【2周年読み切り】兄弟になる二人 中編2
一夜明けた。
ザガルドアたちは秘密の通路を幾つも通り抜け、少年を治癒術師の
事前に話をつけているという言葉は嘘ではなかった。迅速に処置された結果、少年の傷はたちどころに
「小僧、お前たちは何者なんだ。あの男に
用心に越したことはない。
少年が着ていた高価な衣類などは全て
治癒術師はきっと気づいていたはずだ。あえて触れなかったということは、やはりあの男のことが相当に恐ろしいのだろう。
「まあいい。俺には関係のないことだ。あいつが助かった。今はそれだけで十分だ」
ザガルドアは警備隊から巻き上げた長剣を片手に、早朝の剣術
ザガルドアが急成長を遂げ、強者の一人に成り上がったきっかけがある。ちょうど一年前のことだ。どこからともなく、ふらりと現れた女剣士から剣の扱い方を教わった。
女剣士は
「坊やにはまだその剣は早いわ。身体はもちろん、
昨日から幸運続きだ。
ザガルドアは親しみの
「お姉さん、やっと来てくれたね。この剣、やはりだめか。振りにくいと思っていたところだったんだよなあ」
この女剣士を目の前にすると、なぜか年齢相応の口調に戻ってしまう。
見た目だけなら実に若々しく見える。明らかにここに来るためだけに汚い衣類を着ているようにも感じられる。実年齢はザガルドアも知らない。恐ろしくて聞くわけにもいかない。
「お姉さん、じゃないでしょう」
二人のいつものやり取りだ。初対面時、女剣士はザガルドアに一つだけ要求した。自分を呼ぶ際の呼称だ。
「ああ、分かっているよ。美しいお姉さん、今日はどんなことを教えてくれる」
女剣士が思案している。面倒を見るともなしにここまで一年余、彼の剣に対する姿勢を
(素直な剣、そしてぶれない剣、この年齢にして大人顔負けでもあるわ。私が伝えられる流派は唯一、それが適正なのか分からない。坊やが成長してから見極めるしかない。それでよいわよね)
誰にともなく尋ねるような心の
「そうね。手にしているその剣が身体の一部として自由自在に扱えるようになった時のために、一つだけ剣技を
女剣士が宙に向かって右手のひらを差し出し、何やら
「美しいお姉さん、貴女は魔術師だったのか」
即座に否定の言葉が返ってくる。
「違うわ。簡単な初級魔術など誰にでも使えるものよ。坊やだって、正しい訓練さえすればね。それに、私は魔術があまり好きじゃないの」
おもむろに手のひらを閉じる。空間から現出したのは
ザガルドアが驚きのあまり、
「大丈夫、坊やを襲って食ったりなどしないわ。これは魔術の産物、ただし生命を持たないで、それ以外の要素は完璧よ。これの特徴は恐ろしく強硬度の肉体ね」
女剣士が左脚を大きく引いた。
「一度だけ実践で見せてあげる。坊やはその目にしっかりと焼きつけて、繰り返し剣を振るいなさい」
女剣士がザガルドアの前で初めて長衣を脱ぎ捨てる。ザガルドアは言葉を失うしかなかった。この世のものとは思えないほどの美しさに圧倒されている。
(済まない、シェルラ。俺は今、美しいお姉さんの前にひれ伏したいぐらいだ)
「美しいお姉さん、左利きだったのか」
そこからの流れはまさに一瞬、さながら優美な芸術作品を鑑賞しているかのようでもあった。
剣が左後方最下段に置かれるや、切っ先が地を
「馬鹿な。剣身が
言葉は
地を這う剣が魔獣の右下半身へと接近、激突する寸前で大きく軌道を変えた。女剣士の手首が柔らかく
「
同時に直角に曲げていた右膝が瞬時に伸び上がる。
踏みこみと伸び上がり、この二つの勢いを一気に乗せて、剣が魔獣の右腰部分から左肩へと音もなく優雅に
「嘘、だろ」
ザガルドアは信じられないものでも視せられたかのように、口を大開きにして固まってしまっている。
「
女剣士は小言も忘れない。直接視認せずとも、ザガルドアがどんな反応を示しているか、手に取るように分かっている。
左肩を抜けきった剣は、今や最上段にある。すなわち、剣を手にする左腕が伸びきった状態だ。そこからの動きは、もはや常人では追えないほどに素早かった。一瞬の
左手首を
このままの姿勢では、剣をまともに振るえない。身体をもとの位置に戻さなければならない。速やかに右脚を左脚のやや後方へと移動、伸び上がった状態の右脚を整えた。
「これで仕上げよ」
一呼吸の後、女剣士が握る剣は魔獣の右肩上部に食いこみ、加速しながら斜め
かくして、剣は魔獣の左腰部分から斬り抜け、ここに女剣士の剣技は
「最下段より斬り上げ、すぐさま剣軌を変えて最下段へと斬り下げる二段構えの剣技よ」
(こんな凄まじい剣技、初見で覚えられるわけないだろ。俺は
「二度と見せないわよ。体得してみせなさい。次に逢った時の楽しみにしているわ」
まるで別れの言葉のように聞こえる。ザガルドアは思わず尋ねかけていた。
