卵生の埋葬

横嶌乙枯

卵生の埋葬

 姉が彼女を殺し山に埋めて帰って来たその夜、俺に真ん丸の卵を手渡した。バレーボール程の大きさだった。


 外は雨が降っていたのだろうか、絹糸のように細い黒髪が緩やかな曲線を描いて頬にへばりついていた。恐らく泣いていたのだろう。アーモンド状の綺麗な形をした両目が赤くなっていた。


 受け取った卵は丈夫そうな作りをしていた。姉の体温が移っていたのだろうか、触ったら仄かに温かかった。





 子供の頃に両親が離婚した。父の浮気が原因だった。


 俺達姉弟は母に引き取られたが、暫くして母が山で首を吊って死んでしまった。それを発見したのは姉だった。親戚と姉に阻まれ、ついに俺は母の死体を見せてはもらえなかった。次に会った時、母はころころとした白い骨になっていた。長い箸で拾って壺の中に落とした。


 涙は出なかった。


 風の噂で、父も仕事中の事故で亡くなったと聞いた。父と違う姓を名乗ってから五年も経っていない頃だった。それからというもの、歳の離れた姉とたった二人で暮らしてきた。


 姉は勤勉で、優秀だった。良き姉であり、母であろうとした。だから俺を溺愛した。両親がいないことで連鎖的に生まれた寂しさを、俺の存在ひとつで全て埋めてしまうつもりだったのだろう。俺はしばしば、姉の恋人になった。


 姉は自分の部屋に、俺との写真を何枚も飾っている。俺にもそうするようにと強制してきた時は流石に嫌だと突っぱねたが、譲歩と妥協を幾度も繰り返して、やたら大きな写真立てに二人揃って写った写真を部屋の目立つところに飾るのみとなった。額の中で憮然とした表情の俺と、柔らかな笑みを浮かべる姉が並んでいた。


 姉弟ともに、決して溌剌とした性格ではなかった。しかし、仲は悪くなかったと思う。俺は姉を拒絶しなかったし、姉は俺を甘やかすことによって俺に甘えていた節がある。母のように振る舞う様子を眺めながらいつも思っていたことだった。


 姉は自分の寝室に俺を入れることを嫌がるくせに、俺の自室へはノックもせずに入ってくる。俺が何をしていようと、好きな時に、好きなように俺へ接するのが常だった。抱き着かれようと、頬をつつかれようと、キスをされようと、ベッドに押し倒されようと。拒みでもすれば面倒臭いことになるからと、姉のしたいようにさせてやるのが常だった。


 姉にとって俺はいつまでも庇護対象であった。姉は、一から百まで指示をし助けてあげなければ弟は死んでしまうのだと信じ込んでいた。自分の指示に従わなければ、その瞬間から「悪い子」なのだと諭しに掛かる女だった。姉にとって俺は、嘴から餌を与えなければ生きてはいけない雛鳥だった。俺はそれを受け入れたまま成長した。反抗するのも馬鹿らしくなっていた。





 憔悴した様子の姉は無理矢理微笑みを浮かべて、俺を一度抱き締めてから囁いた。何もかも大丈夫よ。そう言うと自分の寝室へと入っていった。もう寝るらしい。これは一体何なのか、それを聞く暇もなかった。姉は余計な会話を嫌った。


 改めて、自分の腕の中にある卵を見下ろした。頭上に掲げてみると、電灯の柔らかな光に薄らと照らされて中が透けて見える。凹凸が多い、何だかよく分からないものが入っているらしかった。暗色の影をひとしきり観察し終えると、急に卵が冷えたように思えて触れている部分に鳥肌が立った。


 ああ、寒いのだな。と呑気に考えながら、風呂場からありったけのタオルを持ってきて卵を包んだ。再びそれを抱き、自らの体温で温めた。





 姉と彼女との間に何があったのかは知らない。しかし、姉が激昂した時、感情に任せて何かを埋めてしまう癖は知っていたので、やはり彼女が姉を怒らせたのだろうと思った。


 以前にも姉は、俺の同級生を一人埋めている。理科の授業中、家庭に関する悪口を小声で言われ、俺がかっとなった。取っ組み合いになったが、体格差があった為に俺の身体はホルマリン漬けの生き物だったもの達の棚へ強かに投げられてしまった。肘でガラスの戸を割ってしまい、皮膚が裂けた。その時に鋭く叫んだ女子の声は今でも耳に残っている。


