卵から犬が生まれた日

原田たくや

卵から犬が生まれた日

窓ガラスに張りついた水滴が流れ落ちていく。

部屋が突然暗くなったと思えば、カメラのフラッシュの

ように一瞬だけ真っ白の世界になった。どこかにカミナリが落ちたのだろか。

もうそろそろ、雨も降ってくる頃合いだろう。

この場所から一歩たりとも動かなければ、晴れだろうが雨だろうが関係ない。

この世界では無縁のことである。

僕の生きる場所は、コンピュータから出力されたバーチャルの世界。

そう、仮想空間が全てを包み込んでいるんだ。

この居心地の良い空間から抜け出すことは、

僕が僕でなくなる瞬間かもしれないな。

つまり、心を凍らせ、肉体を投げ捨て魂だけとなる。

ようするに死んでいるってことだよね。そう考えるとちょぴり寂しい。

雨が降っていることだって、イスから降りることなく

分かっていていたんだ。知っていたんだ。でも僕は、神様でもない。

情報端末の力を借りることで、気象予報士の恵まれた知識を

ちょっとだけ分けて貰っただけさ。

無力な僕でもこの子箱は、平等に力の源を与えてくれる万能のパートナー。

言うならば、魔法の箱だ。コンコン。別の世界の扉から音が聞こえてきた。


「玲音いるのー」


その言葉を聞いた同時刻。

僕の魔法の箱は、魔力を失いただの鉄の箱に戻った。

無の世界だった部屋に明かりが灯される。

今まで、見る必要がなかった家具やゴミくずの輪郭がおぼろげに姿を現す。

僕の手を伸ばして届く範囲には、食べたカップラーメンや

お菓子の袋などが散乱している。

更に視野を広げて見てみると僕を囲むように本棚が配置されていた。

本の束が本棚に収まりきらないようで床にまで侵食している。

他人が書いた知識に押しつぶされそうだ。

時を刻んでいたカレンダーや時計の針も止まっていた。

本来の機能も発揮されないままにオブジェとなり変わり、

僕の姿をじっと見つめている。


「何に狐に摘まれたタヌキ見たいな表情しているの」


神出鬼没に現れた彼女を見ていたから、余計に表情も

こわばり変な顔なっていたかもしれない。

彼女と言っても愛を語り合った人ではない。

一つ上の血の繋がったれっきとした姉さんだ。


「まさか、エッチなサイドを

 堪能しているところだった?」


次にしゃべったらこれである。


僕が一人でパソコンの画面に向かっているとすぐに

危ない方向へと結びたがるのは、姉さんの悪い癖だ。

パソコンを使う大半の人類は、孤独と向き合い

機械と対話しているのがセロリーなんだと思うけど。

二人で器用にパソコンを操る種族は、ラブラブなカップルか、

ちょっと変わった老人が若者に手取り足取り教えてくれるみたいな

特殊なケースぐらいだろう。


「期待に応えられなくてごめん。姉さん」


「姉さんも後ろからモニターが見えているからわかると思うけど、

 鳥の生態についていろいろと調べていたんだ」


「なあんだ、残念。

 せめて玲音が、鳥の繁殖のページを見ていたら…」


「見ていたら、どうなったの?」


「そりゃー、やっと年頃の男の子になったのにねって一緒に喜んで、

 今晩のメニューもお赤飯に決まったのになぁ」


「…そうなんだ。残念だったね」


僕は内心ほっとして、ため息をついた。

別にいかがわしいページを見ていたわけじゃなくて。

鳥類のことを調べていたら、偶然にも繁殖方法のページを

開いていたこともあった。

しかし姉さんは、パソコンの検索履歴を確認する方法を知らない。

それが神の救いである。


僕は、かなり前に姉さんにパソコンについて

軽く説明したことがあった。

パソコンは、精密機械だから下手にいじると壊れてしまうからね。

僕が傍にいない時は、パソコンに触ったらダメだよって

注意をしたことがある。

そうそう姉さんは、妙に真面目な顔になって話を聞いていたっけ。

たぶん、あれから姉さんはパソコンの画面を一人で

タッチしたこともないのだろう。

パソコンはおろか、家電製品全般にめっぽう弱いのが

