第12話

 退社の手続きで工場に立ち寄った。一ヶ月前まで共に汗を流していた同僚は、僕と目が合っても、興味を示すことはなかった。一応、上司だった人物に挨拶をして、菓子折りを渡した。選んだのは天音である。話の流れで天音が選んでくれた。こんなものは何でもいいのではないかと思ったが、彼女は妙に真剣であった。甘い物が好きだからこそ、こだわりも強いのだろう。予算はそんなに用意していないんだが。仕事にありつけなくて、繋ぎのつもりで働き出したが、去ることになると、寂しさはあった。しかし、まあ、次の職場に全く当てが無いないわけだが、もう深く考える必要はない。


 寮の退去はスムーズであった。寝るだけの部屋だったので、余計な物は何もなかった。自分の身だけを持って、実家に帰る。今日からまたお世話になる。その日の夕飯が母と妹と食べた。母は料理が得意な方ではない。それでも味わい深い物である。この食卓は僕にとって辛いものだった。「次は正社員で働けたらいいね」と母は願望を言った。それが難しいのだ。可能な限り頑張ろうと思うが、どうに叶わない願望である気がしてならなかった。期間工をする前にどこからも採用されない苦しみを思い出した。誰にも必要とされない。世の中に僕の居場所はないのかも知れない。そう思った。


● 


 WEB版の「ようするに君が好き」はヒロインの姫岡が、交通事故ではなく、ストーカーに嬲り殺されることになっている。主人公がコンビニ行っている間に、姫岡が行方不明になり、茂みで横たわる姫岡を見つけるのだ。どうしてこんな残酷な話を描いたのか。平間学位の初期の作品は残酷なエピソードが多い。作家デビューをする以前なので、文章はやや稚拙であり、ストーリーも唐突で何の伏線もなく、少し無理がある幕切れを向かえる傾向にある。つまり粗いのだ。近年に発表された作品は、やはりレベルが高く面白い。ここでは内容を省くが、ある程度の人気があることも肯ける。


「もう読み終わったのか?」


「まあ、暇だからな」


 かれこれ5時間は車内で留まっている。張り込みと言うものを初めてしたが、こんなにもつまらないものとは、思わなかった。なかなか進まない読書が捗る。


「読書の感想は?」


「事故死の原因が子供を守るためなんて。どうしてそう思ったんだろうな」


「全く君は。私に全てを押し付けて、読書とは。なんて奴だ」


「よく言うな。車で来いって僕を呼びつけて、張り込みをするなんて聞いてない」


「どうせ暇だろ。仕事をやめて毎日を、無味乾燥にぐうたらに過ごしてるんだろ。私にはわかる」


「僕はこう見えて、忙しんだよ」


「ちゃんと助手として働いてくれよ。一応バイト代は用意してるんだぞ」


「なに?」


 そうだったのか。僕は気持ちを切り替えることにした。金銭が発生するなら、それなりの仕事をしなければならない。僕らは篠崎あられが住んでいると思われるマンションを張り込んでいる。篠崎あられが出入りする所を確認するだけでいい。後日改めて、篠崎に話を聞くそうだ。


「しかし、どうして篠崎は連絡を無視するんだろな」


「今までは上手く行き過ぎただけだ。普通は、大して仲良くもなかった高校の同級生から、突然連絡が来ても訝しむものだよ」


「まあ、言いたいことはわかる。僕もそのタイプだ。学生時代に連絡先すら知らなかった奴から、電話が着ても怖いと思うな」


「それに姫岡に対して後ろめたいことがあるのも明白だろう」


「何かを隠している……」


「小説の内容が事実の可能性もある」

 

「そうだとしたら、篠崎は姫岡や小説の話をしたがらないだろうな」


 小説で描かれた日記の内容は、あくまでも事実を元にしたフィクションだと言える。しかし、全てが全て真実ではない。創作の部分もある。とは言え、篠崎が小説の内容通りに売春をしていたといた可能性もある。それが蒸し返したくない事実になっていても、おかしくはないのだ。


「あれだな」


 しばらくすると、マンションの出入り口付近に、早足で近づく女性が見えた。痩身で、いかにも女性らしい肉付きである。普段から生活習慣に気を付けているのだろう。努力が伺える。


