第12話 別れ 12

ヒサリが馬上でずっと握りしめていた手綱は、いつしか汗でドロドロになっていた。目の前の石畳の道を手繰り寄せたい気分だった。

(マル、マル、あなたは今一体どこにいるの? 話がしたいの。あなたを抱きしめたい! どうか間に合ってほしい! ああ、神様! 少しだけ時間を下さい!)

 ヒサリがスンバ村にもうじき到着しようという時だった。石畳の道の向こうから、一台の馬車がやって来るのが見えた。ヒサリはアッと叫びそうになった。このあたりでは見かけない箱馬車だ。しかも御者は色の黒い北方のアジュ人。ヒサリは直感的に、あの馬車にマルが乗せられているのだ、と思った。

「待って! 止まって! 止まって!」

 ヒサリは馬車の前に自分の乗っている馬ごと飛び出し、馬車の行く手を遮った。

「私はカサン軍付属の教師のオモ・ヒサリです。後ろの荷台には私の教え子のハン・マレンが乗っているのではないですか!?」

 御者から、カサン語の返事が返って来た。

「そうだ」

「あの子と話をさせてください」

「ダメだ! すぐにこの子をタガタイへ連れて行く。命令だ!」

「いいですか! 私はあの子の教師なんですよ!」

 ヒサリは強く言った。そして自分の馬で馬車を通せんぼさせたまま、自らは馬から降りて馬車の後ろ側に回った。箱型の荷台の後ろ側には窓があった。窓の柵につかまるイボだらけの小さな手が見えた。直後、少年の顔がのぞいた。マルはヒサリの顔を見るやいなや、悲痛な声で言った。

「ヒサリ先生! ヒサリ先生!」

 彼の声が懇願している。ここから出して欲しい! どこにも行きたくない! この地でずっと、自由気ままに生きて行きたい……! しかしその瞬間、ヒサリは自分の役割を悟った。引き留めてはいけない。カサン帝国の教師として、彼の成功を願い、立派なカサン帝国臣民になる事を願わなくてはならない。厳しく突き放した方が彼の覚悟も決まるだろう。マルと目が会った瞬間、ヒサリの口から出たのは、自分でも信じがたいような、刃物のような言葉だった。

「ハン・マレン! あなたはこれからタガタイの学校に行くのです! 大変な名誉なのです! つらい事もあるでしょうが、頑張りなさい。困難にあっても、あなたはそれを表現する言葉を持っているのですからね」

「ヒサリ先生―――!!!」

 箱から出る事がかなわないと分かった少年は、悲鳴に近い声を上げた。ヒサリは耳を塞ぎたかった。それ以上マルの顔を見ることが出来なかった。ヒサリは素早く御者の方に回った。

「さあ、あの馬をどけてくれ。急いでるんだ」

 御者は忌々しげに言った。北部の人間はおっとりした南部人に比べ高慢だ。たとえ相手がカサン人でも、田舎の女教師だとバカにしているのだろう。

「どうかお願い。タガタイまでは長い道のりなので、この中に柔らかい藁を敷いてやってちょうだい。それから何かおいしい食べ物を買ってやってほしいの」

 ヒサリは持っているありったけのお金を御者に渡した。御者は、若い女が必死に頼み込んでいるのを冷やかすようにニヤリと笑い、口にくわえた楊枝を上下に動かしながらヒサリから金を受け取った。

ヒサリは、馬車の行く手を遮っている自分の馬の手綱を取って引き、道の脇に寄せた。馬車が走り出した。ヒサリはもう一度マルに声をかけたいと思い、荷台に向かって走った。しかし馬車は瞬く間に遠ざかって行く。既にマルの顔は見えず、柵を握りしめた少年の小さな手だけが見えた。ヒサリは口を開いた。しかし喉が詰まったようで、言葉が出て来なかった。ヒサリは呆然としたまま両手を合わせた、それが、ヒサリのマルに対してできるたった一つの事であった。柵を握りしめる少年の小さな手に向かって祈る事。それ以外、何一つ出来る事はなかった。

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