心肺停止
彼が死んだと聞いたとき、私はあらゆる感情を失った。
喜ぶかと思った。悲しむかと思った。でも、私はそのどちらも出来なかった。
彼が死んだことは、悲しい。私が生きれることは嬉しい。そうなるはずだった。彼だって、私が先に死んだら同じように思ってくれるって、そう信じていた。
そんな私の元に戻ってきた彼の体は、少しだけ薄くなっていた。他の部位は酷く損傷しているにも拘らず、顔だけは奇跡的に殆ど無傷だった。
「人の頭には鼻腔っていう大きな穴があってね、見た目よりも軽いらしいよ」
そんな、軽口を思い出した。
ねえ、どうして?これじゃあ......
「私、約束守れないじゃん......」
嘘つき。
涙はこんなにも溢れてくるのに、そこには何の感情も含まれていない。どんなに顔を手で覆っても、隠しきれないほどの勢いなのに。
私は、どうやって悲しめばいいのだろう。
医師は、彼の瞳にライトを当てた。人の手により瞼を開けられた彼の姿は無機質な死そのもので、そこにあるのが彼の死体であることを私に現実として突きつけた。
「瞳孔の散大と対光反射の消失を確認しました。心音と呼吸音も聞こえません。心臓の停止も確認できます。12月31日18時54分、死亡を確認しました」
粛々と、若い医師は告げた。
心音など、聞こえるはずもない。彼の臓器は完膚なきまでに潰されている。彼が呼吸を止めた時、私に移植されるはずだった心臓含め、全てが。
彼は死んだ。
こんな終わりだなんて、聞いてない。
同じ結末を迎えるなら、どうして2人とも生きてちゃいけないの?
◆
今思い返してみれば、彼の人生はあまりにも酷だった。
彼の祖父母は、彼が生まれる前に殆ど死亡している。父方の祖父は事故で、祖母は膵臓ガンを、母方の祖父は肺ガンを患い亡くなったそうだ。唯一、生きていた母方の祖母は両親共々交通事故で命を落とした。
連絡のつく親戚もいない。母方の祖母の父である曾祖父が、まだ幼かった彼の保護者になったほどだ。10歳前後の子供が経験していいものではない。
私は、余命5年と宣告された。6年前の事だった。
彼は、余命10年と宣告された。9年前の事だった。
私は、あの日から1人で過ごす時間が増えた。彼が死んだことにより不安定になった私を宥めようとした人は多く居たが、その全てから距離を取った。
たった1人の、少女を除いて。
「お姉ちゃん、これ読んで!」
「......うん」
無邪気で、明るい笑顔の少女。もう死んでしまった彼と、同じ病気を患った子供。
この子は、助かるらしい。
「昔々、あるところに───」
彼女が持ってきたのは、他愛もない本だった。願い事を叶える悪魔と、それに縋ってしまった男の話。
男は、病に侵された妻の快復を願い、ある山に住む悪魔へと自らの腕を差し出した。結果として妻は助かったが、男は出血多量で死んだ。。
学のない男は、両腕を失った自分がどうなるか分からなかったのだ。結果として男は山中で死に、妻が1人残された。
要約してしまえば、たったそれだけの話だ。その後の話すらない、悪魔に唆された男の末路を綴った本だ。
それなのに、何故だろう。私は、この本が酷く残酷で救いのない前提を元にした物語に思えてくる。
「この女の人は、幸せになれたのかなあ」
ぼそりと、少女が呟いた。
快復したことは、確かに幸せと言えるだろう。ただ、そのために夫が犠牲になったことは不幸と言えるだろう。
ただ、その真実を知らないでいることは、幸せなのだろうか。夫の行動は、結果として妻を幸せにできたのだろうか。
「だって、この話は終わっていないよ。この男の人は、女の人が元気になった姿を見てないもん」
ああ、彼女はまだ「死」を知らない。学のない男が、道具もなく山中で両腕を失ってしまえばどうなるか、分からないのだ。
少女のドナーは見つかっている。死んでしまった彼と違い、少女には家族がいる。
生体肺移植という方法で、生きている家族の肺の一部を分けてもらうのだ。
彼と違って、家族がいるから。
私の心臓になれなかった彼。私の胸で脈動する心臓は、もうまともにリズムを刻めているときの方が珍しい。私と違って歌が上手かった彼なら、もっと綺麗なリズムを刻んでくれたのかな。
すぐに拍動がおかしくなっちゃう私と、息が上がっちゃう彼。まるで、恋でも患っているみたいだねって、笑って。また泣きそうになった私を慰めてくれて。
ああ。
こんなにも、救われない救いはあるのでしょうか?
私は、彼と一緒に居たかった。たとえ、私か彼が生きていなくても。たったそれだけの事が、その程度の願いですら、私たちにとっては高望みだったのでしょうか。
私は、彼は何か罰を受けるべき罪を犯したのでしょうか。
「男の人、間違えちゃったんだね」
堂々巡りする思考を、純粋無垢な少女の一言が止めた。間違えた、その言葉の意味を、今の私はすぐに理解できなかった。
「もしも、悪魔?じゃなくて神様にお願いしたら、怪我せずに済んだのにね」
私はキリスト教徒でもなければ、この本の作者でもない。悪魔や神がどんな存在なのか、知る由もない。
悪魔は、願いを叶えるにあたって代償を必要とする。神はそれを必要としない。ただ、相手を選ぶだけ。その程度の認識に過ぎない。
ただ、この男が神に祈ったとして、妻は助かったのだろうか。自身の身を顧みない愚直さか、その結果として妻を1人にしてしまう愚かしさか。神は、どちらをその男の本質として見定め、判断を下すのか。
「......お姉ちゃん?」
「いや、何でもないよ。少し、○○ちゃんの言ったことについて考えてただけ」
もし、この場に彼が居たなら、何と答えただろうか。移植なしでは死を避けられない難病に罹っていることも、目の前の相手が今死んでもおかしくない状態であることも知らない少女に、何を伝えられるだろう。
結局、私には何もできなかった。
「───じゃあ、部屋に戻ろっか」
「うん!」
気付いている。私は、早ければ今日死ぬ。もう私の心臓は限界を迎えている。
呼吸するだけでぎりぎりと締め付けるような苦痛が走り、歩けば一瞬で眩暈を起こし、あの本を一冊読めたことだって奇跡みたいなものだ。
でも、もういい。ようやく終わる。
これ以上の延命は望まない。人工心臓は、血栓ができやすい体質から初期の段階で棄却されているし、そもそも手の打ちようもない。
最期を過ごす場所を選ぶなら、ここしかない。私と彼の思い出は、全て私の病室と彼の病室で紡がれた。最期に見る景色は、この無機質な部屋が良い。
贅沢を言うと、彼に看取ってほしかったけれど。
糸が切れた操り人形のように、ベッドへと倒れ込む。もう、座ることもできない。
ナースコールを押すために腕を伸ばそうとしても、僅かに震えるだけで到底届きそうにもない。胸が痛い。呼吸が浅くなる。視界が狭まり、徐々に暗くなってゆく。
これが、死か。
「......ねむいなぁ」
薄れゆく意識の中、朦朧としたまま吐いた言葉を誰も拾わない。ただ、廊下を駆けて行く少女の足音だけが響く。
小さな欠伸をした私は、久しぶりに深い眠りにつく。
私の心臓になれなかった彼の夢を見ることは、もう無かった。
欠伸の挽歌 湊咍人 @nukegara5111
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