第三章

第13話

 下を見れば冷たい風が吹く。本能的に足がくすむことを感じた。勇気を振り絞って、一歩踏み出せば、胸の苦しさから解放される。暗澹たる未来から逃避もできる。過去に縛れる必要もない。漠然とした虚脱感が生への執着を削る。決断が迫る。止める人は今はいない。誰かに見られる前に全てを終わらせなければならない。


 もう一度だけ下を見た。見下ろした先にはアスファルトが見える。ここからなら綺麗に落下できるだろう。


「そこ、私の特等席なんだけど」


 振り返るとフェンス越しに姫岡がいた。


「ここから見る夕焼けが、綺麗なんだよね」と言いながら姫岡はフェンスをよじのぼって、僕の隣に座った。僕も倣って座ることにした。しばらく時間が流れていく。どれくらい経過したかわからない。心音が高鳴っていることに気づいた。きっと安全が担保されない高所で居座っているからだろう。隣の姫岡を見る。艶やかな髪、綺麗な肌、美形の横顔。さそがし男子にモテるだろうなと思った。風が髪や肌に刺さっては、気になる。


「こんなにも綺麗な景観が近くにあるなんて、幸せだと思わない?」 


「え? そうか?」


「下ばかり見てるから、すぐ近くの幸福に気づけないんだよ。たまには視野を広げて、肯定するものを増やせば新しい価値を生み出せることもあると思うよ。きっと悩みになんて、小さいことだなぁって思える」


 僕は夕焼けを見た。下ばかり見ていると気づけない景観がそこはある。オレンジ色の光が優しく周囲を包み、相対するように夜の光が空を覆う。一つ美術作品のようだ。


 姫岡は携帯端末を取り出すと、写真を撮った。僕も撮ってみようと思い携帯を取り出した。そして一枚。あんまり納得がいかないので、もう一枚。今度は綺麗に撮れた。


「ねぇ、どちらが綺麗に撮れるか競争しよ」と姫岡が提案するので、あらゆる角度から夕陽を撮る。学校の屋上でも、夕日の写真に差異は生まれなかった。それでも夢中になって写真を撮ったことで、心が踊った。


「連絡先教えてよ」


 こうして僕は姫岡とメッセージのやり取りをするようになった。



 あの日は追試を終えた帰りだった。毎週のように朝の小テストがあるんだけど、僕は高確率で追試を受けていた。学校の成績はすこぶる悪い。県境を跨いで電車通学をしているのも、地元で通える高校がなかったからだ。僕自身も驚く成績の悪さである。中学の成績が下から数えた方が早いクラスメイトの集まりでも、おそらく僕が断トツで補習を受けている回数が多いだろう。


 今回の追試メンバーは大柄のヤンキーにメガネをかけたいじられキャラ、そして姫岡だ。姫岡とは先月に連絡先を交換した。だからといって姫岡とメッセージのやり取りをすることもないし、もちろん話すことはなかった。 

 

 ヤンキーとメガネは顔見知りのようで、話をしている。どうやら教師の目を盗んでカンニングを実行するつもりのようだ。今回の担当の教師は居眠りをよくする。毎回のように追試を受けてる僕が言うからには間違いない。プリントが配われて、追試が始まる。紙を挟んで机とシャーペンが擦れる音、時々叩きつけるような音が混ざる。

 

 しばらくすると教師は椅子に座り、目を瞑る。意識があるのかわからない。寝ているかもしれない。後ろの席のヤンキーとメガネはソワソワする。計画を実行しているに違いない。僕は正々堂々と臨むつもりだ。ヤンキーとメガネが先に教室を辞去する。遅れて姫岡が教室を後にする。僕は三人よりも10分以上遅れて追試を終えた。


 トイレに寄ってから下駄箱に向かうと、後方から名前を呼ばれた。


「ヤッホー。一緒に帰ろ」


 妙に親しげな声色の正体は姫岡だった。姫岡はスクールバックをリュックサックにように背負っている。なんだかアクティブな印象を受けた。


「え!? 待ってたのか?」


「たまにはいいじゃん。同じ電車通学なのに、滅多に話さないし。それにこの時間だとバスも出ないから」


 スクールバスの運行時間が規則正しい。こんな中途半端な時間だったら歩いて、駅に向かった方が、帰宅は早いだろう。それでも僕は、姫岡と帰るべきか悩んだ。誰かに見られて噂が立つことを恐れたのだ。


「僕は構わないけど」


「早く行こ」


 僕の不安を他所に姫岡が動き始める。軽やかな歩みだった。ついて行くしかないと僕は悟った。徒歩だと駅まで、30分以上は掛かるだろう。億劫である。姫岡となんの会話をすればいいのだろう。そんな僕の不安を他所に、姫岡は一歩だけ距離を縮めた。