姉さんの特技の一つだ。

機械に触ると感電して死んでしまうとか。

人類を堕落に導いたのは、コイツらだとか。

何かに文句をつけて、機械を避けていると思えば

ちゃっかりと炊飯器の使い方をマスターして、


「これって便利な道具だね。

 ワンタッチでご飯がたけちゃうんだもの」


言って微笑んでいたこともあった。

だから、油断も出来ないのだけど……。


「鳥もそうなんだけど、昔から玲音は

 生き物が好きだったよね」


「そうだったけ?」


昔と頭につくんだから、相当に古い話だろう。

僕は、学校から飼育係の勲章も名誉も

頂いたこともないし、良く分からなかった。


「卵をヒナに変身させるんだって、

 ふとんの中で、一生懸命になって温めていたよね。

 最後は、その卵を自分自身で食べてしまったけど」


「……そうだったかな?」


嫌な記憶を平気な顔をして、ほじくり返す。流石が姉さんだ。

父さんの血を受けついでいることだけある。

僕にもそんな血が流れていると思うと光栄に思えて、

つい吐き気をおぼえてしまう。

遠い時代の僕は、純粋に生き物を育ててみたかったんだ。

今は、不況の影響で生き物を飼っている人がずいぶんと

減ってしまったように思える。

少し前は、ご近所に犬を飼っている家がたくさんあった。

家の前を横切るだけで、ワンワンって話かけてくれる。

だけど気の小さい僕は、犬の鳴き声が怖くて溜まらなかった。

犬の鳴き声を少しでも小さくするために犬との距離をあけて歩いていた。

道の端っこを歩くことで、ずっと犬と話し合うことを避けてきた。

相手から友達になろうと話かけてくれていたかもしれないのに。


その日は、太陽の照りが異常なまできつかった。

僕は、暑さをまぎらわすために下敷きをパタパタ

させて通学路を歩いていた。

犬を飼っている家の前を通りかかると我が宿命のライバルが、

舌を出してコンクリートの床に寝転んでいるのを見つけた。

僕は、話し合えるチャンスだと思い犬に近づいた。

近づいたのは正しいと思うけど、暑さで吠える元気もないのだろう。

僕に見向きもしない。

犬が僕を拒んでいるのなら、今度は僕の方から

手を差し伸べてやるべきなのだ。

僕は、どうにか友達になれる方法を必死になって考える。

考えれば、考えるほど頭が混乱して分からなくなってきた。

ふと、眠られなかった時に聞かされていたおとぎ話のことを思い出す。

確かお話では、困っている動物を助けると恩を返すために

いろいろとご褒美を貰えるんだっけ。

高価な着物や金銀財宝の小判なんていらない。

僕は、桃太郎で言うところのおとも(友達)が欲しかった。

手元にきびだんごは持っていなかったが、給食の残りである

コッペパンがあることを思い出す。

僕は、無我夢中でランドセルの底からコッペパンを取り出していた。

小さく一口サイズにちぎり、おにぎりをこねるように

まん丸いだんごの形に変えていく。

そのままコッペパンを渡すよりも、少しでも自分の手を加えた方が

愛情がプラスされ、友達になる確率が上がるかなって

子供ながらにして思っていたのかもしれない。

願うことなら、きびだんごと間違えて

コッペパンを食べてくれますようにと。

門の隙間からきびだんごもどきをほうり投げ入れると、

犬は感謝の言葉もなしに、ただ無言でそのだんごに

むしゃぶりついて食べていた。

僕は、偽物と気づかれませんように祈りながら

その犬をじっと見ていた。

その一件以来、初めて友達と呼べる仲間ができた。

学校から帰るスピードも日に日に上がり、給食を残すことの罪悪感も忘れ、

つまらない授業中もずっと犬のことを考えていた。

そんな些細な日常を繰り返すうちに僕の家にも友達が欲しいと思った。


その晩のこと。僕は、帰宅が遅い父さんを目をこすりながら、

ベットで待っていた。

インターフォンのチャイムが聞こえると、

いても立っても待ちきれずにベットから飛び降り玄関まで走り出した。