 その話を聞きつけた姉が最初に取った行動は、闇討ちである。下校途中、そいつが一人になるのを待って後ろからスコップで殴ったらしい。草が鬱蒼と生い茂った空き地の一角でせっせと穴を掘っている姉を、完全に日が暮れてしまう前に見つけ出せたのは奇跡だった。何とか宥めようとしたところ、顔を数回引っ掻かれてしまったのを覚えている。


 姉は非常に怒りっぽい女だった。





 自室のベッドの上で卵を抱いていると、カーテンの隙間から朝が来ていた。ほんの少し寝てしまっていたようだ。片手で窓を開けると少しばかり強い風が部屋の中に吹き込んできた。


 中身が殆ど入っていないカラーボックス上の埃が舞い上がると共に、立て掛けていた写真立てが風に煽られて床に落ちた。甲高い音が床から響いて部屋の中に木霊した。


 空気中に漂う埃が朝日に照らされ、輝いた。死刑囚が迎える最期の日の朝を連想した。山の天辺から太陽が半分ほど頭を覗かせていた。


 徹夜はもちろん不必要な夜食や外泊さえも姉は許さなかったので、このことを知られたら怒られるだろうなと気落ちした。隈が出来ていたら何とかして隠そう、と考えていたところ、卵がかすかに動くのを感じた。動くと言っても本当にかすかに震えただけの小さな刺激が伝わってきたのみである。もしかしたら気の所為かもしれない。

 そもそも、これは何の卵なのだろう。何が生まれてくるのだろう。その疑問を解決する方法を、俺は持ち合わせてはいなかった。


 パソコンや携帯電話は姉に没収され、現金は与えられていなかった。靴や外行きの服にいたっては焼却処分されてしまった。やったのは姉だが、埋めたわけではないので怒ってはいないようだった。むしろ、俺のそれらを取り上げる際に酷く不安げな表情を浮かべていたと記憶している。


 姉の行動原理は、恐らく俺に関係しているのだろうと思うが、時折理解が出来ない。


 そうでなくとも、ここ最近はどうにも頭の回転が鈍いようで、前日以前の記憶を探るのにさえ多大な労力を使わなければいけなかった。今も、彼女のことを思い出そうとしているのだが、何故かその部分だけが日記帳の黒く塗り潰されたページのようだった。


 卵を撫でる。一晩かけて体温で温めていたせいか指先が熱を一瞬感知しなかった。三十六度前後の、自分の肌と同じ。少し頬が緩んだ。パジャマの袖で、卵の表面に付着している汚れを優しく拭った。


 何度もその表面に手を往復させ、ずれたタオルを直している内に彼女のことが何となく思い出された。最初に浮かんできたのは俺の名前を呼ぶ声で、あとはそれを紡いだ唇。それだけだった。彼女の顔はおろか名前さえも忘れてしまっているらしいことに気が付き、流石に首を捻った。彼女は、俺の彼女であったはずなのだが。こんなことがあっても良いものか、と考える。


 震え出す卵をあやすように抱き直した。最後に会ったのはいつだったか、馴れ初めはどうだったか。何一つとして思い出せなかった。自分はこんなに酷薄な人間だっただろうか。言い知れぬ不安に胸が締め付けられる気がした。卵の震えが不規則になっていく。彼女に関する記憶の欠落は激しかった。


 しかし、それを思い出す努力はほんの数分で絶えてしまった。


 姉と二人で暮らしている自宅から一切の時計が取り外されてしまったので、正確な時間は分からない。隣の家に何かが投函される音と、バイクの走り去るエンジン音が聞こえてきた。顔を覗かせると、錆びた汚い色の郵便ポストに新聞が詰め込まれているのが見えた。大体朝の四時頃だろうと予想した。


 自分が今までどのように朝を迎え、昼を過ごし、夜に寝ていたのかがまるで分からなくなってしまっていた。この卵は自分が産まれた頃から傍にあったようにも思えたし、ちょうどついさっき腕の中に出現したような気さえした。実際は姉から渡されたものだとしっかり理解はしている。そういう気がしただけなのだ。


