第3話

 あっけなく大学に合格した。彼と大学入試センター試験の直前に会ってから二か月が経っていた。家庭教師と生徒という関係は年明けに契約満了した。そして三月十五日に高校の卒業式があってその前日に十八歳になった。卒業式に母は泊まりがけの仕事があって出席できなかった。


 三年間無理やり通った高校を何の感慨もなく一人で後にすると彼が校門の外で待っていた。初めて見るスーツ姿だった。彼の濡れたように光る瞳に身震いして卒業証書が入った丸筒を落とした。彼は足元に転がった丸筒を拾って言った。


 「詩、合格と卒業おめでとう。君が卒業証書を授与されるのを一番後ろから見ていたよ」


 「ありがとう、啓さん。私、昨日十八になったの」


 「知ってる。誕生日おめでとう、詩。じゃあ行こうか」


 地下鉄に乗ってまたあの高層ホテルに向かった。もう二度と着ることはない制服姿で丸筒と色鮮やかなピンクのガーベラを一輪抱えている。私が今日卒業を迎えた高校生だということは誰が見てもわかるだろう。肩を彼に抱かれながら高層階へのエレベーターに俯いて乗った。部屋に入ってドアを閉めるといきなり彼は私をきつく抱きしめて苦しげな声で告げた。


 「詩、聞いてくれ。僕は明日からアメリカに行くんだ」。彼の背中に腕を回そうとした私の身体はきしんで硬直した。


 「実は外資系の企業に就職したんだ。最初の三年間は本社があるニューヨーク勤務だ」


 「そう」と短く息を吐きながら答えた。胸が切り刻まれるように痛くなって目を固く閉じた。彼も大学院を卒業したんだ。今日で彼とはお別れなんだ。明日から私の手がまったく届かない世界に赴いてそこで彼の新たな人生を切り拓いていくのだろう。そしてやっと私は思い知った。ずっと彼が好きだったことを。でもこの心の奥底から溢れ出てくる烈しい想いとは裏腹に彼の腕の中で冷ややかな声を出して言った。


 「じゃあ、あなたと会えるのは今が最後の時間なのね」


 彼の手を引っ張ってダブルベッドの上で両腕を広げて仰向けになった。何も言わずに彼は私の身体の上に覆いかぶさって唇を重ねた。気づいたら制服を脱がされて彼と裸で抱き合っていた。彼は私が自分の身体で一度も触ったことがないところに触れた。そして鼻をくすんと鳴らしてから肩を小刻みに揺らした。


 「どうしたの」


 「うーた。トイレットペーパーがついてるよ。これも高校の卒業記念品?」


 彼は指先でそれを丸めてダストボックスに捨てた。一瞬で私は耳まで真っ赤になった。


 「へえ、うーたって恥ずかしがることがあるんだ。可愛いね」。思いきりしかめっ面をした。「へえ、うーたって怒ったりするんだ。可愛いね」。それからすべてを高層階の開かない窓から放り投げて、互いの限られた生の時間を貪るように何度も抱き合った。


 窓の外が真闇に落ちた。彼は気だるく身を起こした私に言った。


 「君を愛してる。僕の妻になってほしい」


 とめどなく私の頬を流れ落ちていく涙の雫がしみのついたシーツに水玉模様を作った。私は彼に抱きついてこくんと頷いた。「へえ、うーたって泣いたりするんだ。可愛いね」。そう言うと彼は私をきつく抱きしめた。


 私と彼は高層ホテルの前で別れた。遠くの空へと飛び立ってしまう彼の背中が見えなくなるまで、ずっと立ちすくんで見つめていた。やがて私は気づいた。自らの心と身体の奥底が音を立てて傷つけ合うどうしようもない虚しさに。頼りなげに足元がよろけて、初めての疼きが冷めやらない股の奥を右手の掌で押さえつけた。


 その時、私は知っていた。もう二度と彼に会うことはないと。


 








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