廊下で父さんに出会うやいなや無我夢中で、

犬を飼いたいことを打ち明けた。

初めて、父さんにおねだりした瞬間だったと思う。

父さんは、犬が飼いたいことの話を聞くとしばらく黙り込んだ。

そして、器用に指先だけを使いジェスチャーする

ようにして僕を台所に導く。

明るい廊下を渡った先には、照明を落とした部屋に入る。

明かりは、いっこうに灯されず家電製品の

機動音がやけに耳障りだった。

父さんは、おもむろに冷蔵庫の扉に手をかけると

光が漏れ出し、部屋の全てが幻想的に見えた。


「玲音、手のひらを上向けて

 ゆっくりとくっけてごらん」


沈黙を破ったのは、父の言葉だった。


言葉のいのままに僕は、水道の蛇口から出る水を

飲む時のポーズを慎重につくる。


「この卵にも小さな命が宿っているんだよ」


そう言って僕の手に包まれるように卵を乗せた。


「小さな命ってなに?」


「難しい質問だな。例えるならこの卵から玲音が

 凄く欲しがっていた子犬が生まれて来るんだよ」


「すごい、すごいよ父さん。

 もしかして父さんは、魔法使いだったの?」


「うーんどうなんだろうね。魔法使いじゃないけど、

 あえて名乗るなら生き物係だろうね」


「若い頃は、飼育係として生き物の大切さを伝えるためにこれでも

 一生懸命に努力して、頑張っていたんだよ」


「すごいよ、すごいよ父さん」


当初のお願いだった犬が飼いたいことなど

忘れるぐらいに僕は、目を輝かせてた。


少し前に家族で、ペットショップに行ったことがある。

お菓子の箱を売るみたいに子犬たちが並んでいた。

小さなケースに閉じ込められて、自由を縛られている

動物たちが、可愛そうだと思った。

そのことを父さんに伝えるとあれは、もう生き物じゃないんだと言う。

僕が、小さい頃に遊んでいた超合金のロボットや

怪獣のぬいぐるみと同じだと。

確かにこれは、生き物とは違うと思った。

僕の友達のコタロウには、自由がある。

コタロウとはもちろん犬のこと。

友達の名前がないと可愛そうだと思い、僕が名付けた犬の名前だ。

コタロウの家は、門や柵でコタローを出れないようにしているが、

それにはちゃんと理由ある。

ワンちゃんが迷子にならないためにって

近所のおばさんから教えて貰った。

コタローの家は、小さく広い庭ではないと思う。

ガレージの中に設けられた小さなスペースが

コタローの庭にあたる。

僕よりも小さいコタロウには、とても大きく庭を感じるだろう。

何よりもコタロウは、鎖に繋がれていない。

大きくなったら、囲まれた柵を跳び越えて

自由な世界が待っている。

希望への距離が見ていることは、良いことだ。

ペットショップに積まれているお菓子の

おまけ(おもちゃ)などに興味などない。

もう一人のコタロウように育てるんだ。

僕は、貰った魔法の卵をしっかりと握りしめていた。


「…ところで、何しにきたの? 姉さん」


ずっと僕のことを観察している姉さん対して

話題を変えて、少しでも有利な立場に戻りたかった。


「今日は暑いでしょ、だからアイス買ってきてよ」


僕は、その答えに目を丸くして姉さんをまじまじと見た。

確かにこの場所は、他の部屋と比べ蒸し暑いと思う。

パソコンから放す熱と夏特有の生暖かい空気が

結託して、更に温度を上げている。

僕の部屋には、クーラーはおろか扇風機と言ったたぐいの現在の

科学技術を結集させたマシーンなど存在しない。

あるとすれば、人力を得意とするうちわだけだ。

しかもお店の宣伝がリバーシブルに入っているのが

トレードマークのシンプルなやつ。

部屋の照明もつけなかったのも、蛍光灯のまばゆい光が

熱を放つから、少しでも温度の上昇を防ぐために

電気を消していたんだっけ。


「……そうだ。そろそろ外は、雨が降ってきているから

 もうじき気温が下がって涼しくなると思うよ」


「へぇー。そうなんだ」


「だからね、アイスよりも温かいココアの方が

 いいんじゃないかな?