 虚ろな頭の中を探ろうとする度に、靄が俺の足を絡めとって行きたい方へ進ませてくれない。知りたいものを教えてくれない。そのことが異様に気持ち悪く、心細く感じられた。


 風が止んでいた。卵の震えはいつの間にかおさまっていた。





 卵を抱えたままベッドから降り、姉の部屋へ向かった。


 駄目で元々。姉に聞いてみることにした。


 赤い厚手のカーテンは一切の光の侵入を許さず、部屋の主の眠りを妨げることのないようぴったりと閉じられていた。それでも朝は部屋を僅かに明るくしている。カーテンの深紅が照らされて部屋全体がどす黒いような毒々しい赤茶色に染められていた。ここはどうも圧迫感が強くて好きではない。長居はしたくなかった。


 姉はダンゴムシのように丸まって寝ていた。その胴体の辺りが僅かに上下しているのが薄暗い部屋の中で何となく分かった。聞き出すのは無理らしい。


 姉は一度眠ってしまうと余程強く揺さぶらない限り絶対に目を覚まさない体質だった。遠慮なく部屋の中を漁ることができた。


 ベッドの下や箪笥の一番下の引き出しを覗いてみても、俺の私物は出て来なかった。本棚を試しにぐるりと見渡してみると、異様に嵩があるファイルが下段に置かれていた。案の定、俺の携帯電話がファイルの袋の中に入れられていた。


 姉が小さく唸って、身動ぎする。


 心臓が止まりかけたが、どうやら完全に覚醒はしなかったらしい。再び規則的な寝息が聞こえて来たのを確認し、俺は携帯電話を起動させた。充電が残り三パーセントだった。画面に表示された日付を見て今日が月曜日であることを知った。


 彼女からメールが届いていた。

 

 ──着いたよ。山奥でも電波が飛んでるなんてびっくり。君も早く来てね。

 

 どうやら俺は、外へ出なければいけなくなってしまったようだ。





 外へ出る為にまず俺は、姉の部屋で、姉の服を身に纏った。脱ぎ捨てたパジャマは、同じ柄のものがもう一つだけ与えられていたがそれ以外に残っている服はなかったので、女装は止むを得なかったのだ。少し丈が短かったが着られないというほどではなかった。平坦な胸を隠すように上着を羽織って、前を閉めた。

 

 同年代男性の平均身長より俺はいくらか背が低く、からかわれるほどに華奢だったから、声を出さない限りは女装しているとは思われないだろうと思った。鏡の前で深く帽子を被り、姉が使っている大きなバッグに卵を詰め込んだ。タオルをクッションにすれば割れることはないだろう。誰からも見られないよう蓋の意味を込めてもう一枚タオルをかぶせた。


 姉の服は、カモミールのような、ハーブ系の匂いがする。安心する、と一瞬だけ思った自分に嫌悪感がふつふつと湧いてきた。


 自動車免許を持っていない俺は、姉の車を運転することが出来なかった。


 砂埃にまみれて汚れたガードレールに片手をついて立ち止まった。一度も履いたことのないパンプスに無理矢理押し込んだ足が痛くて堪らなかったからだ。毒を吐きたくなる気持ちを抑え、ひしゃげたガードレールに腰を下ろす。薄い尻肉はクッションの役目を果たさずに、その鉄の塊は自らを椅子代わりにする不届きな者の骨をごりごりと抉ってきた。快適な座り心地とはとても言えないが、それよりもいい加減靴擦れに悲鳴を上げそうだったので尻の下のそいつと我慢比べをしていた。


 バスがやってくるのは五時十分。始発の便だ。メリーゴーランド宜しく掴まったバス停の案内板を眺めて小さく溜息を吐く。卵は家を出た辺りからしんと静まり返っていた。もしかしたら死んでしまったのかも知れない。まだ生まれてすらいないのに。


 乗り込んだバスの運転手は蛙の化け物のような顔をしていた。目深に被った帽子のほんの少し下あたりから、おはようごぜぇます、と変にくぐもった声を出していた。何だか気味が悪かった。


 発進したバスの車内は、エンジンやエアコンの音で騒がしかったが、二回目の欠伸をする内に慣れた。


 バスの揺れは眠気を誘うものだ。後ろへと走り去っていくシャッター街や、水の張られた田園の風景をぼんやり眺めていた。バスの中で気怠い声で放送される宣伝を聞いている内に、意識が自分の身体から離れ、ほんの少し遠くへと行ってしまう感覚に陥った。とろりと微睡み落ちていく瞼を、幾度か瞬きして無理矢理開く。


