第350話:ジリニエイユが敬意を向ける存在

 灼青炎しゃくせいえんは主物質界において、人が行使できる最強の魔術炎の一つだ。


 改良を幾度となく重ねたルシィーエットの灼火重層獄炎ラガンデアハヴ、その最終形態たる極蒼蓋世焔亢舞ジェルガダラハヴはまさしく究極の炎であり、焼き尽くせないものは存在しない。


 空を強く輝かせる灼青炎はジリニエイユの頭上で形態を変化させていく。


≪このままでは集中砲火を浴びるだけです。最高位キルゲテュールよ、力を貸しなさい≫


 ジリニエイユからは珍しく焦りの色が感じ取れる。最高位キルゲテュールと同化しかけているとはいえ、ルシィーエットの炎の直撃を食らえば、ただでは済まない。そのことを己自身が誰よりも知っている。


≪大人しくここで死にな≫


 ルシィーエットの魔力感応フォドゥアと共に一塊いっかいの灼青炎が次々と分裂、糸状と化して豪雨のごとく降り注ぐ。


 呪具師を滅ぼした灼白炎しゃくびゃくえんとは根本的に威力が違う。しかも炎の欠片かけらわずかにかすっただけで、その部位から無に帰していく。魔霊鬼ペリノデュエズには再生能力があるとはいえ、およそ何の役にも立たない。


 灼青炎の細く鋭い雨がみまなく、容赦なくジリニエイユの全身を貫いていく。


≪案ずるでないわ。所詮しょせんは主物質界の炎に過ぎぬ。幾つかの核、それに腕一本程度は失うだろうがな≫


 あざけりを多分に含んだ最高位キルゲテュールの余裕の言葉を聞いても、ジリニエイユは安堵できない。


 核を失うのは最高位キルゲテュールだ。それは一向に構わない。しかも数百に及ぶ核の中の数個程度なのだ。何ら支障はない。


 かたやジリニエイユは腕一本を失いかねない。かつて左腕をルシィーエットに焼かれたジリニエイユにとって、右腕まで失うなど肉体的にも精神的にも耐え難い苦痛だ。


≪よくもふざけたことを言ってくれる。貴様とて、私がいなければ真の意味で最強にはなれないのだぞ。分かっているのであろうな≫


 最高位キルゲテュールは巧妙に焦燥感を隠している。ジリニエイユの言うとおりだ。同化を終えるまでは、決してジリニエイユの秘術にあらがえない。その秘術をおのがものとするがために、何が何でも同化しなければならない。


 現状では支配権は五分五分だ。どちらに天秤が傾くかは、それぞれの力の使い方次第であり、人族など弱き存在でしかない中、ジリニエイユの意向に逆らったところで最高位キルゲテュールには利点が少ない。


≪がなり立てるでないわ。我も貴様の重要性は理解しておる。被害は最小限に食い止めてやろう。腕一本は我慢するがよい。それもこれも貴様の判断が遅かったからだ≫


 灼青炎の雨がジリニエイユの体表面に突き刺さる。皮膚が刹那に溶け失せ、そこから凄まじい速度で気化が始まる。そのはずだった。


≪十、百の核を失おうとも根核ケレーネルさえ無事であればよい。あの男の獄炎に比べればこの程度、何でもないわ≫


 最高位キルゲテュールはジリニエイユの右腕一本を犠牲にして意図的に灼青炎の雨を誘導する。


 灼火重層獄炎ラガンデアハヴはルシィーエットの完全制御下であり、狙いを定めたが最後、寸分の狂いもなく対象を確実に焼き尽くす。身体の一部だけに炎が集中するなど、本来はあり得ない。


 ジリニエイユの全身を射貫くはずの灼青炎の雨、そのことごとくが右腕のみに降り注ぐ。


≪痛みは快楽、貴様も耐えるがよい。それに貴様も炎を扱えるのであろう。ならば、やがて心地よいものに変わる≫


 ジリニエイユからすれば、最高位キルゲテュールの言葉は正気を疑うものでしかない。


(知能を持つとはいえ、所詮は人とは違う生き物だ。私は大きな間違いを犯しているのか)


