私の詩は水色のなかをたゆたう
真森アルマ
第1話
「
リビングに置かれたダイニングテーブルの上に数学の問題集を開いて、顔を突き合わせた私と彼は無機質な数式が並んだページを覗き込む。彼の黒い前髪が右頬に刺すように触れて私は胸の鼓動を不協和音で奏でた。水色のノートを舞台にして無意味に踊る数式のイコールの先に彼は私への秘密のメッセージを書き込んだ。
=明日も会いたい
「水沢さん、この二項定理の公式ですか?」。私は素知らぬ顔で彼のメッセージを消しゴムで擦って返事を書いた。
=明日は土曜授業 午後からならOK
「そう。この公式を使えば最短で正答が出る」。落ち着き払った声で言いながら彼は左足を揺すって履いているスリッパを落とし、テーブルの下の足先を私の脛に這わせた。思わず私は生理が終わったばかりのつるんとした腰を数ミリ浮かせた。対面式キッチンで夕食を作っている家政婦の増井さんが私に視線を向けた。
彼は私の家庭教師だ。私は彼を見ない。迷走中の数式を修正するふりをして隣にいる彼の存在を身体中で感じている。テーブルに飾られた真紅のバラのいやらしい香りが、彼の素肌の深い森のような匂いをいやがうえにも引き立たせる。でもそれに私は溺れない。美しい正答へと最適に導いてくれる公式と同じように、最短で大学受験を終わらせようとしているからだ。
区立中学から私立女子高へ入学早々、学校に行けなくなった。色気づき始めた女だけの濃厚過ぎる花園にいたたまれなくなったのだ。彼女たちは高額な学費を支払ってもなお潤う家計から得た小遣いで入手したブランド物やメイク用品をこれ見よがしに晒している。休み時間には整然と親の所得ごとのグループになって始終スマートフォンに目を落とし、その甲高い声で自らの承認欲求を満たす為の会話は全く嚙み合っていない。母に言われるがままにこのお嬢様学校に入学した選択が間違っていた。
その年の五月を区立図書館で過ごした。勉強は嫌いではない。むしろその必要性を知っている。大人になって自由を手に入れるためだ。システマティックに人生のレールが決められたこの国で自分勝手に生きていくには、ただ学ぶことだけがそれに抵抗する術だ。そんな私に母は頼んでもいないのに家庭教師をインターネットから掘り出してきた。母は同時通訳者だ。シルバーのスーツケースを転がして日本全国を旅芸人の如く巡っている。両親は私が三歳の時に離婚した。それから母と祖母と三人で暮らしてきたけれど、おととし祖母が亡くなってから、増井さんが夕食を作りに来てくれるようになった。
小糠雨が降っている高校一年の六月の初めに、彼は私の前に突然現れた。私と母は駅前の洋菓子店で買い求めた小さめのホールケーキを用意して、その家庭教師がやって来るのを待っていた。母は家庭教師なんて必要ないと最後まで渋る私ににっこり笑って説得した。「彼女、
「ねえママ。私、家庭教師なんてやっぱり嫌。家の中にまた赤の他人が入って来るなんて本当に落ち着かないんだけど」
その時インターホンが鳴った。作り笑顔で母が言った。「ほら詩。玄関まで水沢さんをお迎えに行きなさい」。全然気が進まない私は母に手渡されたタオルを携えてやけにのそのそと玄関に向かった。ドアを開けると黒髪と濃紺シャツの肩を濡らした背の高い男が立っていた。彼は私の目をまっすぐに見つめた。その聡明そうな黒い瞳は淡く青みがかって見えた。私はたじろいだ。彼はタオルを受け取ると前髪に滴った雨粒を吸い込ませた。一瞬、彼の冷えきった指が手に触れて私の胸を騒めかせた。
「君が
何も言えずにただ顎を縦に揺らした。
「よろしく詩さん。僕は水沢と申します」
後ろから母が調子の外れた大声をあげた。「あら、あなた男性なの!」。彼は濡れた前髪を掻き上げて何の感情も込めずに言った。「僕の名前はよく女性に間違われるんですよ。もしかしてネットの紹介文に女性だと記載されていましたか」。苦笑して母は無言で頷いた。「そうですか。では僕はこれで失礼します」。一礼して彼は背中を向けた。その瞬間、私は彼の腕をつかんで言った。「水沢さん、一緒にケーキを食べましょうよ」。彼は肩をすくませて私に向かって微笑んだ。
今でもどうして自分がそんな行動を取ったのかは永遠の謎だ。目の前でホールケーキを百二十度にカットしてきっちりと三等分した彼はその日私の家庭教師になった。
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