 それに姉さんは、冷え性だってずっと困っていたからね」


「冷え性に気を遣うことは、弟として合格点だね。

 でもあたしは、アイスを砕く食感を楽しみ

 感じたいの」


「ならちょうど良かった。昨日の夜に水を凍らせて

 いるから、きっと同じハーモニーを味わえるよ。

 それに口に放り込むと冷たくて、ガリガリした

 食感が溜まらなく美味しいと思うし」


「あたしは、味もない氷よりもあのフレーズで

 お馴染みのガ○ガリくんが食べたいの」


「……なんだ。最初から、言ってくれたら良いのに。

 そんなハイカラな食べ物は、うちにはないけどね」


「そんじゃー、なかったら買いに行く。

 それが世間のルールだと思うけどな」


「いやな世間のルールだね。

 次の回覧板に抗議の文章を書かないといけないね」


「あはは。そうかもね」


微笑んだ姉さんに見送られながら、僕は玄関を出る。

天気の予報があたり、外は雨が降っていた。


なんて美味しい空気なんだろう。

部屋にこもっていたサビが落ちるそんな気がした。

傘を差して、車に注意しながら前を見て歩くと

足下の水たまりの水が勢いよく跳ねた。

しばらくの間、ずっと家での生活を送っていたから

歩き方のコツが分からないや。

膝がガクガクってすぐに痛くなるし、ちょっとだけ

つま先に力を加えると水が跳ねてズボンの裾が

濡れて気持ち悪くなる。

少し歩くだけで、理解したことがある。

大自然と暮らすウッドハウスの生活は、僕の体力では、

改めて無理だと思った。

少しだけ歩くと姉さんのアパートが見えてくる。

姉さんとは、立派な血の繋がった姉弟である。

でも年頃の女性でもあった。

一緒に住むことだけは、断固拒否して

通い妻みたいな別居生活を姉弟の間でやっている。

降水確率が100%だとしてもこうして正々堂々と

洗濯ものを干している姉さんの家が見える。

姉さんの家には、テレビ、新聞、インターネットと

言った情報を取る手段がないから、情報を取る方法が限られている。

主婦たちがご主人の悪口をネタに話し合う

井戸端会議に参加するぐらいだろう。

まぁ、姉さんはまだ独身だけど。

僕よりも姉さんは、コミュニケーションの能力が高く

ご近所ネットワークを使えば、雨が降る情報など

簡単に知ることが出来たんだろう。

しかし、皆さんが雨が降ることを知っていたんだから

当然だけど外出する人も少なく、人に会う機会がなくなり、

姉さん得意のネットワークが切られたと。

仮に雨が降ることを知っていていたとしても、

結果は変わることがなかったと思う。

きっと洗濯物を取り込み忘れて、あの物干しに

吊されていたに違いない。

姉さんのずぼらな性格は、身近にいる僕が

一番知っているのだから当然である。

次の交差点を右に曲がると姉さんのアパートが見えなくなった。

そして、ひたすらに歩くこと5分。

ようやく目的地のコンビニに到着する。

雨傘をたたんでいると僕の意志とは関係なく扉が開かれた。

どうやら、無意識に自動ドアのセンサーを踏んでしまったらしい。

コンビニの入り口から冷たい空気を感じ、

僕の歩んできた道のりの汗をふき飛ばした。

そのことを例えるなら、冷えたジュースを

一気に飲み干した感覚に近いといえるかな?


「いらっしゃいませー」


僕がレジの前を通過した一瞬のことだった。


コンビニ店員に声をかけられたことにより汗を飛ばしてくれた

ジュースが急速に氷はじめた。

僕の心臓がとっさにわしづかみされた錯覚に

襲われ、今もドクドクって高鳴って動いている。

人形の形をした店員だったから、まさか言葉をしゃべり出す

仕掛けを施したからくり人形だとは、夢にも思わなかった。

よく見ると綺麗な顔をした人間の女性だった。

最近のフィギュアは、よく出来ているから本当にわからなかったよ。

今時のフィギュアは、陰影まで塗装されているし

間接も自由に動くようになってきているんだから、

間違えるなんて些細なことだよね?