「篠崎だな。間違いない」と天音は言って続ける。「昼間は普通のOLをしていて、来年に結婚する予定だそうだ」


 天音は遠目から篠崎を認めると助手席から降りた。軽やかな足取りで、篠崎の動線を遮った。


「篠崎さん。久しぶりだね。天音だけど。私のことは覚えてる」


 篠崎は怪訝な表情して、肩にかけていたバックの紐に触れる。


「ええ、久しぶりね。えっと、天音さん」


「急に押し掛けて申し訳ない。どうしても篠崎さんに聞きたいことがあって。手短に終わらせるから、少しだけいいかな?」


「何? 手短にお願い」


「姫岡さんが交通事故で亡くなった日に、君は何をしていたのか教えて欲しいんだ」


 前置きなしの本題に、篠崎は敵意を向ける。


「そんなことを聞いてどうするの? 私は忙しいから、これで」と篠崎は姫岡を横切る。


「売春をしていたの本当か?」


「ちょっとやめてよ」


 篠崎は動揺して、声を荒げる。


「この小説のことならクラスメイトから一度は聞いたことはあるだろ? この小説の登場人物は全て君が在籍していたクラスメイトであり。現実で起こったことに添って物語が進んでいる。この小説で君は」と天音がいい終わる前に、篠崎は「わかった」と答えた。


「近所の目があるから、場所だけは変えて」


 篠崎が後部座席に乗せた。目的地はない。天音の気が済むまで、僕は運転させる。それだけだ。信号で一時停止すると、天音は言う。


「私は今更事実を知ったとて、公にするつもりはない。安心してくれ」


 天音は「安心」を強調した。天音の調べでは篠崎は御曹司との結婚が決まっている。篠崎は高校卒業後に夜の仕事をはじめた。五年近く働いた彼女は、自分が担当していたお客さんの紹介で、事務員として働き出した。小さな工場であったが、取引先は大手の企業が多かった。工業を見学することも多く、優れた美貌を兼ね備えた篠崎が案内役をすることもあった。その中に未来の結婚相手がいたようだ。偶然にも大企業の御曹司だったようで、過去に夜の仕事をしていたことは、晒されたくないのだろう。だから、姫岡のことを率先して話す気はない。と言うのが天音の考えだそうだ。


 隠蔽したい過去であることはわかる。もしかしたら学歴、職歴、生まれなど、過去を偽造している可能性もある。職場の同僚によると、御曹司との付き合いが噂されてから、頻繁に財布やバックを買い替えるようになり、仕草や飲食の好みまで上品な様子に変わったという。手に入れた生活を奪われたくない。篠崎がそう思うのは当然のように思えた。


「あの小説なら読んだことはあるわ。事実です。これで満足?」


 篠崎はあっさり肯定した。携帯端末の画面を見る。婚約者からのメッセージでも届いたのだろうか。


「と言うことは、姫岡の画像を無断で使っていたことは事実なんだな」


「そうね。ただ少し違うのは私はサキの写真を使って売春はしてない。実際に会ったりすることもなかった。ただ遊び心だった」


「それは本当か?」


「どうして? 私は変なことを言ったかしら」


「中学の頃の姫岡はどちらかと言うと地味だった。いじめられているわけではないが、決して目立つタイプではなかった。それが高校生になる頃には男女問わず、惹かれる美貌で目立つようになった。元々スタイルが良く、顔立ちが悪くないからな。当然のように思えるが、姫岡が変わるきっかけがあった。それは篠崎と出会ったことだ」


 天音は一呼吸を置く。


「日記にもあるように姫岡が中学の頃に篠崎と仲良くなったことで、自信を付けたんだ。女性らしく着飾ることで、自身が変化することを覚えた。ただ篠崎、君にはそれがあまり楽しくなかったんだろ? 高校生にもなると姫岡はよくナンパをされるようになった。二人で帰っていると、姫岡だけ声をかけられることもあったんじゃないか。それが君のプライドを傷つけた。だから君は出会い系サイトに登録して、男から注目されることを望んだ。違うか?」


「暇つぶしだって言っているでしょ。いい加減な事を言わないで。あんたの妄想になんて付き合いきれない。さっさと降ろして」


 篠崎の怒りは当然にように思えた。ただの妄想で決めつけられるのは、誰だって気分は悪くなる。


「姫岡咲は日記を書いていたんだ。学生時代のことが色々書かれた日記だ。その中には、もちろん篠崎さんのことも書いてあった。私が話したこともな。君は嫉妬したんじゃないか。ナンパされた時に、篠崎は嫌悪を浮かべたと日記には書かれていたんだ」


「天音、もういいだろう。言い過ぎだ。余計な詮索はやめろよ」


 僕はたまらず声をあげた。本来の目的から逸脱している。


「そうだな。すまん」


「あなたの言うことは正解よ。私は咲に嫉妬していた。出会い系サイトに、二人が写っている写真を使ったことは、当時の私は無知だったからよ。悪気はなかった。けど男とやり取りをしていると、大体の男は咲を求めた。そのうちの一人が、咲を見かけたことが、あるなんて事を言いだしてね。学校まで調べ始めたから、怖くなってやめた。それだけよ」


