第7話 別れ 7

ヒサリがカサン文化部隊のアロンガ支局に到着した時には、既にとっぷり日が暮れていた。支局の門はすでに閉じられている。しかしテセ・オクムは支局の建物に併設する家屋に住んでいるはずだ。

ヒサリがレンガ造りの家屋に取り付けられた鉄の扉を激しく叩くと、アマン人らしい使用人の女性が姿を現した。ヒサリが

「至急の用があるのでテセさんに会わせて下さい」

と告げると、家の奥に姿を消した。代わって現われたのは、テセ・オクム本人ではなくテセの妻だった。テセの妻はヒサリの様子にすっかり驚いた様子だった。

「どうしても、今すぐ、オクムさんに話さないといけない事があります。会わせていただけませんか!」

「オクムは今、タガタイに行っているのですよあとひと月程ははあちらにいます」

 ヒサリは足元から崩れそうになった。

「居場所を教えて下さい! 私、すぐにタガタイに向かいます!」

「まあ落ち着きなさい。オクムじゃなきゃいけないの? 明日はトイさんがここに来ます。トイさんに話してみたら?」

「トイさんって誰ですか? 私、その方に会ったこと無いんですが」

「カサン文化部隊の偉い方よ。明日の朝には来るはずよ」

「分かりました朝、一番にここに来ます」

 ふらふらしながら出て行こうとするヒサリをテセの妻は引き止め、二階の空き部屋に泊まるように勧めた。ヒサリの様子が普通でない事を心配したのだろう。

 ヒサリは、家屋の二階の部屋に入っても全く落ち着くことが出来なかった。自分がマルの才能を偉い人に知らしめようとしたことが、まさかこんな結果を招くなんて! マルは川のせせらぎや月の光と共に生きてきた子なのだ。冷たい校舎の中に押し込められるような子じゃない……。

開いた窓から見える月はほとんど満月に近かった。この国で見る月は、カサンで見る月とは全く違って見える。

「おお、アジェンナの月よ」

 ヒサリはアマン語で祈った。この地の言葉で願えばこの地の月がかなえてくれるのではという淡い祈りを込めて。

「どうかあの子を守って下さい。それからこの地の妖怪たちよ、私には決してその姿を見ることができない妖怪達よ、どうかあの子の手を離さないで! あの子をここに引き留めて! あの子を傷つけようとする者を呪い殺して欲しい!」

 ヒサリは寝台に横になり眠ったかと思ったらすぐに目覚める、その繰り返しだった。マルは今どこにいるのか。生まれ育った川のそばに横になり、妖怪の声を聞きながら眠りについている頃だろう。今、彼の体を妖怪の手よりも強大な力が掴もうとしている。

明け方近くになると、ヒサリはまだ暗いうちから窓辺の椅子に腰かけ、トイ氏の到着を待った。

 いつしか、ヒサリは椅子に座ったままうつらうつらしていた。しかし、突如まどろみをかき回すようなものすごい物音にハッと目覚め、窓の外を見た。そこには一台の黒い自動車が停まっている。ヒサリは自動車をカサン帝国首都のトアンで見た事はあったが、アジェンナで目にしたのは初めてだった。ヒサリは椅子から飛び上がるように立ち上がり、階下に駆け降りた。そして扉を開けて入ってきたトイ氏の前に飛び出した。

「おお、君がオモ・ヒサリ先生かね」

 トイはヒサリを見て行った。トイはテセとは対照的に痩せていかにも神経質な小男だったが、ヒサリを見るなり思いがけず笑顔を見せた。

「オモ先生、この度はやりましたな。あなたの教え子がタガタイ第一高等学校の生徒に選ばれたとは! 実にあっぱれだ! この上ない名誉ですぞ!」

 ヒサリはトイの言葉を遮って言った。

「どうかこの話は無かった事にしてください! タガタイ第一高等学校への入学の話は撤回して下さい! どうかお願いします!」

「何!?」

 トイ氏の表情がみるみる険しくなった。ヒサリは、相手の顔をまっすぐ見据えたまま、マルがカサン第一高等学校の教育に耐えられる子ではない、という事を切々と訴えた。ほとんど息も止まってしまうのではないか、という勢いで。

「まあ、落ち着いてそこに掛けたまえ」

 トイ氏はしゃがれた、重々しい声で言った。

「オモ先生。あなたは神聖なカサン帝国があなたのような優秀な教師をこんな僻地に送り込んだ理由を理解しておられぬようだ。それは獣のような土人の子供達を一人でも多くカサン帝国の忠実な臣民にするためですぞ。タガタイ第一高等学校の生徒になれるのは最高の栄誉だ。これを拒むという事は、カサン帝国に対する反逆とも受け取られかねませんぞ」

