丘をおりる日
藤光
丘をおりる日
かばんひとつでやってきた。
そして、やはりかばんひとつで立ち去ろうとしている……。
――三十六計逃げるに如かず。
入った当初からぼろアパートで、落ちかけた壁土や剥げた畳表を見るたびに、「もうよそう。こんなところにいちゃダメだ。出ていこう」と思わないことはなかった。じっさいぼくより先にいた人たちは、どんどん引っ越して出ていったし、後からやってきた人たちも、やっぱりどんどんと出ていくのが普通だった。
それが、あと一年やってみようもう少し頑張ればデビューできるかもしれないと決断を先延ばしにするうちにずるずると居続けて、いつのまにかこのアパートの最古参。大家以上にアパートを知るぼくは、管理人室に住むようになって20年以上たってしまった。
今日は、老朽化したぼくのアパートが取り壊される日だ。
都心を見下ろす高台に立つ『第二大志館』は、百年近く前に建てられた木造二階建てのアパートだった。ここ二十年近くは建物の老朽化が激しく。入居者もほとんど居なくなっていたため、去年、大家が代替わりしたのをきっかけに取り壊しが決まったのだ。その代わり、ここには最新の高層マンションが建つらしい。
管理人としてSNSでアパートの取り壊しを告知すると、意外にもおおぜいの元入居者から問い合わせがあった。
「取り壊しの日にちを教えてほしい」
「取り壊しに立ち会いたい」
取り壊しの日――2月28日には十数人の元入居者が『第二大志館』に集まった。
ぼくが知らない人も来ていたが、多くの元入居者はお互いに顔見知りだった。20年以上、なかには30年前にぼくがここへやってきたときの入居者がアパートの最期に立ち会うためにやってきた。
――やあ、ひさしぶり。
――老けたねえ。
――それは、お互いさま。
彼らを見ていると、久しぶりに「あの頃」を思い出すことができた。当時からぼろで不便だったこのアパートの家賃は格安で、金のない若者とそれに輪をかけて貧乏な大人たちの溜まり場のような場所だった。薄い壁を通して、隣りの部屋からは頭が痛くなるようなロックが、天井板を通して2階からはテレビの歌謡曲が聞こえてきた。廊下には階段までずっと焼酎の空き瓶が並び、焼酎より高いビールの瓶が出る部屋には皆でたかりに入った。
集まった元入居者の中に、ひとりだけ特別な雰囲気をまとった女性がいた。テレビや映画で人気の女優Aである。このご時勢、サングラスにマスクを付けて変装しているが、目立つ美人だ、すぐに分かった。30年前、彼女はぼくの部屋の廊下を挟んで斜め前に住んでいた。彼女は売れない女優で、ぼくは小説家のたまごだった。
「管理人さんになったのね」
ずっとむかしに有名になってしまった人だ。
彼女がぼくのことを覚えていることに驚いた。
「そういうわけじゃないんですが……なりゆきで」
「まだ、書いてるの?」
「ええ、まあ」
「がんばってるのね」
「さあ……どうでしょう」
ただ書いているというだけで、ぼくは、彼女の1/10だってがんばれていると思えなかった。雑誌にぼくの小説が載ったのは、じぶんでも忘れてしまうくらい前のことだ。
ぼくは彼女に憧れていた。女優だという彼女は、ぼくにはない何かを持っている人のように感じられた。だから、彼女と身体の関係ができたときには、何が起こったのだろう? と現実感がなかった。
ある晩のことだ。ずっと書き進められないでいる原稿に嫌気がさして「あとは明日にしよう」と電気を消して横になっていた。真夜中のアパートはそれでも完全に眠りにつくことはなく、壁や天井を伝ってどこかの部屋のだれかの気配がぼくの部屋へ忍び込んでくる。染みの浮いた天井板を見上げながら、ぼくはそれらの物音に耳を澄ませていた。
さいしょはドアを開けて入ってきたのが、アパートに住む悪友たちのだれかだと思っていた。ふざけあうのが日課となっているような男たちだったから、ぼくの寝込みを襲ってからかうのだろう。「返り討ちにしてやろう」と柄にもない茶目っ気を出したぼくが、近づいてきた人影を「わっ」勢いよく布団に引きずり込むと、それは酔っ払ってアパートに帰ってきた彼女だった。
ふたりともびっくりしたけれど、彼女を抱きしめて舞い上がってしまったぼくは若かったし、酒に酔っていろいろとガードが下がり気味だった彼女もまた若かった。ぼくたちは明け方までお互いを飽きることなく求め合って、窓にしらじらとしてきた空が映りはじめる頃、彼女はぼくの部屋を出ていった。
そのあと、夜になってから何度か彼女の部屋を訪ねた。何やってんだろう、嫌われるかもしれないのにと考えながら。じっさいの彼女はいつも部屋のドアを開けてくれたし、嫌そうなそぶりは一度も見せたことはなかった。古いアパートのあちこちから伝わってくる夢の鼓動に包まれてぼくたちは抱き合った。少なくともぼくはそう感じていた。根拠のない自信と同じだけの不安と不満に駆り立てられたぼくはなにか縋り付くものが欲しかった。
彼女もそうだったのだろうか。
でも、それは分からないまま。
彼女は女優だったから。
数ヶ月後、彼女はぼくたちのだれにも告げないままアパートを引き払って、後にはDJだという軽薄な男が入居した。彼女がテレビや映画で引っ張りだこの女優として活躍しはじめる直前のことだった。
地響きをあげてアパートの敷地に入ってきた重機が、恐竜ように大きな爪を振り上げて『第二大志館』の瓦屋根を引き剥がした。木の裂ける悲鳴のような音と土埃。ぼくのアパートは瞬く間に形を失っていった。取り壊しを見守る元入居者たちの間からも、小さな悲鳴とたくさんのため息が漏れた。
最期のとき。
小一時間もしないうちに、アパートは原形を止めない程度にまで破壊され、後には瓦礫の山が生まれていた。アパートの最期を見届けた人たちも興を失ったのだろう、あらかたはいなくなってしまった。
ぼくの管理人としての仕事もこれで終わり。もういいだろうと思ってかばんを手に持ち、振り返ると、まだ彼女が唸り声をあげる重機とぼくを見ていた。
「ここに建っていたのは、ただのアパートじゃなくて、わたしたちみんなの『あの頃』だった」
彼女はハンカチを差し出しながらそう言った。いつの間にかぼくの頬は涙に濡れていて、真っ白なハンカチが目に沁みた。
「あ、ありがとうございます」
――三十六計逃げるに如かず。
「逃げ出さずにいてよかったって思える人生にしたいわね」
小さなノートパソコンがひとつだけ入ったかばんを指して彼女がそう言ったので、我慢できなくなったぼくは泣きだしてしまった。声を上げて泣いて、泣いて、顔を上げると、彼女はいなくなってしまっていた。
濡れたハンカチをかばんに結びつけるとぼくは歩きはじめた。人生の半分以上を過ごした高台を下りて、一度も振り返らなかった。
丘をおりる日 藤光 @gigan_280614
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