 ここで考えたところで意味はない。既に危機の真っただ中にある。即座に対処しなければ、瞬時に右腕を失ってしまう。


(迷っている暇などありません。今はこの窮地を脱することだけを考えなければ)


 これがジリニエイユの強さの秘訣だろう。迷いはすれど、状況把握をしたうえで頭を切り替える。その判断速度が桁違いに早い。既にジリニエイユの右腕表面には己が魔力による炎がまとわりつき、最高位キルゲテュールの邪気と重なり合う。


≪それでは足りぬが、多少は痛みもやわらぐであろう。貴様の炎を消すでないぞ≫


 今や最高位キルゲテュールの力によって、ルシィーエットの魔術制御は完全とまではいかずとも、あらかた奪われている。


 その証拠に降り注ぐ灼青炎の雨は右腕以外の部位に一切届いていない。しかも、触れた刹那せつなに溶けて気化するはずの体組織がゆるやかにしか滅んでいない。


 いまだに右腕は原形をとどめている。ジリニエイユの扱う魔術炎は灼赤しゃっかだ。もともと苦手な魔術ゆえに、それ以上の強力な炎は望めない。対するルシィーエットの炎は灼青炎、比べようもないほどに強力だ。


 最高位キルゲテュールはルシィーエットの魔術制御を奪取すると同時、犠牲にしたジリニエイユの右腕におのが核を五十結集させ強化を図っている。


 最高位キルゲテュールの持つ核一つ一つが高位ルデラリズにも匹敵する。いわば右腕一本に五十体の高位ルデラリズが集っていると言っても同然の状況だ。


 さらにその上からジリニエイユの炎と最高位キルゲテュール邪気じゃきを重層化することでルシィーエットの灼青炎に対抗している。


 最高位キルゲテュールの歓喜にも似た、けたたましい叫声が天をがす。


≪興味深いな。かつて貴様の左腕を焼いた炎を食らうのは初めてだが、これほどまでとは予想外だぞ。名は何と言ったか。この女賢者を是が非でも餌にしたいものだ≫


 さすがにこの言葉だけは看過できない。ジリニエイユから凄まじい怒気が発散される。


最高位キルゲテュールよ、言葉には気をつけることだ。ルシィーエット殿は、人族において私が敬意を払う三人の内の一人だ。次はないと思え≫


 最高位キルゲテュールに恐怖心は一切ない。ジリニエイユはあくまでも依代よりしろであり、秘術を有するとはいえ明らかに格下の存在だ。その男から意外な一面を視せられた。これには驚きを禁じ得ない。


(ますます面白いではないか。他者をかえりみない尊大なこ奴から敬意などという言葉が聞けるとはな)


 最高位キルゲテュールはそれこそ最高速で思考を巡らせ、一つの結論に達した。


≪ならば謝罪せねばなるまいな。我が悪かった。びよう。二度と口にせぬと誓おう≫


 ジリニエイユからの応答はない。控え目な怒気だけが残っている。心の奥底、そこにジリニエイユでさえ気づかない深い想いがある。さすがに最高位キルゲテュールでさえ、そこまでは考えが至らなかった。


≪もうよい。右腕を失う覚悟はできている。それ以外の部位は必ずまもるのだ≫


 集中砲火を浴び続けるジリニエイユの右腕は、遅々ちちとしながら灼青炎の豪雨の浸食を受けている。


≪我を信じよ。右腕以外、機能を喪失するなどあり得ぬわ≫


 確信を持った最高位キルゲテュールの言葉を受け止め、ジリニエイユもまた己が炎に魔力をめる。


 灼赤の炎が勢いよく右腕からき上がる。邪気との重層が辛うじてルシィーエットの炎を食い止めているものの、体表面に届くのは時間の問題だ。


 ジリニエイユの顔が苦痛にゆがむ。遂に灼青炎が重層を突き抜け、体表面へと到達したのだ。


 痛みを感じたのは束の間、まばたきに満たない間に、五十の核を次々と滅していく。核の破壊時の特色、黒きもやさえ噴出させるいとまも与えず、双三角錐そうさんかくすいの結晶体が気化を迎え、それと同時に右腕が原形を失っていく。


