第14話 別れ 14
ナティは暗闇の中を走りに走った。
自分は今どこに向かっているのか。家か? しかしそんな所に戻っても安らぐことは出来ないのを知っていた。マルのいなくなった世界なんて、寝床を失った家と同じだ。
(俺は、いつかこんな日が来るような気がしてたんだ。魔女がマルを遠くへ連れて行っちまうんじゃねえかって……オモ・ヒサリがその魔女じゃねえかって。だけど今、オモ・ヒサリのカオ見てはっきり分かったぜ。あの女もマルをここに引き留めたかったけど出来なかったんだ。もっとでかい、とてつもない力がマルをここから連れてっちまった……!!)
今、ナティの胸にあるのはマルを連れ戻す事だけだった。しかしどうやって? ナティには想像もつかなかった。タガタイはあまりに遠い。そして戦う相手はナティの知るどの妖怪よりも、人面獅子よりも遥かに凶悪な、正体のよく分からない敵なのだ。
ナティが自分の家にたどり着いた時には、怒りとやるせなさで足元から崩れそうだった。魚の油を灯しただけの薄暗い部屋の中で、父ちゃんが相変わらず一人でヤシ酒を飲んでいた。双子の弟達は既にハンモックに体を横たえ、かわりばんこに寝息を立てている。ナティは父親に帰った事を告げる気にもなれず、黙って自分のハンモックに向かった。するといきなり
「おい」
と声がした。ナティは驚いた。父ちゃんはいつでもナティのことなんか見えてないかのように酒を飲んでばかりだ。近頃は自分に話しかけてくる事もめったに無かった。
「なんだよ。俺は疲れてんだよ。用事なら明日にしてくれ」
「明日でいい。明日、学校の友達からきれいな服を借りて、水浴びして、アッサナック家に挨拶しに行け」
アッサナック家は「森の際」地区一番の金持ちで、姉ちゃんの嫁ぎ先だ。姉ちゃんは二人目の子をみごもってるけど、もう生まれたんだろうか? でもだとしたら産婆の母親から聞いてテルミが知っているはずだ。それに一人目が生まれた時もわざわざきれいな服着て挨拶に行け、なんて事は言われなかった。
(どういうことだ……?)
怪訝な思いで父ちゃんの方に顔を向けた。
「アッサナック家の下の息子が、お前を嫁に欲しいと言ってる。ありがたい話だ。お前のような奴をもらってくれる男なんぞ、他にいねえからな」
ナティはショックの余り言葉を失った。
(パンジャが……!)
ナティの体の芯から震えが沸き上がった。思い返せば、近頃パンジャが気持ち悪い目付きで自分を見ている事がよくあった。ナティは黙ってハンモックに自分の身体を放り込んだ。そしてきつく拳を握りしめた。
(俺は嫌だ……! マル、俺はどうしたらいい? マル、お前がここにいたら止めてくれるよな?)
ナティはいつもつらい事悲しい事があるとマルに会いに行っていた。マルが何かしてくれるわけでもなければ妙案を考えてくれるわけでもない。けれどもマルと会っていると、不思議と怒りや悲しみの気持ちがおさまり、良い考えが浮かんだものだ。しかしマルはもういない。ナティは横になったまま、闇に向かってカッと目を開いた。そして長いこと闇を睨み続けていた。
やがて、父ちゃんの空気を割るようないびきと弟達のいびきが絡み合って聞こえてきた。ナティはむっくりと体を起こした。そしてハンモックから降り、扉を押し開けた。ナティはそのまま家を出た。後ろ手にそっと扉を閉めた時、ナティはもうこの家に戻る事は決して無いだろう、と思った。ナティは闇の中を早足で進んだ。遠くに吸血女の叫び声が聞こえる。吸血女の跋扈する時間だが、ナティにとっては鳥の鳴き声と同じようなものだった。あんな連中はかわいいもんだ。マルを連れて行った連中に比べたら。
ナティはいつしか川のほとりにたどり着いた。満月は明るく、濃紺の空に黒い木々の梢を浮き上がらせている。ナティはその中のとりわけ大きな木に近付いた。
ガキの頃、あの木の根元で、マルとマルの母ちゃんと出会ったんだ。木は頑丈で、あの恐ろしい洪水にも耐えた。しかし木は残っても、あの根っこのとこに住んでいたマルとマルの母ちゃん、兄ちゃんの姿は既に無い。自然に涙が頬を流れた。
(ああ、俺はこれからどこへ行けばいいんだ……)
ナティは答えを求めるかのように、巨大な木の幹に手を触れた。
闇の底が不意に明るくなった。
「誰だ!」
振り返る。一つの明かりが揺れながらこっちに向かって近付いて来る。返事は無い。
(誰だ? こんな時間にここに来る奴なんて)
ナティは明かりに向かって目を凝らした。人間の明かりだ、と思った。かつてマルと夜何度もここで遊んだ。それ程危険でない妖怪の類が現れることはあっても、人間が現れた事などない。ナティは体を固くしたまま、光に向かってじっと明かりを睨んでいた。明かりを手にしてやってきたのは一人の男。アマン人の男だった。腰巻だけの格好で、どうやら自分と同じ妖人だ。スンバ村の「森の際」地区の者ならたいがい見覚えがあるはずだが、ナティには相手が誰か思い浮かばなかった。息を詰めて凝視していたが、明かりの方が自分を捉えるだろう、という距離まで近づいたとき、ナティは先に男に向かって声を放った。
「誰だ!」
相手はそこに人がいると知って驚いたらしく、ピタッと動きを止めた。少しの沈黙の後、相手は口を開いた。
「その声は、ナティか」
ナティはハッとした。
(俺を知ってる!)
