第330話:幼児退行の謎

 力強く抱きついてくるケーレディエズをニミエパルドが優しく受け止め、無言のままなだめている。


≪ディーナ、この娘、ケーレディエズと言ったかい。どうしてこのようなことになっているんだい。まるで幼児じゃないか≫


 あまりに不安定、感情を制御しようともしないケーレディエズがルシィーエットには理解できない。彼女の身に起こった事情を知らないのだ。仕方がないだろう。


≪ある辺境の小さな村で暮らしていた二人は幼馴染おさななじみ許嫁いいなずけだった。ケーレディエズは絶世の美女、ニミエパルドは王国騎士に匹敵するほどの有能な騎士だったようね≫


 魔霊人ペレヴィリディスと化した二人は全盛期の肉体を維持している。ヒオレディーリナのげんを待つまでもなく一目瞭然だった。


 その後の展開がどうなったかぐらい、ルシィーエットには手に取るように分かる。思わず頭を抱えてしまう。


≪そんな二人を領主一族が放っておくはずもない。残念ながら絵に書いたような馬鹿どもでね。しかも領主の一人息子が愚者極まりなく、とんでもない好色家だったのよ≫


 それだけ聞けばもはや十分だ。ルシィーエットの悪い予感は的中してしまった。その結果として今のケーレディエズが在るのだ。納得するしかない。


 せないのはこの状態を魔霊人ペレヴィリディスと化して、なおも維持し続けていることだ。自ら解かないのか、あるいは何らかの理由があって解けないのか。


「ニミエパルド、一つ聞いていいかい。ケーレディエズの幼児退行が解けない理由は何なんだい。当然、あんたなら知っているだろ」


 ルシィーエットを見つめるニミエパルドの目が哀しみ一色で彩られている。それがルシィーエットに対する答えだ。


「ルー、この男は何も知らない。代わりに私が説明してあげる」


 思いもよらない言葉が空から降ってくる。ニミエパルドは咄嗟とっさに視線を転じる。


「どういうことです、ヒオレディーリナ。私の知らない真実を貴女が知っているというのですか」


 ニミエパルドの切実な問いにヒオレディーリナは事もなげに応じる。


「当然よ。私はあの場にいたのだから」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 地方領主たる父親は今頃、苦痛から逃れたいあまり自害しているだろう。


 ここに到着する前のことだ。ヒオレディーリナは洗いざらい白状させた後、間違いなく自死を選びたくなるほどの責め苦を徹底的に与え続けたのだ。


 気の毒とは全く想わない。事なかれ主義、見て見ぬふりをする為政者などいない方がましだ。それゆえに周囲に愚か者ばかりが集い、あらゆるものが腐敗していく。


 すなわち、それは悪であり、ヒオレディーリナにとって処罰するに値する十分な理由なのだ。


「ここまで弱い魔術師を見るのは久しぶりね。分不相応ぶんふそうおうの夢をるからこうなるのよ。所詮しょせん塵芥じんかいは塵芥にすぎない。次はお前よ」


 ヒオレディーリナがため息とともに吐き捨てる。


 既に無残な末路を辿たどった魔術師の男が、持ちうる最大の魔術を初撃で行使したことだけはめてしかるべきだろう。男が放った炎の中級魔術炎だ。並の剣士や騎士程度なら十分な脅威になるだろう。


 相手があまりにも悪すぎた。ヒオレディーリナは防御の構えさえ取らない。その証拠に炎は薄皮一枚さえ焼くに至らず、眼前でき消されてしまった。


 ヒオレディーリナは表情一つ変えず、男に向けて右指一本を小さく振る。狭い室内であろうと、ヒオレディーリナが制御する風はいささかの乱れも起こさず、裂風斬となって男の五体を細断していった。


 細切れになった肉体が音もなく崩れ落ちる。感情の起伏が極端に少ないヒオレディーリナの瞳には何の色も映し出されていない。単純に目の前の塵芥を払った、それだけだ。


 血の臭いでむせ返る中、肉片となった魔術師の男を目にして、馬鹿息子は必死に嘔吐おうとこらえている。ヒオレディーリナは転がっている矮小わいしょうな生き物を睥睨へいげいするのみだ。


「な、な、何なんだ、お前は。俺は領主の息子なのだぞ。こ、このような真似をして、た、ただで済むと想っているのか」


 虚勢を張るだけの力は残っていたようだ。ヒオレディーリナは先ほどと同じく、右指一本を馬鹿息子に向け、今度は少しばかり力をめて振った。


 たちまちのうちに馬鹿息子の絶叫が部屋中にとどろく。


「お前は、簡単には殺さない」


 馬鹿息子の四肢だけが裂風斬によって回復不可能なほどにり刻まれていく。盛大に血を噴き上げながら、部屋の壁を赤に染めていく。


 ヒオレディーリナの裂風斬で斬られた以上、止血は絶対にできない。鋭利すぎる風の刃が切断した血管は決してふさがらないのだ。このまま放置しておけば、いずれ確実な死が待っている。


