短編小説:星数えの丘のこと

 林は翡翠色の光で満ちていました。身を刺すような日光は、葉を透き木々に恵みを与え、林冠の下に生きる者に心地よい明かりをもたらすのです。今も少女が心地よさにキノコの上で舟をこぎました。

 髪は金色で肩に毛先が触れるほど、ふわりふわりそよ風に流れます。小さく端整な顔に若草の衣、脚は白樺の枝のように細く滑らかで、草木によく馴染みます。その様はまさに林の一木でした。

「ジニア!」

 枯れ葉を踏んでは蹴飛ばす音に、雨粒の弾けるような声が響きます。

 白銀の髪をなびかせ来た少女は、まどろむ少女より顔も身も幼く、無邪気な笑顔を湛えていました。

「ジニアお姉ちゃん!」

 顔を覗き込みます。熱い視線でいくら焼いても、一木の沈黙は破られません。ただ風に葉を揺らし、流れる時に身を任せ、そこに存在するだけです。それも白銀の少女にはなれっこです。イタズラ心をくすぐられ、声を抑えて笑った後に、顔を顔へと近づけました。

「いっつもねぼすけなんだから」

 囁いて額に口づけします。混じりあう金銀に甘い香、そよ風はいつも花たちを祝福し、想いを天まで運びます。空に輝く星たちは、かつて結ばれた愛の記憶でした。この口づけも青光の星となり、今晩には同じ血を分かつ仲間と瞬くことでしょう。

 そっと唇が離れ、髪と髪は解けていきます。イタズラっ子はクスクス笑い、白樺の枝が風に負けじと力を宿します。ジニアの瞳が瞬きました。淡い赤色の輝きは、星々の母に相応しい古星の色です。

「アネモネ……」

「今日もお昼寝してたの?」

「ええ、最近眠くって」

「会ったときからじゃん」

「ふふっ、そうだったわね。でも最近は特に眠いの」

「春だもんね、もうすぐ夏だけど」

 ジニアは背を反らすよう伸びをしてため息をつきました。

「そうね、もうすぐ目が冴えてくるわ、いつまでも夢を見てはいられないのね」

「また深いこと言ってる」

「深くない、言葉通りの意味よ」

「だから余計だよ。夏に目が冴えるとか意味わかんないし、夢が覚めるのも当たり前じゃん、なのに悲しそうな顔するんだもん」

「そんな顔してたかしら?」

「前にアタシがリンゴ食べちゃったときと同じくらい」

「それはひどい顔ね、今日は特別な日だもの、あなたの大好きな笑顔でいるわ」

「特別な日?」

「アネモネとの毎日が特別な日よ、けど、今日はもっと特別」

「なになに、何かあるの?」

「一緒に散歩したいって、言ってたわよね?」

「え、いいの? だっていっつも疲れるから嫌って」

「ひと眠りしたし、なんだか特別元気なの、だからつきあってあげる」

「やった、ありがとう!」

 アネモネはジニアをギュッと抱きしめました。ジニアは抱き返さず、背中を軽くポンポン叩き、温もりを噛みしめました。歓喜に力んだ腕はまもなく解けます。そして「さあ、いこ?」と前に差し出されます。それを掴んで立てば夢の時間の始まりです。

 アネモネに手を引かれ、前のめり気味について行くジニアは、子と遊ぶ母親のようです。実際、彼女は「お姉ちゃん」と呼ばれますが、母親同然の存在でした。

 二輪は妖精です。血の通った親はなく、大自然が二輪を生み育てました。それでも魂と魂は繋がります。彼女たちの魂は何者だったのか、かつて繁栄した人間のように姉妹や親をなし、共に生きていくのです。誕生を見守り育ててきたジニアですから、その愛は母に近いことでしょう。ただ少女たちにとって愛を形容する言葉はナンセンスです。二輪はいつもジニアとアネモネだからです。