それにしても、命のない人形と生きている人間を

見間違えるなんて、人として最低なことをやってしまった。

ちょっと暑さにやられて、目が疲れているみたいだ。

今更になって謝るのも変だし、返って誤解を生みそう

だから頭だけでも下げておくとしよう。

コンビニレジ店員の女性に軽く頭を下げると僕は胸を張って、

冷凍コーナーに移動した。

冷凍室からアイスクリームを選んでいると

懐かしい声が聞こえてきた。


「ちょっと直也。

 あれって、学校を長期休んでいた篠染じゃない?」


「どれどれ、ビンゴ。よくあんなウジ虫みないなやつの

 名前なんか覚えていたなお前」


「あんなゴミくずでも同じクラスだったでしょうがっ!」


「ゴミくずは、生ゴミと一緒に焼却炉にぶち込んだから

 雑菌と共に灰になったんじゃねぇか?」


「あはは、ちょっと上手いこと言うよね。

 座布団を持ってきてよ。そこの篠染くん」


僕の顔を見て、あの二人は笑っている。


コンビニ店員の作り笑いよりもやっぱり人の

笑顔が生きているって実感がするな。

普通にガ○ガリくんを探しているだけで、

人を笑わしたのは、僕ぐらいではないだろうか。

僕はお目当てのアイスを見つけると、レジでお金を支払いお店から

逃げるように飛び出した。

人を笑顔にして、良いことをしたはずなのに自然と僕の目元から

涙がこぼれ落ちた。

たぶん、年で涙腺がゆるみ意志とは無関係に涙が出たのだろう。

これがきっと嬉し泣きって言うやつなんだろうか?


