第13話 別れ 13
ヒサリは自分の寝泊まりする小屋に戻った後も、しばらく呆然としたまま何一つ手がつかなかった。
この地に赴任した時からずっと、あの子の鈴を鳴らすような笑い声がヒサリと共にあった。あまりに無邪気で天真爛漫な子で、さんざん手を焼いてきたけれど、間違いなくヒサリの生活に張りをもたらしてくれていた。もうあの子の声を聞けない、もうあの子から「おみやげです!」と差し出された手紙を受け取る事も無い。ああ、明日から自分は一体何を支えに教壇に立ったらいいのか。
ヒサリが机についたままぼんやりしていると、扉を激しく叩く音と、
「開けろ! 開けろ!」
という声を聞いた。
(あの声はナティ!)
同時に、
「やめて、ちょっと落ち着こうよ!」
というテルミの声。ヒサリはグッと息を呑んだ。マルはこの森の際地区の人気者だ。みんながあの子の無邪気な笑い声や澄んだ歌声を愛している。彼がいなくなった事について、会う人ごとに自分が説明してやらなければならない。その役割は自分にある。
ヒサリは立ち上がり、扉のかんぬきを開いた。扉の向こうでは、今にもヒサリに向かって飛びかからんばかりの勢いのナティに、テルミが必死にしがみついている。
「マルが連れて行かれたんだってな! どういう事だよ! お前知ってんだろ!」
「待って! 待ってよ! オモ先生だって事情を知らないかもしれないし! 落ち着いて話そうよ!」
ナティとテルミの目が揃って自分の方に向けられたのを待って、ヒサリはゆっくり口を開いた。
「テルミ、あなたはもうじきアロンガの看護学校に行きますね」
ヒサリはテルミの目を見て言った。テルミは頑張り屋で知識欲も旺盛な生徒だったが、家が貧しいため、はなから進学は諦めていた。ヒサリはそんな彼のために進学の道は無いかとあれこれ探ってみた。彼の家業は産婆で、彼自身、男の子ながら産婆の仕事の手伝いをしている。カサン帝国が設立した助産婦の学校もあるが、そこは女子しか募集していない。最終的にヒサリが彼に勧めたのは軍付属の看護学校だった。ここで専門的な教育を受け、通算十年以上軍の機関で働くと授業料が免除になるばかりか給料ももらえる。貧しい子ども達にとって、看護師は花形の職業である。ヒサリが推薦状を付けテルミを看護学校の試験を受けさせたところ、見事合格したのである。
「マルもアロンガに行ったんですか!?」
テルミの言葉には、いくらか希望の響きがあった。
「いいえ。タガタイです」
「タガタイ!?」
ナティのテルミも一瞬言葉を失った。
「なんでだ……」
ナティは怒りも忘れたように呆然と言った。
「カサン総督府が決めた事です。私よりもずっと上の立場の人達が、彼をカサン帝国にとって有用な人間だと判断して決めたのです」
言いながらヒサリの声は震えた。こんな決定をした上の人々が、心の底から憎いと思った。しかしヒサリは決して二人の前で決して涙を流すまいと顔を引き締めながら、自分に言い聞かせるように言った。
「タガタイの学校へ行くことで、彼の将来は保証されたようなものです。村長のエルメライや役人のサンの父親よりもっと高い地位につけるということです。私たちが彼と一緒にいたい余りに、彼の将来を潰すことがあってはなりません。そんな事、決して許されないのです」
ナティは、ヒサリの顔をじっと睨むように見つめながら話を聞いていた。聞き終わった時には、すでに怒りを自分の中に封じ込め、落ち着いていた。
「……そうか、つまりそういう事だ。あんたよりもっと権力を持った糞みてえな連中がマルを連れて行ったってんだな。だったらあんたに言ってもしょうがねえ。俺が力ずくで糞からマルを取り戻す」
「それはカサン帝国に刃向かうという事です」
「だから何だ。カサン帝国様が何だ。汽車だの道路だの立派な建物だのくれたって、マルを連れてったんじゃあ盗人も同然だ! そんなもん、マルひとりに代えられねえんだよ!」
ナティは低く押し殺した声で言うなり、クルッと背を向けて小屋から出て行った。残ったテルミは、ヒサリをいっしんに見つめながら言った。
「マルはタガタイの学校に行ったんですね。偉い人になるために。学校を卒業したら戻って来るんですよね? そして川向うでエルメライやサンみたいな大きい家に住んで、そしたらおらも家に呼んでもらえるかな」
ヒサリはテルミの今にも涙で膨らんだ目を見ながら、
「ええ、きっと戻って来ますよ」
というのが精いっぱいだった。しかしナティは知っているのだ。カサン帝国は決してマルをここには戻さない、という事を。
「オモ先生、川べりにスヴァリがいたんです」
テルミが後ろに手をまわし、マルがいつも背負って歩いていた楽器を見せた。ヒサリは、テルミが「スヴァリがいた」などとまるで人間であるかのように言うのに驚いた。テルミは、ヒサリの表情に気付いたのか、こう説明を加えた。
「これには、洪水で死んだ女の子の魂が宿ってるんです。マルがいなくなって寂しがってると思います。マルが戻って来るまでうちで預かってもいいですか? 私はアロンガに行きますが、母や妹達がマルに代わって大切にしてくれると思います」
「そうね。そうしたらいいでしょう」
ヒサリは答えた。
テルミが帰ってしまって、ヒサリは再び一人きりになった。ヒサリは机についたままぼんやりと考えた。カサン帝国はこの国の民にたくさんの物を与えた。豊かにした。それは間違いない。しかしカサン帝国の建てたダムが少女の命を奪い、マルの母親や兄さんの命を奪った。そして今、マルまで奪い去ろうというのか。そんな事、決して許される事ではない。
ヒサリは横になってもなかなか寝付けなかった。マルがもうここにはいないという悲しみだけではない。ナティの怒り、テルミの涙……。様々な感情が激しい波となってヒサリに打ち寄せて、止むことがなかった。
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