「ジニア、遅いよ」

「私も若くないの、少し手加減してちょうだい」

「手加減はしてるもん、握る力はそんなに強くないでしょ」

「足加減して」

「……わかったよ、でも、特別な日が終わっちゃうよ、いっぱい歩きたい」

「そうね、終わっちゃうものね」

 ジニアがアネモネの手を掴み先行します。

「今日は特別よ! 私の好きなものを一緒に見ましょう」

「わわっ、ちょっと足加減してよ」

「若いんだからついてきなさい?」

「幼いから無理」

「幼いなんて歳じゃないでしょう、ほら行くわよ、最初はヒトヨタケの楽園ね」

 こうして母子を交代し、二輪は林の中心部にやって来ました。一角に木々の生えない草地があり、ヒトヨタケが大発生する楽園となっています。

「すっごい!」

 アネモネは茸のかさを突き、ぷるりと揺れるのを面白がりました。その後は輪になったヒトヨタケの群れの中心で踊ってみたり、そこへジニアも入れて一緒に踊り歌ったりしました。ついに二輪は踊り疲れ輪の中心で寝転がりました。

 笑いながら息を切らす乙女たちは顔を見つめ合います。

「こんな場所があるなんて思わなかった!」

「いつも私の近くだものね。ここは私が生まれた時からずっとあるの、冬には枯れ草しかないけど、春になればこんなに賑やかなのよ」

 アネモネは近くのキノコに手を伸ばし「へえ」と返事します。

「いなくなっちゃうのに戻って来るんだね」

「戻って来る、ね」

「えっ、アタシなんか悪いこと言った?」

「あらどうして?」

「急に悲しそうな顔するんだもん」

「年を取ると感情が薄れてくるのよ、それで悲しそうに見えるだけ」

 納得できずアネモネは不満顔です。そして次の質問をぶつけようと思ったとき、彼女らの頭の方から何者かの気配がしました。

 起き上がって見ると、それは彼女たちと同じ妖精でした。青黒い短めの銀髪に眠そうな目と小さな口、薄茶の衣をまとい、太ももまであるスリット入りのケープを羽織り、木の葉を束ねた本を抱え、キノコの群れの中に佇んでいます。

「アトラメンタリアね?」

 少女は頷きます。

「私はジニア、この子はアネモネよ」

 アトラメンタリアは二輪を眺めると、本を開いてページをめくり始めました。動きがぴたりと止まります。すると両手で本を前に出し書かれている物を見せました。そこには薄い色の線のスケッチがありました。絵は二輪にそっくりです。

「ええ、その絵の子は私よ」

 それを聞いてケープの乙女はニッコリします。

「あなたの前の子とも仲良くさせてもらったわ、あなたたちも本当にそっくりね。短い間だけど、よろしく」

「えっと、アトラメンタリアちゃん?」

「長いからアメリアって呼んであげるといいわ」

「アメリアちゃんよろしくね!」

 何度も大げさに頷いて、髪をぷるり揺らします。首の動きがおさまると、ケープの内から筆を取り出しました。柄はオークの枝で筆先は彼女の銀の髪です。それを彼女がくわえると黒いインクが染み込みました。それで二輪それぞれの手の甲に自分の顔を描き、それぞれギュッと抱きしめました。

 そして姿勢を正し、もう一度乙女たちの顔を見てニッコリ笑うと去って行きました。

「あの子、かわいかったね」

「アメリアはいつもかわいいわ」

「でもアタシの方がかわいいでしょ?」

 アネモネがジニアの腕に抱き付き、上目遣いでうったえます。

「どうかしら?」

「そうだね、自分でかわいいとか言うのってどうかと思う」

「自分で言うのね」

 軽い冗談を交わし顔に温もりが宿ります。それでもアネモネの内では、小さな澄んだ氷が冷気を放っていました。

「ところで前の子ってなあに?」

 純粋無垢の瞳でジニアに問います。

「前の子ってあの子の?」

「うん、たぶん。見た目も性格もまったく同じ、でもあの子じゃないの。だから前の子」

「前の子はどこに行ったの?」

 ほんのりかすんだ虹彩が潤いを帯びます。「そうねえ」と唸って青空の果てを望み、微かに唇が動きますが、あふれたのは言葉にならない想いだけです。潤いは悲しみだけのせいではありません。そこには確かに愛のような物が見え隠れしていました。アネモネにはそれが過去を懐かしむように見えました。また今の自分を見ていないジニアに、少し不満を抱きました。

