第352話:皆既月蝕の始まり

 ときを同じくして天空を見上げる者がいる。


 高度二千メルク地点から少し上がった二千三百メルク地点、ラディック王国第五騎兵団副団長のムリディアだ。


「まもなく皆既月蝕かいきげっしょくが始まります」


 声が、二刀を握る手がかすかに震えている。背後にいる団長のチェリエッタが軽く肩を叩いて、極度の緊張をやわらげる。


 第五騎兵団だけが団長、副団長そろって女だ。それゆえに団を構成する者たちも圧倒的に女が多い。


 人族、とりわけヒューマン属の特徴の一つとして、女の方が男よりも生来の魔力量が多いことが挙げられる。


「私と貴女だけでよかったわね。多くの団員を引き連れていたら、いったいどうなっていたことやら」


 チェリエッタの言葉にムリディアが小さくうなづく。


 この場にいるのは二人と、第四騎兵団副団長のギジェレルモの三人のみだ。坑道組の五人を除く残りの騎兵団は高度二千メルクから下ることおよそ三百メルク、高度千七百メルク前後の開けた崖下がいかを騎馬と共に進んでいる。


「魔力は月の満ち欠けに大きく影響を受けます。第五騎兵団の者にとって、明らかに不利な状況です」


 第五騎兵団に所属する女のうち、半数以上が魔術にも秀でており、剣と魔術を組み合わせた戦術を武器としている。それがしょくによって封じられてしまう。


 基本的に膂力りょりょくでは男に利がある。しかも此度こたびの相手は人ではない。魔霊鬼ペリノデュエズなのだ。魔術が使えない中、剣一本で戦うにはあまりに分が悪すぎる。


「ムリディア、私がそばにいるわ。貴女は貴女のすべきことに集中しなさい。あの御方にご助力いただいているのでしょう」


 全騎兵団の中で唯一、天文学を知るムリディアはレスティーのすすめもあり、あの場にいた者たちに皆既月蝕の説明を行っている。


「これをたまわりました」


 ムリディアが取り出したのは、円盤状の結晶体だ。直径十セルク、厚み一セルクの大きさで、上半身を覆う鎧の下に収まる程度だ。


「美しいわね。どんな材質でできているのか皆目見当もつかないわ。それに表面に刻まれたこの意匠いしょうは」


 チェリエッタは視線を傾けるなり、その美しさに目を奪われている。明らかに主物質界に現存する物質で創られたものではない。


 今、ムリディアが手にしている結晶体の上の面は純白で、下の面は漆黒で彩られている。


「まさしく神の成せるわざと呼ぶに相応ふさわしいわね」


 ムリディアが純白の上の面をチェリエッタに近づける。


「団長、よくご覧になってください」


 チェリエッタが興味深げに顔を近づけて結晶体をのぞきこむ。


「何、これは。意匠ではない。まさか生きている。そんなわけはないわね」


 口にしてから慌てて否定する。チェリエッタの目には映っている。


 純白に染まった結晶体の中心点から微細びさい氷柱つららがまるで生物のごとく動き回っている。無数の氷柱が伸びては縮み、他の氷柱と結びついて太くなり、また分裂して細くなり、を永遠に繰り返している。


「そして、こちらもです」


 結晶体を反転し、下の面を上にする。予測はしていた。もはやチェリエッタは絶句状態だ。


 純白側と同様の現象が生じている。異なるのは氷柱ではなく、漆黒の面は炎柱えんちゅうだった。


 まさしく表裏一体、氷と炎が全く同じ動きをしている。明らかに同調性を有している。これが何を意味しているのか、チェリエッタもムリディアも理解できていない。


「どういったものなのか全く理解できていないんだけど、すさまじい力だということは分かるわ。ムリディア、貴女はどうやって使うべきなど教わっているのよね」


 チェリエッタの疑問に対して、ムリディアは力なく首を横に振るしかできない。正直なところ、何も聞かされていないに等しい。


「どうするつもりなの。まもなく皆既月蝕が始まるのでしょう。他の誰でもない。貴女に下賜かしされたということは、まさしくこのためにあると考えるのが自然よ。それなのに」


 憤懣ふんまんやるかたないといったところだろう。一度火がつくとなかなか収まらないチェリエッタをムリディアが咄嗟とっさなだめる。


「ち、違うんです。団長、聞いてください。レスティー様は私にこれを預けられ、こうおっしゃったのです。『極氷炎天球八醒ルスペルユヴェイエという秘宝具の一つだ。人族には過ぎたる力ゆえに私が許可した者しか触れられぬ。天文学を知るそなたなら正しく扱えるであろう』と」


 チェリエッタが伸ばしかけていた右手を急いで引っこめる。美しさに魅せられて触れようとしていたのだ。ムリディアは苦笑を浮かべている。


「そう。まだ続きがありそうよね。レスティー様は何と仰ったの」


 ムリディアは視線を極氷炎天球八醒ルスペルユヴェイエに落とし、ゆっくりと口を開く。


「『刻が満ちれば秘宝具自らがそなたを導く。秘宝具は持ち手を視定みさだめる。そなたの心の奥底までだ。そなたは強い想いを秘宝具に注ぎこめばよい』と仰って、一度だけ見せてくださいました」