 失うものがあまりにも多かった。そんな印象を受けた。


「事故があった日はどうだ? 君は咲と話したのか?」


 篠崎は逡巡してから答えた。


「事故があった日に咲と話した。あの子がストーカーに悩んでいるって噂を聞いたから、私のせいかも知れないと思うと謝らないといけない。だけど咲は「関係ないよ」「辛かったよね」って私に同情したの。私はパニックになったよ。どうして私は、咲を目の敵にしていたのだろう。見た目だけじゃなくて、内面も勝てないってそう思ったら私の悩みはくだらないことだと思えた。私はあの子には何も勝てない」


「その後に姫岡は事故にあったんだな」


「私は公園で咲と話した後のことは何も知らない。これは本当よ。次の日に学校で聞いて驚いたくらい」


 それは本当だろう。篠崎の表情は運転席からは見えない。それでも彼女が驚きを感じたことは覚えている。ここまで良いだろう。小説の内容が真実であることが確定的なのだから、これ以上篠崎に言い詰める必要はない。僕は篠崎のマンションに引き返した。



 篠崎はマンションから徒歩10分の場所で、下すように願い出た。人目を気にしてのことだろうと思い、僕は素直に従った。西日が眩しい。去りゆく篠崎の後ろ姿は、なんだか虚しかった。


「そしたら今日はもう帰るよな」と僕は聞く。


「いいや。寄って欲しいところがあるんだ」


 天音は自身の端末画面を僕に見せた。意味を理解すると、痰を飲んだ。喉仏が上がって、苦しい。


「持っても良いぞ。それとも案内したほうがいいか?」


「いいや。必要ない」


 目的地に着くと路肩に駐車した。降車して周囲を見渡す。交差点も信号もない直線道路から、アパートに挟まれた小さな公園がある。


「まさか事故現場に行きたがるなんて、どう言うつもりだよ」


 この道路で姫岡咲は、交通事故で亡くなった。もう十年近くも前のことだ。それでもクラスメイトの多くが、今でも覚えている。僕もそうだ。あんな事故があっていいものかと、心が否定する。


「今日で最後になるからな。締めとして見ておこうと思ってな」


「そうか。今日で終わりなのか」


「なんだ。寂しいのか」


「そんなわけあるか」


 天音が歩くので、僕は付いていく。


「だが一つだけ妙なことがある」


「何が知りたいんだよ。もう十分だろう」


 姫岡は事故だ。自殺する理由もあったかも知れないが、彼女は不慮の事故で亡くなったのだ。この話は終わりだ。もう終わりなのだ。


「公園で遊んでいた子供がボールを追いかけて飛び出したので、姫岡が身代わりになったことは書籍版でも描かれていた。これはどうにも事実のようなんだ。私が知りたいのは、事故を起こした男性。姫岡を轢いた人物は、パニックがあまりに当時はよく覚えていなかったようだが、近くにいた男子高校生がいて姫岡のことを聞いたらしいのだ。「この子の知り合いか」とね。その子は知らないと答えて、いつの間にかいなくなったらしいんだ。果たしてその人物は誰なのか?」


「お前……最初からその男子高校生を探していたのか? だけど本当にただの通りすがりなのかも知れない。探してもしょうがないんじゃ」


「そうかも知れない。だからこうして聞いて回ったんだよ。当時の事件の全容を把握すれば、詳細が見えてくるはずだ。そして消去法で、誰なのか絞る。そして断言することができた。君だろ」


 天音は僕を指差した。記憶と思いが錯綜した。嘘と悪意が生まれた。だけど、全てが無意味であると悟る。


「君は姫岡と特別な関係にあったんじゃないか? サキは日記を書いていた。日頃からアイディアを書き留めるように、ほとんど毎日。クラスメイトのことや、印象に残った出来事は当然、書かれていた。だけど一貫して「あの子」として表記される人物がいた。はじめは匿名性を考慮しているのかと思ったが、個人で書いている日記にそんなことをする必要は果たしてあるのか。だが「あの子」以外のクラスメイトは全て実名であったり、ニックネームだった。だから私は「あの子」とは特定の人物を指していると断定した。しかし、それが誰なのか検討がつかなかった」


「それで、どうして僕だと思ったんだ。候補は他にもいるだろ」


「読み進めていくと、サキはクラスメイト全員のことを書いていたから、むしろ特定は簡単だったんだよ。君だけだ。日記の登場人物で実名が呼ばれなかった。だけど私の記憶では、君がサキと仲がいいなんて思ったことがなかったからな」


「なんだよそれ。まあ、確かに学校で姫岡と話したことは一度もなかったかも知れないな。だけど、同じ電車通学だから、たまに一緒に帰ったりもしてたんだよ。お前は最初から僕を疑っていたのか」


「その通り。そして君の本懐を知りたい」


「そんなものはないよ……」


 天音の髪が風に吹かれた。風は僕にも吹き抜ける。沈み行く太陽は僕の後ろだ。前から猛スピードで車が近づいてくる。僕はタイミングを見計って、車道に飛び出した。最後に見えたのは目を大きく見開く運転手の顔であった。

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