「分かっています! 十分に分かっています! でもこの子は、この地で最も貧しい生活をしてきました。カサンの子達と全く違う環境で暮らしてきたんです。カサン式の生活様式を身に付けさせるのは無理です。でもあの子はあの子なりにこの地でカサン帝国に貢献することが出来ます。私はあの子をアロンガの高等学校に行かせ、教師の免許を取らせます」

「ああ、それはいかん」

 トイは石のような拒絶の言葉を放った後、ヒサリの顔をじっと見返していたが、やがて、いくらか低く声を落として言った。

「オモ先生、いいかね、我々が苦労してここの子供達に教育を施しているのは、彼らをカサン帝国の臣民かつ勤勉な労働者を育てる事だ。その事は分かっているね」

「はい」

「ただし賢すぎる子供というのは往々にしてやっかいな存在だ。この事は歴史が証明している。彼らは常に反逆的な思想の誘惑にさらされておる。中央の管理の目が行き届かぬ田舎の学校の教師になどなると、ますますその危険が高まる」

「そんな事、絶対にありません! 私がしっかりあの子を管理します」

「さあ、それはどうか。私にはオモ先生があの少年をいくらか甘やかしすぎているように見えますがな。実は、彼には既に、反カサンゲリラとも接触しているという情報も上がって来ているのですぞ」

「まさか! そんな事あり得ない!」

 ヒサリは叫ぶように言った。

「知らぬはどうやらオモ先生ばかりのようですな。実はせんだってのカサン語大会の後も、ハン・マレン君の処遇に対し相当な議論が行われた。あの少年には反逆の芽がある、と言う者もいた。いずれにせよ、あの少年をそのままにしておくのは危険だ、というのが我々の一致した見解だった。その中でテセ氏や何人かの者の強い後押しで、晴れてタガタイ第一高等学校への入学が決まったのだ。ここでハン・マレン君へのゆるぎない帝国への忠誠心を養ってもらう。これは少年にとって実に幸運なことだ。いいかね。もしかしたらあの少年は大会の後、不慮の事故で死んでいたかもしれないのですぞ」

 ヒサリはアッと息を呑んだまま、言葉を失った。それはまさに、カサン帝国軍が反逆の芽のある優秀な植民地の子どもを密かに抹殺している、という告白に他ならなかった。ヒサリは、相手の口からほのめかされたそのおぞましい事実にゾッとした。自分がマルをカサン語大会に出したくない、と漠然と感じた理由はそこにあったのか。撤回は不可能なのだ。これは彼の死を意味する事なのだ。ヒサリは頭を垂れたまま、じっと椅子にうずくまっていた。傍で一部始終を聞いていたテセの妻が口を開いた。

「カサン第一高等学校に? あなたの教え子が? 大変な名誉じゃないの! どうして断る事なんかあるの? 私の息子も入れなかったのよ。卒業すれば高級官僚になれるのよ。オクムのように文化部隊の要職に就けるかもしれない!」

 ヒサリはテセの妻の言葉を聞きながら思った。あの子をタガタイに行かせまい、とするのは私のエゴなのかしら? 私の傍にずっとあの子を置いておきたいという。あれ程の才能のある子が田舎の教師で終わっていいはずがない。可能性を妨げる事は許されない。

「でも、あの子があの学校に耐えられるかどうか心配なんです。もしかしたら命を絶ってしまうのではないかと……」

「神聖なカサン帝国の教師であるあなたが、そんな心意気ではいけませんよ!」

 テセの妻が、急に厳しい顔つきになって言った。

「そこを説得して、その子に強い気持ちを持たせるのがあなたの役目でしょう? オモ先生、私も昔は教師をしていました。教え子の中には軍隊に入りたいと言う子もいましたよ。もちろん私は教え子の身を案じました。だからといって軍隊に行く事を止めるのですか? 国のために命を捧げるという崇高な思いを妨げるのですか? 彼らは困難に身を捧げる事で、より大きな名誉というものを手にするのです」

 ああ、「名誉」! マルがどうしても理解出来ないらしい「名誉」! 自分は生徒達にさんざん「名誉」という事を言ってきたけれどもそれは命にまさると言えるのか、という思いが、今ヒサリの胸を満たす。ヒサリはここに至って、マルのタガタイ行きを止める事は決して出来ない事を悟った。ならばせめてあの子に出来る限りの心構えを伝えたい。そして抱きしめてあげたい。この後いつ会えるかも分からないのだから。

 ヒサリはただちに馬に乗り、スンバ村へ向かった。何としても彼を探し出すのだ。彼とあとどの位一緒に過ごせるだろうか? 彼に何を伝えようか、その事ばかりを考えながら、普段ほとんど使う事の無い鞭を馬の尻に当てて、休みを与える事無く走らせた。

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