「わからない。あの子はたった一回の春夏秋しか知ることができないの。冷たく乾いた風が吹けば、溶けていなくなる。夜の星になってるらしいわ」

「へえ、なんか素敵だね」

「ええ、でも星に手は届かないの」

「届くかもよ」

「いつかは届くのかもね。そうだ、アネモネは星のこと知りたい?」

「知りたい知りたい!」

 ひとつまみの不満は喜びにふりかけるスパイスです。爽やかに香りは過ぎ去って、もとの無邪気な顔が戻りました。それにはジニアも微笑まし気です。

「ふふっ、じゃあクエルカスのところに行きましょう。彼女は星でも何でも知ってるわ」

「ホントに何でも?」

「もしかしたらね」

 二輪指を絡ませて、しっかりとした足つきで、林のさらに中心へと入っていきます。次第に深くなる林床の闇は、古にも人の手が入らなかった新緑の森ゆえです。それでも二輪が迷わず風と木々の隙間を縫うのは、花の名を宿した妖精ゆえ、そこにあって然る草花同然だからです。

 妖精の足音が向かう先には、オークの大樹がございます。我よ我よと伸びる若木と、今にも倒れ座を譲らんとする老木で溢れる中心部、老いてもなお若き大樹の座を狙う者はおりません。物言わぬ木々も畏れ崇拝するのです。それも忘れられた過去を多く記憶しているからでした。

 少女たちの視界がパッと明るくなります。そこはもう大樹の裾元です。葉に映る光が闇を許さず、風すら口をつぐみ、死のような静寂があるだけです。温かな木漏れ日が、うねる幹の滑らかな樹皮を照らします。まわりに生える老木たちは身を苔におおわれていました。でも彼女には苔すら触れられないのでした。

「クエルカス、久しぶりね」

 ジニアに応えるよう、地から何本もの根が伸びて結ばれ、四肢のある形になりました。乙女の肌は樹皮のように滑らかで温かみがあれど硬く、衣は裾が大きく広がりドレスのようです。目は鮮やかな紫水晶の輝きを湛えます。深緑の長い髪に木の葉の冠を戴き、まさにこの地における唯一無二の長です。

「ジニア、随分と老けたな」

「あなたほどでは」

「我は永遠の少女だ」

「お互い様よ」

 老いた者たちは静かに笑いました。それを眺める若き一輪の、賢者への期待と少しの不安に染まる目が、二者を行き来します。するとすぐにジニアと目が合います。彼女はアネモネの目に微笑みで答えクエルカスに向き直りました。

「それで、今日はこの子が星のことを知りたいって言うから来たのだけれど」

 木精はアネモネの顔を見て、喉の奥から「ほぉ」と息を漏らしました。

「なるほど。君は、アネモネだな」

「はいっ、なんでアタシのことをご存じなんでしょうか」

「かしこまらずとも良い。楽園のアトラメンタリアには会ったな?」

「うん、でもどうしてわかるの?」

「においだ。あの子と同じヒトヨタケという者は多くいる。そして同じ名を冠する者は、髪色が違うこともあるが、同じ姿で同じ運命をたどる。それはジニアもアネモネも」

「へえ、何か不思議だね。ちょっと他のアネモネに会ってみたいかも」

「いつかは会えるかもしれない」

「でも私は他の私に会ったことないわ」

「我も同様だ。放浪のタラクサクムという者曰く、この地にはこの我が、遠方の森にはまた別のクエルカスがいるという」

 それを聞きアネモネは木精の体を見つめて唇を軽く結びます。考え事のお供は乙女の肌です。薄褐色の胸元には、花の模様が二輪彫られていました。一輪は大きな花弁、もう一輪は小さな花弁がたくさんありますがところどころ花弁がなく未完成でした。

「他のアタシとジニアも仲いいのかな」

 ジニアは顔に小さな驚きを浮かべました。ですがそのこわばりも、一瞬にして日を透く目に解けてしまいます。そこでまたアネモネの嫌いな悲しい微笑みを見せるのでした。そして答えます。

「仲良しでしょうね」

 微笑みにクエルカスが応えます。

「ジニア、歳だからといって悲観するな」

「悲観してないわ」

「我らもいつか枯れ朽ち星になる。我も何度冬を数え、お前を見送ったことか。お前の終わりは近い。せめて悲しみを忘れ星になって欲しい」

「言葉遊び?」

「星だけにな」

「もっと楽しそうに言ったら?」

「肌が硬いものでな、お前ほど繊細な表情はできない」

「顔は変わらないけど内は悲しみでいっぱいなんじゃない?」

「悲しい。だが、もう慣れてしまった。それになにより次の出会いが楽しみではないか」

「相変らず強いのね」

「鈍感なだけだ」

 老いた者たちは再び笑います。アネモネには、そのおもしろさがわかりません。静かな笑いの世界に嫉妬の念がつのります。彼女は気を引こうとして、ジニアの腕に強く抱き付きました。

