第326話:記憶の靄と紅緋華王

 ザガルドアは一目見た瞬間に違和感をいだいていた。


 宙に浮かぶ美しいお姉さんの姿形はおよそ二十年前のままだ。あの当時からいささかの変化もられない。ただ一点を除いて。それは剣を握る手に現れている。


 一度だけ実践してくれた剣技に魅了された。一挙手一投足がいまだ脳裏にこびりついている。長衣ちょういを脱ぎ捨てた際の美しさは言うまでもない。


(間違いなく美しいお姉さんの利き手は左手だった。それにしても、ここまでとは)


 ザガルドアは星光散塵風残斬リュシエヴァントを手にしたまま動けなくなっている。美しいお姉さんから発せられるすさまじいまでの圧を肌で感じ取っている。


 害意は一切っていない。にもかかわらず、恐怖心が心の底からき上がってくる。震えが止まらないザガルドアは首をかしげるしかなかった。


 ニミエパルドもケーレディエズも同じだ。動けなくなっているのはザガルドアと同様、異なるのは恐怖心以上の敵愾心てきがいしんだった。


 振り返ろうともせずにザガルドアを憎しみのこもった瞳でにらみつけるケーレディエズ、即座に振り返って敵意をあらわにするニミエパルド、標的を定めた二人が圧をけんと全身から邪気じゃきを発散させている。


「警告よ。彼我ひがの実力差も理解できない愚者なら即座に始末する」


 一切の感情を廃した恐ろしいまでの冷酷な響きにザガルドアは生唾を飲みこむしかできない。


「坊や、下がっていなさい。そこは私の剣界内けんかいない、巻きこまない自信はないわ」


 必要最低限の言葉だけを投げかける。ザガルドアはもちろん愚者ではない。何よりも、美しいお姉さんに反論しようなどという考えは持ち合わせていない。


「美しいお姉さん、俺はどこまで下がればいいんだ」


 距離が相当に離れていようと、ザガルドアと美しいお姉さんとの間では何の問題もないようだ。そこに微量の魔力が介在、魔術によるものだと気づけた者はこの場に誰一人としていない。いや、一人だけいる。これまでここにいなかった人物だ。


 かすかに笑みを浮かべて美しいお姉さんが応える。


「そうね。ルーのもとまで下がればいったんは安心ね」


 指し示しつつも、美しいお姉さんが意外そうな表情を浮かべている。怪訝けげんに想ったザガルドアがつぶやく。


「ルー、いったい誰のことだ」


 指し示された方向に振り返る。ちょうど三姉妹の背後だ。これまで誰もいなかったその場所に女が立っている。


「なるほどな。ルシィーエット殿のことだったか。貴女はイオニアたちと共に上にいたのではなかったか」


 ルシィーエットの視線がザガルドアをとらえる。


「少しばかり事情ができてね。ここまで下りてきたんだよ」


 いったん視線を切ったルシィーエットは宙に浮かぶ美しいお姉さんに語りかける。


「ディーナ、この子たちだ。ジリニエイユが抹殺指令を下した三姉妹だよ」


 平然と抹殺指令と口にしたルシィーエットに誰もが驚きさえしない。既に事実としてセレネイアたち三姉妹も受け入れているからだ。


「ルシィーエット様、私たち三姉妹に対するる抹殺指令は承知しております」


 セレネイアが毅然きぜんと応える。


 決して恐怖心がないわけではない。戦場において恐怖心を抱けば負けだ。正常な判断をも確実ににぶらせる。


 三姉妹にあって、最もおびえているのは間違いなくシルヴィーヌだ。ルシィーエットを不安げに見上げている。


 平然としているのはマリエッタであり、ルシィーエットの弟子を自認する以上、そう簡単にはやられないという自信のようなものがあるのだろう。


 セレネイアは二人の中間程度の緊張感といったところか。


「なら問題ないね。それにディーナと私がいる限り、あんたたちに指一本触れさせやしないさ」


 先代レスカレオの賢者にして最強の炎の魔術師たるルシィーエットがそこまで言い切るのだ。ルシィーエットがディーナと呼び、さらにはザガルドアが美しいお姉さんと呼ぶ、宙に浮かぶ者へと三姉妹の視線が向けられる。