「よく追試受けてるよね」


 デリケートな問いに、僕は動揺する。


「悪いかよ」


「ダサいななんて思ってないよ」


「思ってるから口にしてるんだろ」


「私も人のことは言えないしね」


 姫岡が近くのコンビニに寄りたいようなので、僕もついていくことにした。同級生はいない。姫岡はスポーツドリンクを選んで、レジに向かう。店員は高校生のバイトっぽい今時の男子であった。彼が必要以上に姫岡の顔を見ている。この様子が僕には、とても印象的であった。確かに姫岡は綺麗な顔立ちをしている。おまけに背も高く、胸部の膨らみも目立つ。急に僕は姫岡と並んで帰ることが、恥ずかしく思えてきた。僕は辛うじて姫岡より高いが、男にしては背が低いし、猫背だ。制服も「着られている」、なんて表現がしっくりくる。そんな僕が姫岡と歩いていいのだろうか。


「このジュース美味しいよ。飲む?」


「ありがとう」って僕は言いながらも本当に貰っていいのか思案した。断る理由はない。ただ、口をつけていいのか。多少なりとも過敏に考えすぎだろうか? 僕は散々悩んだ挙句に、口をつけて飲んだ。グレープフルーツ味の清涼飲料のようだが、正直苦手な味である。普段なら不味いと言うかもしれないが、今回は黙って飲んだ。


「あー、間接キスだ」と姫岡は微笑んだ。


「そんな子供みたいなことを気にするのか」と僕は答えた。口にする直前まで、悩んだことは伏せる。


 しばらく歩いていると、レンガのようなタイル張りの遊歩道に差し掛かった。姫岡はベンチに向かっていく。


「なに? 疲れたの?」


「少し休憩しない」


 姫岡の隣に僕は座った。なんだか居心地が悪い。


「ごめんね。疲れやすくて……」


「だったら、バスを待った方が良かったじゃ。無理しなくても」


「仲良くなるチャンスじゃない? なかなか仲良くなる機会がなかったから」

 

 それって僕のことだよな?


「そう言えば、どうして屋上から飛び降りようとしてたの?」


 いつかは聞かれと思っていたが、このタイミングとは思わなかった。


「答えられないなら、いいよ」


 姫岡はそう言うと上を見た。何を見ているんだろう。


「先が見えなからだよ」


 僕は答えていた。


「自分の未来の姿がイメージできない。漠然とした未来に不安がある。それだけ」

 

 人よりも優れたものは何もない。勉強もスポーツも人並みにできると思っていた。勉強なんてしなくても、ついていけると思っていた。体育もそれなりに、動けると思った。全てが幻想だった。学年が上がっていく度に、勉強もスポーツも平均以下であると痛感した。


 自信を喪失した僕は、人と距離を置くようになる。それは僕への救済処置であった。誰かと比べるのも、比べられるのも怖い。いつしか僕は誰かと意見がズレているのでないか。知性に問題があり、精神年齢もに年齢にそぐわないと思うようになった。人と意識的に距離を置くと、次第にコミュニケーション能力は衰えていく。


 まともに発声すらできなくなってきた頃には、人が怖いと思うようになった。社会が人との繋がりで成り立っているとしたら、おそらく僕はやって行けないだろう。そんなことは、社会に出る前から分かり切っている。だから僕は屋上に上がった。


「そうなんだ。まだ何もしてないのに、そこまで悲観的になれるのは、ある意味才能だね。別にいじめられてるわけでもないのに」


「直接いじめられてるわけではないけど、クラスでは孤立しているだろ」


 あまり勉強はしてこなかった。だから県境を越えて、偏差値の低い高校に通うことになったのが、どうにも馴染めない。クラスは荒れてはないが、不良の才能を秘めた雰囲気の怖い連中が殆ど。僕の居場所はない。


「そんなことはないでしょ。君はクラスメイトを蔑んでるだけでしょ」

 

 姫岡の言葉に、僕は胸が締め付けられた。


「蔑めれてるのは僕だろ。暗い陰の人って裏で言われるに違いない」


「君の本心は私にはわからないけど、心のどこかで馬鹿にして、自分はクラスメイトとは違うって思うことで、かろうじてそのミジンコみたいなプライドを保ってるんでしょ。そうやって自分を肯定することでしか生きられない。惨めだね」


「それができなくなったんだよ。散々馬鹿にしていた奴らよりも、勉強ができなくて追試を受けて、小柄で力もない、しかも内気でクソつまらない人間が僕だ。これ以上に無能な人間がいるかよ」


「私、思うんだけど。内気なタイプな女の子が、好きな男の子にアプローチするんだけど上手くいかないの。次から次へとアプローチをしていくんだけど、尽くフラれたみたい。どんなに誠意を持って想いを伝えても、相手には響かない。当然その子は悩んで、色んな人にアドバイスを求めた。けど正直言って、私には努力が足りないと思った。髪型も、化粧も、体型も、服装も、全てが垢抜けてない。しかも不特定多数にアプローチしてたら、男なら誰でもいいのかなってみんな思うよね。メンタル的にもやっぱり辛抱できない。続かないタイプだなって思う」


「それがなんだって言うんだよ」


「君は変わる努力をしたのかなって話」


 姫岡に言われたことが僕の頭の中を何度も回っては、弾けた。変わる努力はしたのだろうか。現状を打破する手段を思いつける限りに、潰したのだろうか。おそらく僕は、やり切れてない。