ある日、コタロウの飼い主が死んだ。

他殺や自殺ではなくただ運が悪く階段から足を滑らしてしまったらしい。

病院も通ったことがなく元気なおばあさんだったので、

誰も気づかれることなく横たわっていたそうだ。

廊下には、血痕や爪のかき跡が無数に残り

助けを呼んでいた形跡があったみたい。

ただ僕は、コタロウの本当の飼い主を知らない。

その存在を知る意味を持たなかった。

僕だけのコタロウあり、僕だけがコタロウを

愛していると勘違いをしていたのかもしれない。

僕は、コタロウの飼い主であるおばあさんの

死にちょっとだけ心当たりがある。


その日は、昨日と同じで日照りが異常に暑い夏の日のことだった。

僕は、学校から汗だくになって帰ると

いつものようにコタロウにご飯を与えていた。

食パンを丸めた自慢のきびだんごだ。

パンの味付けは、給食の献立と同じ日替わりで

中身が小麦粉だけの日もあれば、チョコチップが

練り込んでいる豪華な日もあった。

ちなみにパンの代わりにご飯の時は、

米を固めおにぎりにして食べさせていた。

今日は、偶然にも豪華なチョコチップのパンの日で、

大喜びのはずだった。

しかし、ランドセルの中の絶妙な温度がチョコを

溶かしゲル状の未知なる物体に進化していた。

パンは、溶けるチョコでドロドロになっているが、

丸めてだんごにしたら、同じように思えた。

泥の固まりのようなだんごでもコタロウの食欲が

落ちることなく、ただひたすらに口を動かしている。

僕を無視して、勢いよくパンを口の中にかけ込んで

いるコタローを眺めている時だった

コタロウの家の方角から物が落ちる音が鳴り響き、

そして軽く地面が揺れた。

僕は、コタローの身の危険よりもとっさに父さんから

貰った卵をかばってランドセルを抱きしめた。

卵は、ランドセルの中に厳重に保管されている。

二代目コタローの命の証である。

そのかばった卵に嫉妬を覚えたかのように

コタローが急に吠え出した。

犬の本能か何か知らないが、僕に懐いてからは

一度たりとも鳴かなかったコタローが吠えた。

コタローは、意外に臆病なところもあるから

地震でびっくりして鳴いているんだろうと思っていた。


「こんな短くて小さな揺れに驚くなんて。

 情けないやつだ」


その時ばかりのコタローの行動は、

僕にはどう頑張っても理解できなかった。

怖くないよって、一生懸命に頭を撫でてやっても

いっこうにコタローは鳴きやまない。

犬の歳は、誰にも聞いたことがないから分からないけど

コタローはこれでもれっきとした男である。

困っている人や女性を助けるのは、男性の役目で、

犬の社会だろうが関係ないと思う。

コタローが、こんなだらしない犬だってばれたら、

いずれ大変なことになってしまう。

周囲から冷たい目を浴びせられ、僕のように

日陰に暮らすようになる。

友達を僕のような目に合わしちゃダメだ。

しかし、吠えるコタローに鳴きやませようと

いろいろ考えていたが良い方法が思いつかない。

僕は、呆然となりただ正しいことを教えてくれる

学校のことを思い出していた。

そして僕は、じっとコタローを見つめながら考える。


「ごめんね。コタロー」


その言葉とは裏腹に、鳴きやまないコタローに

向かって、腕が動き出す。

体が殴るモーションに入ると車と同じで途中で、

ブレーキをかけることは無理みたい。

僕は、悪魔に取り憑かれていたかもしれない。

伸びた腕は、門と門の隙間を通り抜け完全に犬のお腹を捕らえていた。

たくさんの毛に覆われていたが、以外にもやわらかく、そして温かった。


「綺麗な赤だ。人間だけだと思っていたけど、犬にも

 温かい血が流れていたんだ」


腕を戻すと同時ぐらいにコタローは、悲鳴をあげることなく

アスファルトの床にゆっくりと倒れこんだ。

コタローの肌は、白い毛布みたいな毛によって隠れている。

だけど、お腹は緑じみた赤色に変わった。

何度も頭を撫でたことがあったが、お腹めがけて

殴ったことは初めての経験だった。

同じ人間すら殴ったことはなかったのに。

人に叩かれて痛い思いをしたから、決して相手を

殴らないぞって誓ったはずなのに。

倒れたコタローをじっと見つめていると

だんだんと視覚が薄れてくる。

犬だった彼が、ただ生きるために呼吸をしている

白い物体にしか見えてこない。


「……よかった。殴ったのは、生き物でない白い何かだ」


僕の友達は、犬のコタローであり意味不明な白い塊ではない。


きっと僕の大親友のコタローは、囲まれた砦を

跳び越えて、自由を求めて旅に出たんだ。そうに違いない。

泣いて、別れるよりも笑って見送ろう。

僕は、ぎこちない笑顔するとその場所から離れた。

その後、主人を亡くしたコタローは引き取る相手が

見つからず、保健所のトラックへと消えていった。

僕の顔には、傷が殆どなく健康的ある。

それに引き替え体は、無数に傷があって恥ずかしい。

筋肉質の男性なら傷は、格好良く見えるかも

しれないけど僕みたいに何も特徴もない体には、

無意味な勲章だろう。

服を着るとほとんど分からなくなるから

女の子に生まれてきても平気なんだろうね。

でも傷は、我慢をしても痛いからどうなんだろう。

お風呂にも浸かれなくなるし、お金もかかる。

絆創膏も多く張っているとみじめに見えるから

僕は嫌なんだけど。それを栄誉と思っている人もいるみたい。