「誰だ……お前誰なんだ!」
ナティはつい攻撃的な口調になった。自分の知らない奴が自分の事を知っている、というのは気持ち悪い。
「やっぱりナティだな。相変わらずだな。ここに住んでいたお前と仲良しの奴はカサン人に連れて行かれたらしいな。俺はあいつの兄貴のオムーだ」
ナティは思わず声を漏らした。明かりがグイとナティの方に寄った。オムーは明かりを持ち上げ、しばらくナティの姿を見詰めていたが、やがて感慨深げにこう漏らした。
「大きくなったな」
ナティの胸に、一挙にいろんな思いが込み上げた。なぜ彼は、幼い弟を置いて突如姿をくらましたのか。マルは「兄ちゃんは物乞いよりも良い仕事に就くための学校に行った」と言っていたけど、ナティは全く信じていなかった。
ニジャイは言っていた。オムーは牢屋のような所に入った。それはオモ先生の差し金だ。なぜならオムーはマルをオモ先生の学校に行かせまいとしたから、オモ先生はオムーが邪魔だと思ってそうしたのだ、と。ナティはオモ先生の事が嫌いだったが、さすがにそこまでひどい事をするとは思っていなかった。
「これまでマルを置いてどこに行ってたんだ?」
「地獄ってどういう所か想像したことがあるか? 無いなら教えてやろう。俺がいたのはそれに限りなく近い場所だ」
「牢屋に入れられたっていう奴もいる」
「まあ似たようなもんだ。俺はあそこに着いた最初の日から、どうやって脱出するかばかりを考えていた。そして誓った。俺をこんな目に合わせた奴には必ず復讐すると。マルも多分同じような場所に入れられたんだろうな」
ナティは思わずウッと呻いた。
「そこはどんな場所だ?」
「自由というものが全く無い。小便する回数も息を吸う数も、瞬きの回数まで決められているような場所だ。俺が行った場所は不良の巣窟だったが、マルの行った所は恐らくカサン人のお気に入りばかりが集められている。そしてマルはいずれそこに馴染んで、心の中までカサン人になってしまうだろう」
「嘘だ! そんなことねえ! マルは絶対カサン人にはならねえ! ここに戻って来る! 戻って来ねえんなら俺が連れ戻してやる!」
「どうやって?」
オムーが言った。
「知らねえよ! とにかく俺はタガタイに行く! マルの居場所を突き止める! それから……」
「それから?」
ナティは返事に窮した。ただ声を詰まらせたまま相手を睨むように見返すナティーに対し、オムーは言った。
「一人じゃ何も出来んだろう。俺と一緒に来るか? 俺には仲間がいる」
ナティは、あかあかと照らし出されたオムーの顔をじっと見た。長い前髪によって顔の半分と片方の目が覆われているせいで、その表情はよく分からない。オムー。マルの兄ちゃん。人懐こいマルと違って、とっつきにくい奴だと思っていた。マルとは正反対の性格だ。マルのイボイボの下の顔は、多分、オムーの顔とは似ていない。でも、それでもオムーはマルのたった一人残った肉親なのだ。
「うん。行くよ」
ナティは言った。オムーは頷いた。オムーは背中を見せて歩き出した、ナティはその後に続いた。その背中が行く道こそ、今の自分が進むべきたった一つの道なのだ、と思いながら。
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