秘伝のタレ

七織 早久弥

第1話 秘伝のタレ

 都に評判の料理屋があった。地元の美味い酒と料理を出す店で、いつも常連客で賑わっている。中でも秘伝のタレを付けて焼いた鴨肉が自慢料理で、お客の九割が必ず注文する名品だった。

 だが店の主は、近頃少し頭を悩ませていた。

「店が常連さんで賑わっているのは嬉しいが、少しは新しいお客さんにも来てもらわなければ・・・ あぁ、先行きが心配だ。」

しかし、どうしたものかと悩むばかりで少しも名案が浮かばずにいた。

 ある日、店先で主が下働きの若い男に道具の使い方を教えていた。どうやら若い男は、柄雑巾が上手く使えないらしい。主が側で見てやるが、腕力がないのか? 不器用なのか? 柄雑巾を桶の水に浸け適度に絞って床に下ろす。これが出来ずにいる。

「旦那様、申し訳ございません。こんなに便利な道具は、都に来るまで使った事がございませんで・・・」

若い男は頭を掻きながら決まりの悪い様子。

「そうか。初めて見たのなら仕方がないが・・・ それ程難しい事とも思えないのだがな。」

主はどうにも困ってしまった。

 そこへ店の中から番頭の男が出て来た。

「あぁ、番頭さん。ちょっと見てやってくれないかい? この男はどうにも柄雑巾が苦手のようだ。」

主が番頭に柄雑巾を渡すと、若い男は申し訳なさそうに愛想笑いをして桶を近付けた。

「あぁ、旦那様。そんな事でしたら私が。」

番頭は受け取った柄雑巾を桶の水に浸し水を切り、店の石三和土たたきに打ちつけた。

 すると、ここぞと気負った番頭の勢いが強く柄雑巾についた水がぱーんと跳ね上り、入口の白壁に茶色の線が走った。下から上へと筆書きしたように跳ねた見事な線が白壁についている。

「あやー! これは参った。旦那様、申し訳ございません。」

「あぁ、なんてこと・・・ 自慢の白壁が・・・ 柄雑巾にタレが残っていたのだな。どうしたものか・・・ 困ったぞ。」

主は手を震わせて困っている。

「旦那様。今ならまだ乾いておりません。屋根から水を流せば落ちるかもしれません。」

「おぉ、そうか。そうかもしれん。あゃ、そんな事をしたら、せっかく来てくれたお客さんにタレの水がかかってしまう。もうすぐ店を開ける時間だ。ダメだ。ダメだ。あぁ、困ったぞ。」

下働きの男は、ますます決まりが悪くなりおろおろしだした。そうして店の入口で三人がうろたえていると、二人の若い娘が通りかかった。

「ねぇ、なんだかよい香りがしない?」

「えぇ、確かに。美味しそうな匂いよ。この店かしら? きっと何かのタレの匂いよ。」

「ねぇ。朝から何も食べていないし、お腹も空いてきたわ。せっかく都に出て来たのだし、何か美味しいものを食べましょうよ。」

「そうね。このよい匂いの店に入りましょう。あの・・・ 今から二人で食事が出来るかしら?」

娘の一人が番頭に声をかけた。

「あぁ・・・ えぇ、もちろんです。さぁ、どうぞ。うちは秘伝のタレで焼いた鴨肉が自慢ですよ。」

番頭は、嬉しそうに娘たちを店内へ招く。

「まぁ、美味しそう。さっきの香りは、その秘伝のタレの匂いね。」

「えぇ、きっとそうね。さぁ、入りましょう。」

「お二人さん、ご案内です!」

番頭は元気よく店の中へ声をかけた。

「番頭さん。壁はこのままにしておきましょう。秘伝のタレのよい宣伝になる。そしてすぐに職人さんを呼んで、この戸口に小さなタレ壺を下げられるように作ってもらいましょう。」

「はっ? 旦那様。タレ壺を戸口に下げるのですか?」

「あぁ。今の娘さんたちを見たでしょう。この壁に付いたタレの匂いを嗅いでうちの店に決めてくれた。前に先代から聞いた話を思い出したんだ。

 あのな。昔、ある娘が家の前を通る立派なお屋敷の旦那様に嫁ぎたいと願い、どうにか旦那様が家に立ち寄ってくださるようにと家の門の前に盛り塩をしたんだ。すると、旦那様の牛車の牛がその塩を舐め始め門の前から動かなくなってしまった。仕方なく旦那様は牛車を下りその家を訪ねた。そして、その家の娘を見初めたのだと。それと同じだ。この戸口に秘伝のタレをぶら下げて置けば香りが漂いお客さんに届く。この香りに誘われて今のように店に寄ってくれるかもしれないだろう?」

「ほう。なるほど。うちの自慢のタレの香りを、道行く人に知ってもらうのですね。」

「そうだ。そうしたら、きっと食べたくなる。初めての人でも匂いで味が分かるから、少しは入りやすくなる。」

「えぇ、旦那様。よい考えです。さすがですなぁ。さっそく職人を呼びましょう。」

「あぁ、そうしておくれ。これ若いの、お前さんが柄雑巾を上手く使えなかったお陰で、名案が浮かんだぞ。ふふふっ。ありがとうな。」

主は、若い下働きの男の手を取って言った。若い男は、申し訳なさそうに苦笑いしている。

「いやぁ、さすが旦那様です。私も柄雑巾をしっかり使えるように致します。掃除をするにも便利なようですから。」

若い男は桶を手に店の裏手へ回り、柄雑巾を絞る練習を幾度もした。

 店にはその日のうちに職人が来て、小さなタレ壺が下げられるよう仕上げた。翌日から、店の戸口には温めたタレが下がり日に二度も交換された。温かいタレは、湯気とともに香りを通りに漂わせ、店の前はいつも秘伝のタレのよい匂いがする。匂いに誘われた新しいお客がちらほらと店に入っては、常連同様に店自慢の鴨肉を注文するのである。都の人々はいつしかこの店の事を‘誘香楼’と呼んだ。

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