 ヒオレディーリナは決してぬるい死を許さない。


「た、助けてくれ。お願いだ。か、金なら、いくらでも出す。私の父は、一帯を統治する領主だ。金以外の要求にも応じる。だ、だから、命だけは、た、頼む」


 ヒオレディーリナにとって、目の前で叫声を発している生き物は塵芥でしかない。


「塵芥は塵芥らしく散るのみ。ああ、お前の父親とやらは今頃、自死しているだろう」


 表情一つ変えず、ヒオレディーリナは淡々と事実のみを口にする。


「き、貴様には、人の血が、流れていないのか」


 それが哀れな馬鹿息子の断末魔だんまつまとなった。


「聞くにえないわね」


 ヒオレディーリナの左手がつかに触れるやいなや、馬鹿息子には何が起こったのか分からないままに首と胴体が泣き別れになっていた。


 躊躇ためらいなど微塵みじんもない。ヒオレディーリナにとって、これもまた些末さまつな出来事だ。三剣匠の一人として、この国をべる王からの処刑依頼を受諾、即実行したにすぎない。


「同じように懇願こんがんしてきた女たちにお前は何をした。女をもてあそび、なぶり者にするお前など塵芥未満、生かしておく価値など毛頭ない。ああ、もう聞こえていないか」


 馬鹿息子は父親よりも随分と楽に絶命している。ヒオレディーリナは自戒していた。父親以上に激しい苦痛を与えてから殺すべきだった。そうでなければ、この馬鹿息子の魔の手にかかって、命を落としていった女たちの供養にもならない。


「私としたことが、しくじったわね。あまりに早く殺しすぎた」


 仕方がないとばかりにヒオレディーリナは何度となく首を横に振ると、寝台の片隅で背をこちらに向けて小さくなっている女に目を移す。


「遅くなったわね。この館もすぐに焼け落ちる。ここから出るわよ」


 ヒオレディーリナの言葉が聞こえていないのか、女は微動だにしない。彼女の状態を確認するまでもない。明らかに心を閉ざしてしまっている。


 手をこまねいていては館もろとも焼死体になるだけだ。ヒオレディーリナはなかば強引に女の腕をつかむと、身体ごとうつ伏せに向け直す。


(完全に目が死んでいる。やはり最大の苦痛を与えてから殺すべきだった)


 女のうつろな目が宙を彷徨さまよっている。ようやくのこと、その視線がヒオレディーリナをとらえる。女は何を想ったのか、起きるなりヒオレディーリナに勢いよくしがみついてきた。


「お姉ちゃん、待ってたんだよ。私、お姉ちゃんが迎えに来てくれるまで、いい子にしてたからね。めて、褒めて」


 刹那の出来事に、さすがのヒオレディーリナも戸惑うしかできない。


(嫌なことを想い出させてくれる。二度と同じてつは踏まない)


 ヒオレディーリナは女を抱え上げ、背に回した両の拳を固く握った。


「ごめん、待たせてしまったわね。お姉ちゃんは絶対に約束を破らないでしょ。さあ、一緒に帰るわよ。その前に」


 ヒオレディーリナは女の背に回した左手をもって、宙に幾つかの文字を描き出す。白銀しろがねきらめきを散らし、即座に文字が女の身体に溶け込んでいく。


 同時に引き裂かれた女の衣類を修復、さらには激しい暴力によって生じた傷を癒しの風で包んでいく。


「少しは楽になるわ。今はこれで我慢しなさいね」


 無邪気に微笑む女の目を通して心の奥底までのぞき込む。


(幼児退行、心に負った傷はいかほどか。私には想像もできない)


 強く握った両の拳にさらに力を籠める。わずかに怒りを発散しただけだ。


 部屋を満たそうとする炎でさえおびえを見せたか、ヒオレディーリナの周囲には決して近づこうとしない。


 腕の中にいる女の精神は崩壊寸前だった。このままでは完全に破壊され尽くし、廃人と化すのも時間の問題だ。女は自ら理解をしたうえで、心を護るために幼児退行を選んだのだろう。


(賢い娘なのね。この娘は、何としても私が護らなければならない。それがあの子への。やむを得ないわ)


 決して躊躇いがないわけではない。無邪気に抱きついている女に心の中でびる。


(今から行使する魔術のための絶対条件なの。貴女の受けた仕打ちと、あの塵芥どもの死とでは到底釣り合わない。でも殺してしまったから。許してね)


 ヒオレディーリナがくちびるを震わせ、女には理解できない言霊ことだまを紡ぎ出していく。


「シェネイ・エヴェノー・ステローディ・ラカネ

 レミリー・トゥレルエ・ナヴァレー・ネヴェーア」


 一つ目の魔術が完遂する。続けざまに二つ目の魔術のための言霊を刻む。同一種でありながら効果が全く異なる二つの魔術を時間差行使するのだ。相克そうこくを引き起こさないための緻密ちみつな魔力制御が要求される。


「ザトゥーラァ・ハミリィ・ファロディ・スゥーリェ

 ソアルム・ゼリェーゼ・オトゥロ・ナヴァ・ラーナイ」


 ヒオレディーリナの魔術は、エルフ属の中でも限られた者のみが行使できる秘術の一つだ。


 一つ目は、女の心に直接言霊を溶け込ませ、いまわしき記憶の伝播でんぱを内外ともに完璧に遮断する。いわば記憶の封印に近しい。


 二つ目は、溶け込ませた言霊を解除するための鍵を仕かける。本来であれば、心を解放しても壊れないほどに成長すると同時、自動的に鍵が外れる仕組みだ。


 この女には通用しない。既に肉体も精神も成長しきっている者が対象では不十分なのだ。


(これでは駄目だわ。あの方法を取るしかないわね)

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