格闘技の世界では、体を痛めつけて生活しているって

聞いたことがあるから、意外とそうじゃないかもしれない。

僕が、考えているよりも生きていくって複雑なことかもしれないな。


ある日曜日の昼頃だった。

僕が、家のベットで本を読んでいると

姉さんが、深刻な顔して僕を尋ねてきた。


「亡くなったおばあさん家の飼い犬に

 どうやら虐待があったみたい」


「虐待ってなに?」


「簡単に説明するといじめで合ってるのかな?」


曖昧な答えをする姉さんだったが、いじめの言葉を

聞いた瞬間、僕の好奇心が底をつき一気に悲しくなった。

コタローも僕と同じで、いじめられていたんだ。

出会う以前から仲間だったんだね。


「ちょっと玲音、なに悲しい顔をしていているのよ。

 まあ、私にもその気持ちは分からなくはないけど……」


「ずっと玲音は、あの犬にご飯をあげていたもんね」


その時の言葉には、僕はびっくりした。


僕の心を姉さんの力で透き通ったガラスに置き換えた

んじゃないかって。


「お姉ちゃんも父さんのように魔法使えるの?」


「あたしの魔法は、おそらく玲音だけになら

 使うことが出来ると思うよ」


「僕にだけ効果がある魔法かぁ。

 じゃあ、僕にも魔法使えるかな?」


「今の玲音には、無理だと思うな」


「そんなぁーー」


父さんにもお姉ちゃんにも魔法が使えて、

僕にだけ使えないなんて。

そんなんじゃ、学校の仲間外れと一緒じゃないか。

家族だけが僕を裏切らないと信じていたのに。

家にアイスを持って帰るとすっかりと夜になっていた。

手に持っていたアイスもドロドロに溶けている。

寄り道もしないで、まっすぐ帰ってきたはずなのに

太陽が沈み、僕の家だけが真っ黒になっていた。

この様子なら、姉さんも自分の家に帰ったのだろうか。

姉さんがもしいるのなら、明かりを灯して

僕の帰りをずっと待っていてくれたと思う。

僕は慌てて、玄関のスイッチが入れようとした。

しかし、照明のスイッチのオンとオフを

繰り返しも反応がなかった。

仕方なく、暗闇の中の玄関を手探りで探しても

姉さんの靴が見あたらない。

電球が切れたことに怒り、姉さんは帰ってしまったのだろうか。

明日、顔を合わしたら素直にゴメンって謝ろう。

僕は、自分の部屋に戻るために暗闇の廊下をひたすらに歩き始めた。

住み慣れた家でも、光が無くなると別の生き物に感じる。

生き物で言うところの食道を僕が食べ物に

変化して進んでいることなのだろう。

食べ物が自分の意志を持って進んでいるから

厳密に例えるなら、胃カメラって考えるのがだとうだろうか。


「あぁ、いたっ」


つい油断して進んでいたら、この有様である。

足下を確認しないで、横着に足を動かしたら、

思った通り何かにぶつかってしまった。

顔を近づけて見ると父さんだった。

父さんは、廊下を占領して横になっている。


「父さん。こんな、ところで寝たら

 風邪を引いちゃうよ」


どうせアルコールでも飲んで、自分の寝室を

目指す前に力尽きたんだろう。

話しかけても返事がないから、僕は仕方なく

上着を脱いで父さんに毛布の代用品としてかけた。

僕は、父さんの前で軽く目眩をおぼえた。

足がクタクタで、もう立ってもいられない。

床に腰を落として、軽く目を閉じた。


「今日は、長旅で疲れたんだ」


いくつの月日が流れたのかは、厳密にはもう覚えていない。

僕は、魔法の卵を貰ってからすぐに自由帳の

白いページが卵の生態日記へと姿を変えた。

卵の成長をわかりやすくするために図工は、

嫌いだったが仕方なく絵も入れている。

今日、父さんから魔法の卵をもらった

新しい友達ができて嬉しかった。

学校の人に卵を自慢するために早起きした。

僕は、教壇に立ってみんなに魔法の卵のを自慢する。

みんなが僕に注目してくれている。

テレビのアイドルになった気分だった。

いきなり直也くんが教壇に現れると僕の大事な卵を取り上げられた。

そして、僕の方を見ると笑いながら床に卵を落とした。

僕の魔法の卵は、割れた。

そのことを父さんに話すと僕が目を閉じてる間に

卵を復活させていた。

殻の割れ目のなく綺麗に元の形に戻っている。

父さんの魔法は、改めて凄いと思った。

学校は、危険な場所だから卵をランドセルの底に隠すようになった。

潰れるのが怖いから手作りのダンボールの

ケースに入れて常に守りを固めている。

音楽を聴かせると頭の良い子が生まれるらしいと

テレビでやっていたので、卵と一緒になって聞いた。

しばらくたったある日のこと。

とうとう我慢の限界を超えてしまったのだろう。

僕は、父さんに卵について聞いた。


「父さん。いつになったら、生まれるのかな?

 あれから、一生懸命温めているけど生まれないよ」


自由帳が、生態日記に変わってから

もう何冊もの本の束が出来ていた。


「うーん。困ったね」


言うって父さんは、笑っていた顔が真面目な顔になり

そして黙り込んだ。


コタローがいる間は、卵との共同生活も

楽しく時を忘れて遊んでいた。

コタローが外に旅立ってからは、寂しさを覚え卵に

話しかけたが、幾ら待っても返事を返して貰えなかった。


だから、早く卵から新しい友達を生まれて

僕のよどんだ心の隙間を埋めて欲しかったと思う。


「父さんは、魔法使いだろ?

