第331話:血と緑風の加護

 ヒオレディーリナはここに三つ目の魔術をもって鍵を解除するための条件を改めて付与する。


「レージェレ・リィヒーミ・ネ・イファドロー・ヴォージェ

 キーリィ・ナーダ・ザォエ・ドゥピーエ・ネーレ

 ソワリュイ・ガラージェア・ヒュザナー・ミイェーリ」


 さすがに三つ目の魔術ともなると、魔術そのものが不安定におちいる。本来、二つで完遂すべき魔術に、さらに別の魔術を加えようというのだ。真なる効果は、行使した全ての魔術が安定した状態を保ってこそ発揮する。


 ヒオレディーリナが魔術にけたエルフ属といえども、異なる三つの魔術を連続して同一人物に行使するのは危険極まりない。最悪、体内で異なる魔術が衝突、その余波だけで命を奪いかねない。


(魔術安定のためには仕方がないわね。それにこの娘の心が求めている)


 ヒオレディーリナが幾ばくかの迷いを捨て去り、風刃ふうじんをもって自らの指先をわずかに裂く。


 鮮血が浮かび上がると同時、半開きになっている女のくちびるに一滴だけ垂らした。血はまるで意思を持ったかのごとく、唇を経て口内へと浸透していく。


 魔術を安定させるための簡単な方法がある。ヒオレディーリナはそれを実行したのだ。


 すなわち、術者の血液を媒介として魔術を馴染なじませる。魔力は第二の血液と言っても過言ではない。血液と魔力は体内で同時循環しながら、無意識下で互いに補完し合っている。


(私の血をもってすれば複合魔術であろうと安定はする。ただしそれは異分子、弊害がないわけではない。吉と出るか、凶と出るか)


 思案するヒオレディーリナを怪訝けげんに想ったのか。腕の中の女が見上げてくる。


「お姉ちゃん、どうしちゃったの。いつも私の名前を呼んでくれるのに、今日はまだ一度もないよ。もしかして、忘れちゃった」


 忘れるも何も初対面なのだ。話を合わせるために咄嗟とっさに姉になったにすぎない。女の名を知るわけがない。


「そうね。お姉ちゃん、うっかり忘れてしまったかも。私の可愛い妹の名前は何だったかな。お姉ちゃんに教えてくれる」


 女は全く気にもしていないようだ。仕方がないな、といったところか。素直に応じてくれる。


「もう、お姉ちゃんったら。私はケーレディエズだよ。いつもディズって呼んでくれてるじゃない」


 ケーレディエズと名乗った女の屈託のない笑みが、かえってヒオレディーリナの心をえぐっていく。嫌な記憶が脳裏に蘇ってくる。やはり魔術を用いたのは間違いだっただろうか。今さら言ったところで詮無せんなきことだ。


(忌々いまいましいわね。この娘を見ていると、どうしても想い出してしまう。これは私の罪滅ぼしなのかもしれない)


 最後の迷いを断ち切り、ヒオレディーリナはケーレディエズに優しく言葉をかける。


「ねえ、ディズはお姉ちゃんが好きかな。好きだったら、お姉ちゃんの目をじっと見て」


 応えるまでもないとばかりにケーレディエズがヒオレディーリナの目をまばたきもせずに見つめてくる。


(素直で素敵な娘ね。この娘を妻にできる男は本当に幸せ者よ。ならば、制約も決まりね)


 この時点で、ヒオレディーリナはニミエパルドの存在など知るよしもない。知っていたなら、間違いなく他の制約を選んでいただろう。


「私の可愛いディズ」


 ケーレディエズも言葉で応える。


「私の大好きなお姉ちゃん」


 ヒオレディーリナの視線はもはやケーレディエズを見ていない。心の深淵にまでもぐりこみ、意識をみ渡らせていく。三つ目の魔術を完遂させるための言霊を制約と変えて刻みこむために。


「ヴィナーヴァ・ヒオレディーリナ、ハミィーヌェ・ヒュジリィ・ラナェア・ニーゾミロェ」


<訳:我がヒオレディーリナの真名をもって血の制約をここに課さん>


 たちどころにケーレディエズの身体が緑風エテブリゼに包まれていく。緑風エテブリゼ根元色パラセヌエを構成する八色のうちの一色だ。


 ヒオレディーリナほどの実力者であっても、根元色パラセヌエそのものは扱えない。血のにじむ努力の末、ようやく緑風エテブリゼだけが力を貸し与えてくれるに至った。


 力と言っても、片鱗へんりんにすぎない。根元色パラセヌエは人には過ぎたる力、その一色の、たとえ片鱗だけでも扱えるヒオレディーリナがいかに傑出した存在か、よく分かるというものだ。