「ねえクエルカス、そろそろ星について教えてよ」

「そうだった、無駄話が過ぎた。空の星は我々の魂だ。身体はいつか枯れ朽ち、あるいは溶けて光となる。そして季節の風に運ばれ天へと昇り夜を彩るのだ。まれに星が地に流れ落ちることがある。そのとき魂は地上に戻る」

「別れてもまた会えるんだね」

「どうかしらね」

「名と運命が魂を刻んでいる。思い出は消えるが、再び新たに紡がれる。我はそう信じている」

「でも星が増え続けるのはなぜなのかしら」

「戻る星は少なく、地上から生まれる者が多いのだろう。いつかすべてが夜空に昇る日が来るのかもしれない」

「そのときは皆一緒だね」

「皆いすぎてアネモネのこと、見つけられないかもしれないわ」

「大丈夫だよ、アタシ絶対迎えに行くもん」

「どこで寝てても来るものね」

「アタシの手がジニアに届かないなんて、絶対にないんだから!」

 一つの夢を信じ、精たちは笑います。生きる者は誰も終わりの後のことを知りません。それはもう「終わっている」からです。でも知ることのできないものは恐ろしくて、なんとか知りたくなるものです。だから当てずっぽうに、こうだったらいいなと思い描き笑うのでした。

「じゃあ、そろそろ行くわ」

 アネモネをくっつけたまま、伸びをしてあくびを一つ漏らします。

「また会いましょう」

「ああ、いつでもいつまでもお前たちを歓迎する」

 そうして若き者たちは手を振り木々の隙間に紛れていきました。消えるまで見送った木精は、硬い指先で胸の彫刻をなぞります。

「我は何度でも最後まで見守ろう」

 胸の傷はかつての花たちの思い出です。器用なアネモネはあっという間に彫り上げて、ジニアは細かく彫り始めたものの、面倒になり「疲れたわ」と放り出しました。それでも四季が一度巡るごとに一枚ずつ花弁は増えていきます。アネモネと生きた時を想い、その証拠を残すためです。また若き絆は、老木とジニアの絆でもあったのでした。

「『また会いましょう』か……」

 信じていても心に揺らぐ影はあります。思い出は失われてしまうのです。戻って来たとして、自分のことは憶えていない、決して思い出さず運命をなぞるだけです。

 クエルカスの目から一滴だけ樹液がこぼれ落ちました。それは地に落ちると芽吹き、みるみる育って一輪の赤いジニアが花開きました。

 その一雫ははじめのジニアへの献花でした。何度会えたとしても、彼女の心に刻まれていたのは一番最初の「また会いましょう」だったのです。


 日は傾き木々の闇も深みを増してきました。ジニアがアネモネの手を引き、散歩の終着点を目指します。そこは林でもっとも高い場所、星降る丘です。

 あたりもすっかり暗くなり、わずかに見える月明りを目印に歩きます。ついに木々の群れを抜けたと思えば、乙女たちはもう星空に包まれていました。青、赤、白、黄と色とりどりの輝きが月光に負けじと瞬きます。それでも月は力を示すよう、妖精たちの舞台を浮かび上がらせます。そこはアネモネの咲き誇る地でした。白、青、桃、赤と地上にも鮮やかな星空があったのです。

 二輪はその真ん中に寝転びました。それぞれ星を数えながら、しみじみ今日のことを語りだします。

「今日は楽しかった?」

「うん楽しかった! でもちょっと疲れちゃったなぁ」

「私も疲れたわ、最近体が思うように動かないのよ」

「そのわりにグイグイ引っ張ってさ、少し痛かったよ」

「ふふっ、ごめんなさい。だって『特別な日』だもの」

「でも強引なのも悪くなかったかも」

「喜んでもらえたのならよかったわ」

 アネモネは首を傾けジニアを見ました。それを感じたジニアも目を合わせます。

「アタシ、いっつも気になってたことがあるんだけど、聞いていいかな?」

「歳以外ならいいわ」

「年増なのはわかってるよ。それでね、ジニアはアタシのこと好き?」

「もちろん」

「でもさ、アタシといるとき、別の誰かを想ってるみたいに悲しい顔してるときあるじゃん。それでアメリアとクエルカスに会って思ったんだ、実は前のアタシがいてその子を思い出してるのかなって」

