第2話
「ねえうーた。会ったばかりの君って今にも死にそうな顔をしていたよね」
くすくすと笑って揺れる彼の腕の中で私は文句を言った。
「啓さん何回も言ってるけど、私の名前を呼ぶ時に長音を使うのをやめてくれない? うーたって幼児番組のキャラの名前みたいなんだもの」
「ふーん。僕が君のことを子供扱いしている感じがして嫌なんだ?」
彼は私の髪を梳くように撫でて耳たぶを甘く吸った。じらすように耳輪を遡って彼の舌が中に入ってくる。くすぐったくて彼の胸に顔を埋めて身をよじった。
私と彼はホテルのダブルベッドの上で抱き合っている。高層階のこの部屋の窓からは昼下がりの水色の空だけが見える。まるでベッドごと空の上に浮かんでいるみたいだ。宇宙人を監禁したような珍妙な校章が印刷されたスクールバッグがソファに置いてあるのが目に入る。数時間前までその中に入っている教科書を広げて女だらけの教室にいた私は無害な高齢の男性教諭から英語の授業を受けていた。一瞬だけ十七歳の女子高生の現実に戻って、きつく彼にしがみついた。彼はゆっくりと私の額から頬にかけて何度も口づけて、やがてその柔らかい唇が私の唇に降りて来た。私は腰を彼の身体に擦りつけながらソフトクリームを舐めるようにそれを受け入れる。
高校一年の六月も区立図書館の隅で自習をしていた。隣には私の家庭教師になった彼が座っていた。彼はノートパソコンを開いて卒業論文を執筆している様だった。頻繁に彼のスマートフォンが生き返って面倒くさそうな表情を浮かべながら数十回に一回は頬杖をついて画面を指で弾いていた。私は彼を一瞥して軽率な声で尋ねた。
「彼女?」
「まあね」
七月から高校に戻った。すでにクラス内は隅々までグループ化していて、どこにも入れなくていつも一人でいた。高校に戻ったきっかけは七年間も重苦しく胸に抱き続けてきた私の負の思い込みを彼が水に流してくれたからだ。
その日も小雨が降っていた。区立図書館の中庭にある汚らしい池に蓮の花が姿勢正しく咲いていた。私はそれを見ながらふと彼に訊いた。
「水沢さんて自分の名前をどう思いますか?」
「んー、女みたいな名前だってよく言われるけれど、問題にしないから何とも思わない」
「私、自分の名前がずっと怖いの」。その時、年上の彼に対する敬意という概念と習慣づけが頭の中から全て消滅した。
「怖い? 詩って素敵な名前なのに」
「小学三年の時、私の名前の漢字を習ったの。私、教室で凍りついた。『
「『し』?」
私はノートの隅に「死」と書いた。彼はその漢字を指先で弄んでから、私の目を透き通った眼差しで見つめた。
「さらに最悪なんだけど、小三の漢字のワークブックには『詩』の隣に『死』が並んでいたの」
「ふーん。『詩』と『死』って小学三年で習った漢字だったんだ」。私は頑なに頷いた。
「ねえ詩。死って君だけが隣合わせじゃない。この世に生まれてきた以上、誰もが死と手を繋いでいる。鍵のない手錠をつけてね。もちろんこの僕だってそうだよ」。その時初めて彼は私の名前を呼び捨てにした。
「本当?」
彼は返事をする代わりに何の前触れもなく私の頬にキスした。目を見開いた私の耳元で彼は甘い声音で囁いた。
「うーた。君って何だか可愛いね」
彼から逃げるように高校に戻った。毎週火曜日と金曜日の午後六時から夕食を挟んで九時までが家庭教師の彼との契約時間だ。増井さんは年頃の私を心配して私と彼を二人きりにしない。夕食の片付けが終わってもスツールに座ってお茶を啜りながら彼が帰るまで待っている。ある時、増井さんに忠告された。「詩ちゃん、ああいう顔立ちの妙に整った男は好きになっちゃだめよ。それに六歳も年上なんでしょ。きっと周りが見えなくなっちゃうくらいにのめり込んじゃうから」
彼は一年間限定の家庭教師のはずだったけれど、その年の十月には私が大学受験をするまで延長になった。彼が大学院に進学することになったからだ。
高校三年に進級する前の春休みに初めて彼とホテルに行った。その日は母がずっと心待ちにしていたクラシックコンサートがあった。でも急な仕事が入って母は行けなくなった。前日の夜、珍しく私たちは三人で夕食をとっていた。母は彼のグラスにワインを注ぎながら提案した。私と二人で行ってきたらと。
彼と二人で出かけるのは初めてだった。座席について照明が落とされていくと彼は私の手を握った。それは温もりのある手だった。思わず彼の顔を見た。暗がりの中で彼は愉しそうに笑いかけてきた。そして私の太腿に手を伸ばしてさすった。その初めての感触に理性という思考が左脳から吹っ飛んでしまった。彼の左腕に両腕をからめて意識して胸のふくらみを押しつけた。
「こんなに高級な所じゃなくていいのに」
「君のママに充分な報酬をいただいているからね」
高層ホテルの部屋の窓から見えた水色の空のパノラマを楽しんだのは一瞬だった。ベッドの上に押し倒されてキスされた。私のファーストキスは一気に初体験にまで登りつめてしまいそうな勢いを醸し出していた。でも結局のところ彼はキスしかしてこなかった。両脚の間がどうしようもなく苛立ってきて媚びるような声を出して言った。
「啓さん。私、処女とかってどうでもいいの。だからあなたのいいようにして。それにあなたの彼女になりたいっていう訳じゃないし」
そんな思ってもみなかった言葉が口をついた自分に内心で恐ろしくなった。
「君はまだ十七だろ。僕は未成年の高校生には手を出さない」
「じゃあ十八になって高校を卒業したら手を出してくれる?」
「もちろん」
また私たちは身体を触れ合わせて唇だけを重ねた。
それから月に一、二回はホテルの高層階の部屋でこんな風に裏表のある宙ぶらりんな関係を続けていた。それでも彼の身体はとても温かかった。もう何もかもがどうでもよくなった。身体の奥を蕩けさせる匂いのする彼の腕の中で私は目を閉じた。きちんとお行儀よく服を着たままで。
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