「私にとって一番怖いことは、死ぬこと。もし逃げ出したいと本気で思っても、死ぬなんて選択しは、省くと思う。私からしたらあなたは異常よ」


 異常と形容されて、憤りを感じた。


「だから思ったの。あれだけの行動力があるなら新しい一歩を踏み出すなんて簡単だと思うんだよね。時間は平等じゃない。実際はそうじゃない? 人が死ぬ時は、人によって違う。そのときは不平等だよ。だから今を全力生きてみようと思わない?」


 姫岡がどうしてこんなことを言うのか、この時の僕はわからなかった。おそらく鼓舞されているのだと、察することで精一杯だった。本当の意味は、後に知ることになる。僕は本当に愚かだ。


 ●


「行くよ。カラオケ」


 中田は微笑んだ。


「お、珍しいやん」


 特別に仲が良いと言う認識はないが、中田は僕を遊びに誘ってくれることがある。基本的には断っていた。一度だけカラオケに行ったことがあったが、もう二度と歌いたくないと思ったものだ。それから毎週のように誘われる。なんなら僕だけではなくクラスのどんな人物にも、臆することなく誘っていた。


 おそらく中田は、カラオケが好きなんだけど、一人で行くのは勇気がないのだろう。だから適当な人間を誘っているのだ。自分の欲を満たすため。なら僕も中田を利用してもいいではないか。学生生活を楽しむ最初の一歩だ。


 中田に連れられて駅前のカラオケ店に行くと、姫岡と内藤がいた。どうしてこのメンバーなのだろうか、と僕は無駄に思考を巡らすが、答えはでない。答えがあったとしても、それは意味のないことだ。中田と姫岡達が適当に挨拶を済ましてから、指定された部屋に向かう。姫岡と内藤の二人と向かい合うにように、僕と中田は座る。中田、姫岡、僕、内藤の順番に歌うことになった。僕が断トツで歌が下手だった。カラオケの採点が、厳しい現実を突きつけるのだ。歌うのが恥ずかしかった。何をしていても、やはり人より劣っている。


「いい声してるよね」


 中田はマイクに小指を添えて、流行りのボーカルの仕草を真似する。それを余所に姫岡は僕の隣に座った。僕は一人分のスペースを移動する。


「どうして避けるの」と姫岡は座り直す。僕はもう一度移動する。


「こっちが言いたい。どうして近づくんだ」


 ソファーの端に到達した。さすがに移動することは断念する。


「仲良くするチャンスかなってね」


 姫岡は口にストローを付けた。


「よく言うよ。この前は僕を全否定したじゃないか」


「この前はこの前よ。今日は今日。この場では君と楽しむことが目的だから」


 「都合がいいな」と僕が言葉にする前に、姫岡の順番が回ってきた。流れたのは一昔前の音楽だった。姫岡は特別に歌が上手いわけでなかったが、いい声をしていた。声量もあるし、倍音も豊富だ。とても素人の歌には思えなかった。しかし、よくよく聞くと、暗い歌詞だ。「私の特等席なんだけど」と言う姫岡の言葉が反芻された。姫岡の心情が形になっているような気がした。



 中田と内藤は地元の人間なので、二人揃って自転車で帰るらしい。そうなると必然的に僕と姫岡は、歩いて駅に向かうことになる。


「何で僕と歩いて帰るなんて言い出したんだよ」


「中田君が内藤さんと仲良くなりたいって言うから、キッカケを作って上げたんでしょ」


 何だよそれ。やっぱり僕は数合わせかよ。


「中田君。内藤さんに一目惚れしたみたいだよ。いいよね。そう言うの。素敵だと思わない」


「ああ、そうかもな」


 確かに中田は、ずっと内藤を見ていたし、必要以上に内藤に話しかけて、内藤が話すと全てに反応していた。誰から見ても好意は、隠し切れていない。何なら相手にわかってもらえることを願っているようだった。多分、内藤は気づいているだろう。


「内藤さん。中田君の気持ちに、気づいてるけどしばらくはもて遊ぶみたい」


「おいおい。それは本当か?」


「一応、私は忠告したんだけどね。内藤さんは中田君が、思っているような綺麗な心の持ち主ではないってね。それでも、どうしても場を設けて欲しいって言うから、今日はカラオケに行くことになったの」


 ごめんね迷惑だった? と姫岡は僕を見た。試されている。そんな気がした。


「そんなことはない。僕は僕で楽しめた」


 当たり障りのない無難な回答だと思った。


「嘘ね。実は私が頼んだよ。君をカラオケに誘うようにね」


 なるほど。内藤を誘うように頼まれた姫岡は、僕を誘うように条件を提示したのか。おそらく中田は、僕が普段から断っているから約束はできないと、そんな会話が繰り広げられたに違いない。


「たまにはいいでしょ? 遊ぶのも」


「まあ、そうだな。無駄に緊張したけど」


「えー、何でよ」


「なれないことは、するもんじゃない」


「ふふふ。いいじゃん。なれるまで私が相手してあげるよ」


 なんて言う冗談か本気かもわからない会話は、駅まで続く。その道程は短いものに感じた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る