 一瞬、瞼の裏に彼女の姿を見た気がした。


 表情どころか、顔さえも分からなかったが、少し上擦った調子で俺の名前を呼んでいた気がする。愛らしい声だった。





 姉の財布から抜き取ってきたくしゃくしゃの札をポケットから出して運転手に手渡すと、明らかに訝し気な顔をされた。居た堪れなくなって、釣りはいらないからと小さく呟く。存外低い声が出てしまった。二進も三進もいかなくなり、帽子を深くかぶり直してステップを駆け下り山道へ入った。後ろから運転手の呼び止める声が野太く聞こえて来たが、決して振り返りはしなかった。


 足が痛むのを我慢してとにかく山道を突き進んだ。上り坂が俺を拒んでいるかのように細かな砂利に足を取られた。何度か膝をついてしまった。朝の山の空気は明らかな質量を持ち、そして重苦しかった。肌に纏わりつく朝の湿気が鬱陶しかった。小脇に抱えた卵が、バッグの中で震えたように感じた。


 この山は、姉と俺が秘密基地にしていたところだったのだ。今の家に引っ越してくる前はこのすぐ下にあるアパートに、親子四人で暮らしていた。姉の埋めたがりは、ここで培われた。子供の手であっても容易に穴が掘れるほど柔らかな土をしていた。

 今はそれを実感している。パンプスの細い踵がいちいち地面にめり込むのだ。何度か足を取られて膝をついてしまった。


 卵にヒビが入る音がバッグから聞こえてきた。顔にふつふつと汗の玉が浮かんでくると、朝霧がその冷えた手で顔を撫で回してきた。一歩進むごとに自分の中の空虚が少しずつ元の形を取り戻していくような気になった。葉の濡れた匂いが、時折吹き抜ける風に揺れた枝から落ちてくる水滴の冷たさが、暈けていた意識を覚醒させてくれた。こめかみの辺りが熱くなっていく。


 ともかく、姉が彼女を埋めるならこの山の頂上付近だろうと踏んだ。


 斜面が終わり、開けた場所に出た。


 ところどころに黒く淀んだ水溜りが出来ていた。申し訳程度に生えている草の上を歩くと、足が柔らかく沈み込んでパンプスが泥にまみれてしまった。淡い桃色をしていたそれは見る影もなく汚れている。


 杉の木が周りを取り囲んでいる中、中央に据えられているのは桜の大木だった。既に盛りを過ぎたのだろう、幹の一部が朽ち果てようとしていた。地面にめり込むように、洞が空いていた。


 二股に分かれたその樹は両腕を広げる人間の姿を彷彿とさせる絶妙な曲線を描いていた。子供を抱く為にあるような、母性の象徴ともいえるふくよかさを持った女性の腕のようだった。


 慣れない山道を歩きがくがくと震える脚を叱咤して、スカートの裾を下に引くと、ゆっくりと近寄った。歩く度に脚が縺れ、内腿同士が触れ合う。湿気でべたついていて、気持ちが悪かった。


 この山にはもう一つ因縁がある。


 俺と姉の母は、この山で首を吊った。


 腕と形容した太い枝にロープが垂れ下がっていた。埃っぽい縄の表面は毛羽立っていたが、よく見ると水滴が細かく付いていた。比較的最近に下げられたものらしい。枝を見上げると、ちょうどロープが食い込む箇所に擦れたような浅い窪みを発見した。縄の太さと同じだった。それを下に引っ張ってみると、悲鳴のような音が小さく聞こえてきた。結び目が擦れた音だった。


 ふと、彼女の名前を思い出した。


 忘れていた、というよりは無理矢理封じ込めていただけなのだろう。彼女の、美樹の声は確実に覚えていたのだから。





 

 そうだ、母の右頬と同じ黒子が彼女の頬にもあったから、俺は美樹に話しかけた。今までの人生で最も近しい女だった姉とは、全く異なった女性だったから、俺は彼女を愛した。貴方の話が聞きたいと強請った顔があまりにも柔らかく、優しかった。


 美樹が愛用していたバニラのコロンの、彼女と過ごす時間のような甘ったるい香りが甦ってきた。


 頭がくらくらとした。不意に目の前に垂れ下がったロープが二重に見えて、眼前が暗くなった。座り込んでしまいそうな脚を何とか踏ん張っていた。


 目の奥で彼女が微笑む。彼女の指がゆったりと身体を滑る。嫋やかに腹を撫でる仕草が、喉を締め付けるほどに俺を苦しくさせた。


 唐突に、バッグを肩から落とした。重苦しい音を立てて地面に転がるそれを見下ろす。


 卵の中に、何かもう一つ、彼女との何かが、閉じ込められている。





「私は、何もかも大丈夫って言ったはずだけれど」


 聞き慣れた声に振り向こうとした途端、パンプスの踵が何かに躓き派手に尻餅をついた。その弾みに蹴ってしまったバッグの中から飛び出した卵に手を伸ばす。


 悲鳴を上げた。


 俺が躓いたものは人間の手首だった。土中から生えているそれの手元に、ミジンコのような形をした何かと歪な肉塊が、バレーボール程度の大きさの瓶に浸けられていた。

 