 ムリディアの前でレスティーが見せたのと同じ動作をチェリエッタに実演してみせる。


 極氷炎天球八醒ルスペルユヴェイエを胸前で両手にはさみこむ。唯一異なるのは挟みこんでからの極氷炎天球八醒ルスペルユヴェイエの挙動だ。


 レスティーは極氷炎天球八醒ルスペルユヴェイエ解放の言霊ことだまを口にしたのだ。


「ムリディア、解放の言霊は正確に教わって、覚えているわね」


 チェリエッタとしては、至極しごく当然の確認をしたまでだ。


「団長、私はどうしたらよいでしょうか」


 言っている意味が分からないとばかりにチェリエッタが問い返す。


「レスティー様が唱えた言霊は確かに聞こえました。ですが、理解できないのはもちろん、覚えられないというか、思い出そうとしても全く駄目なんです。耳を、頭をすり抜けてしまって。すみません、うまく説明できないのですが」


 チェリエッタには理解しがたい。その場にいたなら質問などもできただろう。今のムリディアの言葉を聞く限り、レスティーを前にして緊張のあまりそれさえもできなかったことが容易に想像できる。


「仕方がないわ。レスティー様にはレスティー様のお考えがあるのでしょう。他には何か」


 下げていた視線を上げ、チェリエッタを真っすぐに見つめる。


「最後に『極氷炎天球八醒ルスペルユヴェイエと心を通わせよ。解放の言霊はそなたの心に刻まれる』と仰って、極氷炎天球八醒ルスペルユヴェイエを手渡されました」


 チェリエッタは頷くと天空で一直線に並ぶ三連月を見上げた。紅緋月レスカレオ紅緋べにひの、藍碧月スフィーリア藍碧らんぺきの、槐黄月ルプレイユ槐黄えんこうの光を同時にアーケゲドーラ大渓谷に投げかけ、漆黒の闇の中に浮かび上がる岩肌をあでやかにいろどっている。


「この美しい輝きが短時間でも消え去るなんて、本当に不思議な現象ね。こんなことがなければ、幻想的な光景を眺めながら楽しめるのでしょう」


 ムリディアも極氷炎天球八醒ルスペルユヴェイエを両手で握ったまま、神々こうごうしくきらめく三連月に視線を注いだ。


「団長、皆既月蝕が始まりました」


 ムリディアは極氷炎天球八醒ルスペルユヴェイエを宝物のごとくいだきながら、不安で胸がつぶされそうになっている。


 チェリエッタが優しくムリディアの頭をでる。


「大丈夫よ。貴女ならきっとできるわ。レスティー様が貴女に託したのよ。だから私も信じているわ」


 女二人の後ろでギジェレルモが居心地も悪そうに、それでいて二人の強いつばがりをなかうらやましく眺めている。


(ああ、ウーリッヒ、お前がここにいてくれたら俺もまた。いや、今さら言ったところで詮無せんなきことだな。俺は俺の信念に基づいて戦うのみだ。見守っていてくれ、ウーリッヒ)



 アーケゲドーラ大渓谷における戦いの火蓋ひぶたが切って落とされてから、既におよそ五ハフブルが経過している。


 いよいよ皆既月蝕が始まった。


 三連月の全てが一斉いっせいに欠けるわけではない。主物質界から最も近い紅緋月レスカレオから欠け始め、その後に紅緋月レスカレオの影によって藍碧月スフィーリアが、藍碧月スフィーリアの影によって槐黄月ルプレイユが次第に欠けていく。


 皆既月蝕はしょくが始まってからおよそ一ハフブル後だ。そして、三連月がそろって皆既月蝕となるのは、わずかに一メレビル程度でしかない。


 この刻、全ての魔術が完璧に封殺ふうさつされる。それ以外でも魔術の威力は確実に減衰げんすいされ、下手をすれば発動そのものにも影響を及ぼす。圧倒的に魔霊鬼に有利な状況だ。



≪ねえ、私の愛しのレスティー、本当に任せてしまって大丈夫なの。極氷炎天球八醒ルスペルユヴェイエこそが鍵を握ると言っても過言ではないのでしょう≫


 フィアが心配げに尋ねる。居ても立っても居られないといった状況に近しい。


≪あくまでも主物質界を守護するべきは人だ。極氷炎天球八醒ルスペルユヴェイエは確かに最も扱いが難しい秘宝具の一つだが、あの娘はただ一人、天文学を知る者だった。強い心を持ってさえいれば大丈夫であろう≫


 フィアはレスティーの言葉を聞いても納得できないのか、珍しく問い返す。


≪それでも駄目だった刻は≫

≪決まっている≫


 それがいずれの意味を示すのか、今のフィアには結論が出せなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る