 微笑みのない一色に染まった顔でジニアは答えます。

「ごめんなさい、そうよ」

「やっぱりね」

 アネモネは自分の両手を枕にし、脚を組むと、視線を空に移しました。その横顔は清々しい笑顔でした。

「なんか妬いちゃうなぁ、そんなに想ってもらえるなんてさ」

「あなたも好きよ。だけれど、魂がもし同じだとしても、あなたははじめて会ったあの子じゃないの」

「もしかして今回はあの子かもって期待した?」

「ええ少し」

「残念っ、アタシじゃありませんでした!」

 二ッと無邪気な笑顔を見せます。その目尻には小さく月あかりが宿っています。透き通った輝きに、ジニアはあの子の欠片を見つけました。

「だけど、アタシをあの子じゃないアタシとして愛してくれようとも、してくれたんだよね?」

「いい子だもの」

「いい子なのかな?」

「私を信じられないのかしら」

「アタシのことダマしてた浮気者だもん」

「浮気じゃないわ、一途よ」

「まあアタシだもんねぇ」

「だけど今はあなただけを思うことにするわ」

 ジニアがアネモネの手と自分のを絡ませ固く握ります。

「ありがと」

 そう言ってジニアに身を寄せます。

 二輪眺める空でいくつも星が流れていきました。地上のどこかではある魂が、新たな物語を刻み始めているのかもしれません。乙女たちもそれを思いつつ、この時間を噛みしめるのでした。

 するりアネモネの指が解けます。

「ごめん、ホント疲れちゃったみたい、今日はアタシが先に寝るね」

「わかったわ、おやすみなさい」

「おやすみ」

 目蓋がゆっくり閉じるとともに首は支えを失っていき、髪が草地に沈んでいきます。純粋な瞳は帳の内。彼女が望むのはもう闇だけです。ですがその体は次第に淡い光を放ち、ついには一つ二つと小さな光の玉となり風に解けはじめます。

 ジニアはその一粒すら見ようとせず、唇を噛みしめ無理に口角をあげました。彼女が望むのは空に輝くアネモネたちの欠片です。

 眠れる乙女の腹に穴が開き、内側に崩れるようにして広がっていきます。ともに地に咲くアネモネたちも、数えるように花弁を落とします。散るのもあと一枚となった頃、乙女の内の肉はすっかり解けて、晩春の弱風に運ばれました。その体はすでに空の棺桶です。墓標は花咲くこの地で、祈る者はジニアだけです。それは形ばかりの葬式でした。

「また、ね」

 アネモネの身の空洞に風が吹き込み、そんな音が鳴りました。

 ジニアは硬い微笑みを崩しました。驚いた顔で涙を流し、棺の美しい顔を拝みます。「またね」は、ほんのわずかな音でも忘れられないものでした。空耳か「また明日ね」と言おうとしたのか定かではありません。だとしても彼女はそこに確かなあの子の欠片を見つけました。かつて終わりに気づいたアネモネだけが口にした言葉です。

「また私を置いてくの?」

 肩に触れようとしましたが、脆く崩れて星屑になってしまいます。腕も足も胸にも触れることができません。そして最後に残ったのは頭と握ったままの手でした。ジニアが頭と手を抱くと温もりはそのままでした。

「あなたの手が届いても、私の手は届かないのよ?」

 彼女は我が身の長命を嘆きつつ、爪の先が光になるまでそのままでいて、夜空に増えた星を数え沈むように眠りました。

 ジニアはいつまでも何度でも名前に呪われ、今はなきアネモネを思いつづけます。クエルカスの語りもあまり信じず、魂と星を疑い続け、終わりを迎えるのです。それでも彼女は小さな希望を持って生きます。もしかしたら、あの子に会っているかもしれないと思うのです。

 そろそろ夏がやってきます。目が冴えアネモネの影を追うむなしい季節です。

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