 問いかけは同時だった。


「ルシィーエット様、あの方はいったい」

「ルー、セレネイアはどの子」


 ルシィーエットが苦笑を浮かべている。


「全く、同時に尋ねるんじゃないよ」


 ルシィーエットがセレネイアに視線をかたむけた瞬間だ。


 斬風撃ベルヴァンテが音もなく飛来する。セレネイアは無意識のうちに皇麗風塵雷迅セーディネスティアさやから抜き、咄嗟とっさに剣身で受け止める。


「何をするのですか」


 ルシィーエットは動かない。動けなかったのか、それともあえて動かなかったのか、表情からでは判別がつかない。


「意外ね。反応できるとは想わなかった」


 皇麗風塵雷迅セーディネスティアは完全に鞘から抜き放たれていない。剣身のおよそ半分が姿を見せ、剣身の中でも最も幅広い腹で斬風撃ベルヴァンテを防いでいた。


 抜ききっていたら確実に受け止められなかっただろう。その結果がどうなるかは自明の理だ。まさしくセレネイアの好判断だった。


魔剣アヴルムーティオを持つだけのことはあるようね。それにしても脆弱せいじゃくね」


 容赦のない言葉を投げかけてくる。セレネイアは言い返さない。言い返せない。まさしく指摘どおりだからだ。


「何なのですか。あの失礼な方は。私のお姉様に向かって、いきなり攻撃を仕かけてくるとは」


 セレネイアに代わって憤慨ふんがいしているのはマリエッタだ。すぐさま魔力を練り上げようと精神集中に入る。それをルシィーエットがたしなめる。


「マリエッタ、めないか。無鉄砲にもほどがあるよ」


 頭を軽く小突かれてたマリエッタがいささか落胆している。こういうところはまだまだ子供だ。


「ヒオレディーリナ、心臓に悪いことは止めてくれないか。この子たちを斬り刻むつもりかい」


 ヒオレディーリナは剣を鞘に収めたまま、抜刀さえしていない。もしも抜刀のうえで斬風撃ベルヴァンテを放っていたら、今頃三姉妹は確実に息絶えていただろう。


 ヒオレディーリナにその気は全くない。だからこそ、ルシィーエットは動かなかったのだ。


 ザガルドアもセレネイアたち三姉妹も耳にしたことのない名だった。


「ヒオレディーリナ、それが美しいお姉さんの名か。初めて聞く名だ。それもまた美しい。いや、違う。俺はどこかで聞いたことがあるような」


 名が知れたことを喜びながら、ザガルドアはしきりにかぶりを振っている。何かを想い出そうとしている。記憶の混濁こんだくが未だに残っているのだろうか。まるで封印されていた時と同様、その部分にだけもやがかかっている。


「この違和感、何でしょうか」


 ザガルドアとセレネイア、二人の困惑を前に、ルシィーエットはザガルドアを優先すべきと判断した。


「ディーナ、あんたまさか」


 昔と変わらない。


 ルシィーエットの口を封じるためのヒオレディーリナの仕草がある。この地で久しぶりに逢った時に既にやってみせている。ゆっくりとくちびるに指を一本添える、ただそれだけの動作だ。ルシィーエットの言葉は完全に封じられる。


「坊やに名乗るつもりはなかったんだけど。ルーが明かしてしまったわ。肌身離さず大切に持っているのね。出しなさい」


 何のことを言っているのかザガルドアには即座に理解できた。胸内に仕舞っていた美しい刺繍ししゅうが施された手拭てぬぐいを取り出す。


「美しいお姉さん、いやヒオレディーリナと呼んでもいいだろうか」


 わずかに思案、おもむろに言葉をつむぐ。


「坊やは特別よ。ディーナと呼ぶことを許してあげる。この世界で私をディーナと呼べる三人目よ。名誉に想いなさい」


 ヒオレディーリナは三人目と言った。


 一人は既にルシィーエットだと分かっている。もう一人はいったい誰だろう。なぜか気になる。女か男か。ヒオレディーリナの力からすれば、その者もルシィーエットに匹敵するほどの圧倒的強者なのだろうか。


(何だ、この胸に突き刺さるような痛みは。確かに俺はこのお姉さんに、ディーナにかれている。それは認めよう。だが、俺の心にいるのはただ一人だ)


「美しいお姉さんはディーナ、でいいんだな」


 言葉はない。首を縦に振ってヒオレディーリナが承諾を返す。


「坊や、貴男の知りたいことはこの戦いが終わって、生き残れたら教えてあげる。だから死んでは駄目よ。さあ、それを開きなさい」


 ヒオレディーリナに促されるままにザガルドアは手拭いをゆっくりと開く。


「ヴェレージャとセルアシェルから教えてもらった。この花びらはリンゼイア大陸共通語で紅緋華王リュクリエ、エルフ語でヒオーレアと言うそうだ。あの時、俺の前に現れたのは」


 またもや言葉はない。ただ首を横に振って否定を返す。


(坊や、今は知るべきではないわ。その記憶だけは、たとえ妖精王女の力でも触れられない。なぜなら)


 ヒオレディーリナの慈愛じあいこもった瞳は、ザガルドアの心の奥底を視通みとおしている。慈愛の中に悲哀が含まれていることには誰も気づけない。


「ルシィーエット様、あのヒオレディーリナという御方はいったい何者なのでしょうか。ザガルドア殿とは昔からのお知り合いのように接しておられます。しかも、あの御方の言葉には、風の魔術が乗せられています」


 マリエッタはささやくようにしてルシィーエットに尋ねた。

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