 ジリニエイユの頭上を覆った輝青きせいきらめきが弱まり、解き放たれたルシィーエットの魔術が主物質界のことわりに従ってるべき姿へとかえっていく。


≪耐えきったぞ。核を五十、そして貴様の右腕一本、重畳ちょうじょうの結果であろう。全身で浴びていたなら、この程度では済まなかった≫


 ようやく安堵できたのか、ジリニエイユがやや背を丸めて大きく息をしている。


(あの炎は危なかったです。さすがはルシィーエット嬢です。いささかも衰えていませんでした。むしろ魔術の威力、精度共に強くなっています。それでこそ、この私が敬意を向ける相手ですよ)


 顔を上げたジリニエイユの表情が場にそぐわず清々すがすがしささえ感じられる。


「重畳の結果ですか。そのとおりかもしれませんね。最高位キルゲテュールの力を借りている限り、滅びることはなかったでしょうが」


 すぐさま表情を引き締め、消え去った輝青の空を見上げる。ジリニエイユが敬意の対象者たるルシィーエットに向けて魔力感応フォドゥアを飛ばした。


≪私はやられたらやり返す主義です。ルシィーエット嬢、二度も私を焼いた代償は高くつきますよ≫


 直接、ルシィーエットを攻撃するなど骨頂こっちょうだ。ジリニエイユにはジリニエイユならではのやり方がある。情け容赦なく周囲を巻きこむ。


 だからこそ、ヒオレディーリナはもちろんのこと、おあつらえ向きの攻撃対象者にも捉えられるようにしているのだ。


≪ニミエパルド、ケーレディエズ、私を裏切りましたね。私は手駒にかける情けなど持ち合わせていませんからね≫


 突如、二人の核から制御不能なほどのすさまじい邪気じゃきあふれ出す。


≪まだ生きてたのかい。往生際おうじょうぎわの悪い男だね。灼青炎しゃくせいえんに耐えられるとは予想外だよ。私も耄碌もうろくしてしまったようだね≫


 灼青炎を浴びてなおも生存している。考えられることは唯一だ。


 まさしくフィアが言ってのけたとおり、最高位キルゲテュールと同化しかけている。


 ジリニエイユには遠く離れた地で憤怒に顔をゆがめて宙をにらみつけているルシィーエットの姿が想像できている。


≪さすがはルシィーエット嬢とめておきましょう。炎の威力、精度いずれもあの時とは比べようもありませんでした。ですが、私もさらに強くなっているのですよ。貴女を上回るほどにね≫


 嘲笑ちょうしょうと共にジリニエイユの声が降ってくる。


 この声を聞いているだけで苛立ちが増してくる。人の神経を逆撫ですることにけたジリニエイユのこと、まともに相手をするだけ無駄というものだ。


 ジリニエイユが手駒と称したニミエパルドとケーレディエズに対して最後通告を落とした。


≪この二人で魔霊人ペレヴィリディスも最後となってしまいました。生かすも殺すも、お好きになさって結構です。せいぜい楽しんでください。私は忙しいのでね。これで失礼いたしますよ≫


 言い放って、早々に魔力感応フォドゥアを切ろうとするジリニエイユをヒオレディーリナがすかさず制止する。


≪待ちなさい。この二人が最後の魔霊人ペレヴィリディスと言ったわね。私を忘れないでもらいたいわ。それにお前を殺すのはルシィーエットではなく、この私よ≫


 ヒオレディーリナの魔力感応フォドゥアはジリニエイユ以外、ルシィーエットとフィアのみに伝播でんぱしている。


≪ヒオレディーリナ、貴女は魔霊人ペレヴィリディスではありません。私の制御から完璧に逃れた存在たる貴女は、心臓をもって生き続けているのですから≫


 ジリニエイユがもう一人の敬意を向ける対象に言葉を投げかける。


 魔霊人ペレヴィリディスは死者の身体と魔霊鬼ペリノデュエズの核を合成して創り上げた殺戮さつりく兵器であり、ジリニエイユの秘術によって完全制御下に置かれている。


≪ヒオレディーリナ、そしてルシィーエット嬢、私と本気で戦いたいなら高度八千メルクまで来てください。その刻こそ全力でお相手いたしましょう≫


 その言葉だけを残してジリニエイユの魔力感応フォドゥアは完全に途絶えた。

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