってたどり着いたのは真四角で、石造りの冷たい部屋だった。マルはそこが、カサンの小説によく出て来る「地下室」だと思った。小説の中の「地下室」は、貧しい人が住んでいて寒さに身を震わせながら冷たいパンを齧っていたり、罪を犯した人が閉じ込められる場所だ。女の人はマルをそこに一人残して去った。

マルは床にへたり込んだまま、辺りを見回した。少しずつ、落ち着きと正気が戻って来た。部屋には寝台と机と椅子があり、机の上に置かれたランプが部屋を照らしている。あとは何も無かった。マルはその場にじっと立ち尽くしたまま、これまで目にしてきた事を反芻した。さっき目にしたのは一体どんな子達なんだろう? 同じ人間だろうか? 仮に妖怪であっても、あんなに遠く感じはしないだろう。星の国の子ども達だろうか? その中でたった一人、おらを指さして「見ろ! イボイボの子だぞ!」と叫んだ猿顔の背の高い少年だけが、現実世界の人間に見えた。

マルは木の扉に近付いた。そこには丸い出っ張りが付いていた。それをつかんで動かしていると、扉は外に向かって少しばかり開いた。次の瞬間、スパッスパッスパッという廊下全体に響き渡るような足音が聞こえたため、マルは慌てて扉を閉めて床にしゃがみ込んだ。間もなく、扉をガンガンと蹴る音がした。マルが扉を開けると、さっきの女の人が両手に銀色の板を手にしていた。彼女は机の上にそれを置き、アジュ語で何か言って出て行った。板の上には、マルが見たことの無いピカピカ光る銀色の皿が三つ並んでいる。パンと肉と野菜、そしてスープだった。オモ先生にもらって食べた事のあるカサン料理だった。しかしマルは全く食べる気がせず、床の片隅に座り込んだまま自分の足を見詰めた。

足のイボがまた一つ剥がれそうになっている。マルはそれを指でつまんで取った。イボが取れた後は今までのように新しいイボが生えて来ることはなく、すべすべした肌に変わっていた。その色はアマン人らしい褐色にもピッポニア人のような白にも見えた。部屋の中だから白っぽく見えるのだろう、太陽の下ならもっと濃い褐色に見えるはずだ。マルはそう思おうとした。そのうちガタガタと体が震えてきた。そして、今まで感じたことのないような感覚が体の周りから押し寄せてきた。

(きっと北の妖怪だ! こんな妖怪、会った事が無いもの!)

 マルはとっさに藁の中に入ってぬくもりたいと思った。しかし藁は部屋のどこにも無い。

震える体のまま机に近付き、湯気を立てているスープを飲んだ。お腹が空いているわけではない。ただ自分でもよく分からないまま、これを口にすれば体が暖かくなると思った。マルはお盆の上に乗せられたアジュの料理を貪るように食べた。皿の下には白い紙が敷いてあった。それを目にした瞬間、ふと、ある事を思いついた。

(そうだ、書こう、おらがここに来るまでに見た恐ろしい事をみんな……)

 どんなに苦しい時も悲しい時も、書くことでいつしか心が落ち着いてくるのだ。自分のことを書けば自分が物語の登場人物のように思えてくるし、妖怪たちのしてくれたおかしな話を書き綴っていると嫌な事を忘れる事も出来る。

「ヒサリ先生……」

 マルは一言呟き、紙に鉛筆を走らせ始めた。ヒサリ先生はどうして自分を守ってくれなかったんだろう? きっと何か事情があったのだろう。けれどもどんなに自分がつらかったか、恐ろしかったかをヒサリ先生に知ってほしい。そうすればヒサリ先生は、「よく耐えました。頑張りました」と言ってくれるんじゃないか。

 マルは身に着けたぼろの中を探って鉛筆を取り出した。そして書いた。紙を半分程埋めた頃、自分をここまで連れて来た女の人がやって来た。両腕に厚手の布を抱えていて、寝台に近付くなり、その上にザバッと広げた。マルはそれが、北の国の人達が体にかけて寝るものだと気が付いた。それをかける事で「寒さ」から身を守るのだ。マルは、今自分が感じているのが「寒さ」というものだと思った。女の人はマルの方を振り返り、寝台を指さして何か言った。「ここで寝ろ」という事だろう。

「ありがとう」

 マルは知っている数少ないアジュ語で答えた。女の人は空になった皿に近付くと同時に、カサン語の文章が綴られた紙に気が付き、手に取った。

(怒られる……!)

 マルはとっさに身を竦めた。女の人は振り返り、しばらくマルの方を怪訝な様子で見詰めた後、空の皿を乗せた板を持って立ち去った。

マルは、紙に言葉を綴っても怒られないと分かると、そのままひたすら紙をカサン語で埋め尽くした。もう書く所が無くなると厚い布の下に潜り込んだ。それは今まで自分が寝ていた藁のように心地良いものではなかった。しかし、初めて経験する「寒さ」を防ぐためにはこうするより他無かった。

 布団の下に入っても、マルはしばらく寝付くことが出来なかった。布の下で、マルは体を固くしていた。

(まるで呪いの魔法にかかって石になってしまったみたい……)

ここには自分を慰めてくれる月の光も風の声も楽器のスヴァリもいない……。マルは、古い伝承歌で伝えられる、石の牢屋に閉じ込められた英雄エディオンの物語を思い浮かべながら、じっと目を閉じていた。

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