 ああ、生臭い。


 ホルマリンと濃い血の臭いが空気に溶け込み、朝靄が立ち込める澄んだ空気を汚していくようだった。つん、と痛む鼻の奥に無理矢理染み込んできた。酷く気分が悪くなって、喉までせり上がってきた胃液を何とか飲み下した。毒のように甘ったるい臭いが腐臭となって脳を侵し始めた。


 俺は、こんなものを卵と思い込んで、ずっと抱えていたのか。


 ようやく人の形になってきていた肉塊の、白く濁った右目が俺を見つめていた。奥歯がガチガチと震えた。




 死んでいる嬰児だ。




 ゆっくりとこちらに歩いてくる姉を睨んだ。


 姉は何故か俺の脱ぎ捨てたパジャマを着ていた。俺が睨む理由が分からないといった様子で首を傾げていて、その手に握られたスコップが鈍く光っていた。


「だって、あんたが。あんたが、どうしよう姉さんって泣きついてきたから、何とかしてあげたのに」


 彼女を山に呼び出したのは、早朝のここなら絶対に姉はやっては来られないだろうと思ったからだ。俺は彼女を連れて、姉の手の届かない場所へ一緒に逃げようとしていた。彼女との交際がバレてからというもの、俺の連絡手段全てを管理するようになった姉を出し抜く為だった。


「でもねあんた、だめだよ。責任は取らないと。姉さん、恥ずかしい思いしちゃうでしょ」


 姉が胸にスコップを抱き込みながら犯罪者になってしまった弟を諭す口調で話しかけてくる。その言葉に耳を塞ぎたくなった。

 

 違う。俺は、殺すつもりなんてなかった。

 

 彼女が、大事なことだから姉に一応教えておきたいなんて言わなきゃ、俺だって我を失ったりしなかった。嬉しそうに手を腹の前で組んでみせる彼女が悪魔に見えたんだ。


「罰だって。ねぇ。罰だよ。これは」


 姉は俺の足元を指差す。


 転がっている瓶の中で、未だ揺らめいているものを。


「あんたが捨てたものは、あんたにいらないと思ったものは、みんな姉さんが埋めてあげる。でも、ソレはいるんでしょ?」


 いつの間にか近くに来ていた姉は、俺の肩を優しく抱いた。カットソーの裾を捲り、筋肉なんて付いていない俺の腹を撫でて瓶を拾い上げ、ひたりとあてがった。不思議と冷たくはなく、そこのみがむしろ焼け爛れるように熱くなっていくのを感じた。


 姉はこれから穴を掘るんだろう。そして埋めてしまうのだ。


 従順で無知な可愛い弟に、「俺」は要らないのだから。


 次第に声が出せなくなる。右手を、土中から生えた彼女の手に伸ばす。指先が触れ合った。


 太腿が跳ねると、スカートがずり上がる。


 姉の顔がゆっくりと降りてくる。黒目がちな双眸が濡れていた。姉の指は俺の目の下をなぞった。


 ──おやすみなさい。


 何度も聞いた優し気な声。母代わりの、姉の冷たい指先が頬から顎へと移った。喉仏をゆっくりとなぞられる。


 寝かしつけられているだけなんだ。そもそもこれも夢かもしれない。目が覚めたら、また姉を出し抜いて、彼女の手を引いて遠くの街へ行くんだ。


 そこでなら、もう、きっと、過ちを犯さない。そのはずだ。


 姉に、さよならを告げなくては。



 姉の爪が喉の皮膚を浅く裂いた。


 ああ、母さんを見つけた時と、同じ顔をしている。


 姉の前髪から垂れた汗が頬へと落ちてくる。


 枝葉の間から差し込んできた陽の温かさを手の甲に感じる。




 俺はゆっくりと両目を閉じた。 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

卵生の埋葬 横嶌乙枯 @Otsu009kare

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