 ヒオレディーリナは己が血と緑風エテブリゼをもって、ケーレディエズに完璧な魔術をほどこし、調和と制約を同時にもたらした。


「お姉、ちゃん」


 複合魔術による高負荷が全身にかかったのだろう。ケーレディエズはヒオレディーリナの腕に抱かれたまま意識を失った。


「ディズ、貴女の心に二つの強力な制約を課したわ。解けるかいなかは、貴女と貴女の伴侶はんりょになる者次第よ。二つが解けた時、ディズは真の姿を取り戻す」


 正直なところ、解けなくてもいいとヒオレディーリナは想っている。戻ったところで、この娘が心に負った傷は決して消えない。いずれ何らかの弾みで悪夢が蘇らないとも限らない。


「ディズ、貴女は元来がんらい、心根の優しい娘、戦いには向いていない。いくら私の血と緑風エテブリゼまもられているとはいえ、死ぬ時は簡単に死ぬのよ。努々ゆめゆめ気をつけなさい」


 まるでヒオレディーリナの魔術完遂を待っていたかのように、炎の勢いが増していく。既に部屋中の壁や天井といった部分は燃え盛る炎にめられ、見る影もない。


「そろそろ私たちも脱出しないと。この娘を死なせるわけにはいかない」


 偽りの妹を横抱きにしたヒオレディーリナは目の前の壁に向かって軽く息を吹きかける。ただそれだけだ。


 瞬時にして炎がお辞儀をもって両端へと退しりぞいていく。その様はまるで女王の前にこうべを垂れ、進んで道を開けるかのようでもあった。


 ヒオレディーリナは踏み出すとともに進路をはばむ邪魔な壁を烈風をもって正円状にくり抜いていく。


「シュヴィリ・ジュロネア・ピミィニハ

 ロトキュム・ナダー・ベーレナ・ソリュヌー」


<訳:我が前を阻むものなし。全てがひれ伏すのみ>


 朗々とうたうがごとく美しい声音こわねけていく。その声音を追うようにして風がけていく。さらにその風を従え、女王のごときヒオレディーリナがケーレディエズを抱えたまま悠々と歩を進める。


 正円にくり抜かれた壁は、まさしく女王を歓迎する門だ。ヒオレディーリナは造作もなく潜り、軽々と宙に身を躍らせていった。


 風をまとうヒオレディーリナは重力を嘲笑あざわらうかのように、ゆっくりと降下していく。


 よろいを着込んだ男が二人、驚きの表情を浮かべてこちらを凝視している。今にも焼け落ちんとする建物内部に生存者がいないかと注視していたところに、ケーレディエズを抱えたヒオレディーリナが突然空から降ってきたのだ。当然の反応だろう。


 音もなく大地に足を下ろしたヒオレディーリナのもとへ二人が一目散に走ってくる。


「ヒオレディーリナ様、ご無事でしたか。その娘が」


 二人が即座に片膝かたひざをついて敬意を表する。ヒオレディーリナは一瞥をくべると、淡々と言葉を発するのみだ。


「ドゥノヴィエズの要請で馬鹿どもは始末しておいた。愚かな魔術師の炎で死体も残らないわね」


 吐き捨てた直後、炎にまれた館が大量のすすき散らしながら、轟音ごうおんを伴って崩落ほうらくした。


「この娘を頼んだわ。くれぐれも丁重に扱いなさい」


 一人が立ち上がり、ヒオレディーリナからケーレディエズをうやうやしく受け取ると、自らの外套がいとうでその身体を丁重に覆う。肌の露出を気にしての配慮からだ。


かしこまりました、ヒオレディーリナ様。我らはこの足で王宮に戻り、ドゥノヴィエズ陛下に任務完遂の報告を行いたく、ここで失礼してもよろしいでしょうか」


 ヒオレディーリナが鷹揚おうよううなづく。


「行きなさい。ドゥノヴィエズには、そのうち顔を出すからと伝えておいて」


 二人が深々と頭を下げる。主君を敬称もなしに呼び捨てるヒオレディーリナに対し、いささかの嫌悪感もない。ヒオレディーリナは国王以上に敬意を受けるべき存在として広く認識されているあかしでもあった。


 二人がおもむろに顔を上げた時には、既にヒオレディーリナの姿は消えていた。はるか上空、風を纏って急上昇したヒオレディーリナは二人の視界ではとらえられない。


相応ふさわしい言葉ではないけど、仮初かりそめの姉妹関係になれて楽しかったわ。二度と逢うこともないわね。ディズ、貴女の幸せを心から願っているわ」


 それがヒオレディーリナの残した最後の言葉だった。

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