 魔法をかけて、一刻も早く卵を返してよ」


「魔法使いでも父さんはただの人間なんだ。

 死んだ命は、もうわたしの力では無理なんだ」


「直也くんに卵を割られた時だって

 見事に復活させたじゃないか」


「あれはそうだね。新しい命と交換したんだよ。

 だから、復活させたわけじゃないんだよ」


「仮にわたしが、復活させる魔法を知っていたら

 卵よりも先に優先してお母さんを蘇らすだろ?」


「……そりゃあ、そうだけど。父さんは、うそつきだー」


僕は、いても立ってもいられない気持ちになって

靴を履くのも忘れ、そのまま家から飛び出した。

道ばたのジャリが僕の足の裏を貫くが、脳の痛みの

感覚が余りなくて、もうなんだか分からない。

父さんは、ずっと僕をだましていたんだ。

きっと姉さんも一緒になって、だましていたんだ。

僕を信じてくれていたみんなが僕を拒絶する。

なにが正しくて、なにが悪いのかも僕には分からない。

ただ残ったのは、僕を信じた自分を恨むことだけ。

僕の横で寝ていた父さんが、消えていく。

手を伸ばしても届くことなく父さんは、消えた。


「篠染さん、大丈夫ですか。篠染さん」


目が覚めると白くて大きて天井が、見えてきた。


僕に話かけてくれた方向に頭を動かすと

白い服を着た女性らしき人がいた。


「意識を取り戻して、良かったですよ。一時は

 心拍数が下がり本当に危なかったんですから」


僕の脳の中に白いモヤがぎっしりと

こびりついており、声が上手に聞き取れなかった。


あまり言葉が聞き取られなかったから、仕方なく

流れるままに返事した。


「……そうですか」


「そうですかじゃないって。本当に命が危なかったんだからっ。

 もっと素直になって、喜ばないと」


「はぁ……」


「もう、はぁーじゃありません」


この見知らぬ女性は、僕に喜べと強要している。


喜ぶと言う行為は、笑えば良いのだろうか。

そのことすら、もう忘れてしまっている気がする。


「星野くん、患者さんが

 かえって困っているじゃないか」


「申し訳ありません、河野先生。

 私は、ただ篠染さんを勇気づけようと思って……」


白衣の男性が現れると女性の態度が、がらりと変わり

今度はペコペコと頭を下げて謝っている。


「星野くんは、他の患者さんを見てくれるかね」


「分かりました河野先生。後は、お願いします」


僕を勇気づけようとしてくれたみたいな女性は、

また頭を軽く下げて僕の前から消えていった。

残された河野先生と呼ばれた男性は、僕に向かってまた言葉を続ける。


「星野くんは、真面目な性格だからね。

 君には、おせっかいに聞こえたかも知れないな」


「……どうして、分かるんですか?」


「そりゃあ、君の顔を見たら一目瞭然だよ。

 笑顔のゆとりがなかったからね。

 笑うことは、自分以外の周りの人間を巻き込んで

 共に楽しくさせる人の感情の一つだからね。

 それに命を預かる者の立場として言うのもなんだが、

 感情を忘れた人間はもう機械と同じだからね」


「僕がロボットって言いたいんでしょうか?」


笑顔と機械の単語が、記憶のどこかに引っかかり

感情だけが言葉に変わり声に出していた。


「おや、少し記憶が蘇ってきたんじゃないか?」


「誤魔化さないで、質問に答えて下さい」


「まぁ、そう焦りなさんな。

 君は、機械人形なんかじゃない。立派な人間だよ」


「笑うことは、まだ現状難しいことだと思うが

 その代わり他の感情がまだ残っているだろ」


「喜びや楽しみの感情は、直るのにまだまだ時間が

 かかりそうだが、怒りや悲しみの感情は

 今も君の中に生きづいておる」


「我慢しないで、泣きたい時は女性だろうと

 男性だろうと関係ない。泣いた方が良いと思うぞ」


溜め込んでいた感情が一気に解放され、僕は泣いた。


長年生きている時間の中で、

ようやく人として認められた気がして……。


ただ僕は泣いていた。

散らばっていた記憶のピースが次々と

見つかり組み合わさっていく。

永遠と思える時間をずっと独りで家に閉じこもって

生活していたこと。

大切に飼っていた犬を病気から助けることができずに

そのまま見殺しにしてしまったこと。

父さんは、ずっと前から消息不明になっていたこと。

唯一の頼りだった姉さんの存在が、僕の妄想だったこと。

全てを思い出すのに、どれだけの月日を流したことだろう。

肉体が腐敗してから、思い出したかも知れないし、

まったく思い出せてなかったかも知れない。

人間の記憶は、曖昧に出来ていて肝心なことは

すっかりと忘れてしまっている。

仮に完璧に思い出せたとしても、自分が悲しくなるだけで

誰も助けてはくれない。

アフターケアのスペシャリストがいても、

結局は他人で、人の心の傷を癒せるわけがない。

僕の過去を覚えてくれている友達がいれば、

あるいは救われたかもしれない。


「だから、お互いに傷をなめ合って生きていくのが

 人間本来の正しい姿なのかもしれないね」


言って、誰かそっと呟いた。

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卵から犬が生まれた日 原田たくや @red_rabbit_hoof

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