「美しいお姉さん、どこか遠くに行ってしまうのか」
寂しそうな表情を浮かべるザガルドアを気の毒に思ったか。少しばかりの笑みを浮かべる。
「大切な用事があって、少しだけここを離れるわ。またすぐに逢えるわよ。それまで、決してさぼらずに稽古を続けるのよ」
女剣士はここに来た時から気づいていた。こちらの様子をじっと
文字どおり、同化していると言ってもいいだろう。恐らく、ここに住まう者でさえ部外者だとは気づかない。それほどまでの気配の消し方だった。その証拠に、ザガルドアも存在に気づかないでいる。
「坊や、私の指差す方を凝視しなさい」
女剣士から見て後方、ザガルドアからすれば左手前方のやや広めの空間、その左側に伸びる道端の一角だ。ザガルドアは言われたとおり、女剣士が示す方向に視線を走らせ、目を
最初は何も視えない。気づかない。およそ一メレビル
「
女剣士がザガルドアに一枚の金貨を手渡す。金貨と言っても、貨幣としての価値があるわけではない。
金貨の表面には見たこともない三種の
「表は分からないけど、裏は矢が三本だ。美しいお姉さん、これにはどんな意味が」
顔を上げた時には、女剣士の姿は
「ああ、またかよ。ほんと、いつも、いつもだよなあ。もっと話したいことが山ほどあるのに」
(俺が来るのを待っているのか。逃げようともしないな)
大気の揺らめきの前にザガルドアが立つ。不思議と恐怖心はなかった。敵意が一切感じられない。
(油断するな。これが何か分からないんだからな)
「これを渡せ、と言われた」
ザガルドアは手にしていた金貨を揺らぎの中へと下から投げ入れる。落下音がしない。どうやら、
「それから、こう言え、とのことだ。用心棒、ツクミナーロ」
いささかも反応が返ってこない。ザガルドアももとより期待はしていない。
「確かに伝えたからな。俺は戻る」
ザガルドアはすぐさま
大気の揺らめきが
(これを有するということは。なるほど、あの者がそうであったか。よかろう。私にとっては行き
再び大気が揺らめき、
「見事な腕前だな。そなたはヴォルトゥーノの剣技を操るのだな」
いつの間にやって来たのだろうか。崩れた
「おう、傷は完全に
満面の笑みで少年を迎え入れたザガルドアは、相手が貴族だろうとお構いなしに気さくに話しかける。この掃き溜めにおいて、身分など何の役に立つだろうか。まさに弱肉強食、弱者から死んでいく
「そ、そうか。私は」
すかさずザガルドアが口を差し挟む。
「違う。俺は、だ。私なんて使う奴は一人もいないぜ。貴族のお前には分からないだろうがな、ここでは汚い言葉ほど
ザガルドアにしては珍しく、
「そのうち慣れるさ。ところで、お前の言った、ヴォル、何だ、その変な名のついた剣技って」
少年が
「俺の剣は我流だ。まさかお前、ここで暮らす奴らに剣術道場に通えるだけの余力があるとでも思っているのか」
(私は本当に何も知らないのだな。このような場所が人の暮らすところだと言うのか。だが、この者は
「いや、我流も何も、先ほどの女剣士が見せた剣技は、紛れもなくヴォルトゥーノ流奥義の一つだぞ」
「どうでもいいことだな。あの美しいお姉さんは、単なる気紛れで教えてくれただけだ。俺にとって、剣は己の命を守る武器にすぎん。それよりも、お前のことを聞かせろよ」
ザガルドアが少年に近寄っていく。小声で
「場所を変えるぞ。聞き耳を立ててている奴らがいる。お前、まずいだろ。ついてこい」
入り組んだ
少年はあらゆるものが珍しく、新鮮に映るのだろう。
「着いたぞ。ここが俺たちの秘密基地だ。俺たちと言っても、俺以外には少年警護団の四人だけだがな」
ザガルドアによると、少年警護団と呼べる者は四人で、他にも十数人の
「こいつらに礼を言っておけよ。死を覚悟しながら、お前を大通りの治癒術師のところまで運びこんだんだからな」
ザガルドアが笑いながら真実の言葉を突きつける。少年にとって、それはあまりに予想外だったのだろう。少年警護団の四人を順に見回し、それから深々と頭を下げる。
「心より礼を申す。私の命が助かったのは、そなたたちがいてくれたからだ。これほど世話になったにもかかわらず、今の私には謝礼一つもできぬ。どうか許してほしい」
反応が全くない。当然だろう。四人にとっても、また予想外だったのだ。
耳慣れない言葉が少年の口をついて出てきたことで呆然と立ち尽くしている。一方のザガルドアは今にも笑い出しそうなところを必死に
「なあ、お前、その言葉遣い、何とかしろよ。ここで生きていくなら、今すぐ改めろ」
真っ先に正気に戻り、口を開いたのはシェルラだった。シェルラは常にザガルドアに最も近い位置に立つ。彼女にだけ許された距離感だ。
「先に紹介しておくぞ。シェルラだ。それから、そっちの男連中が右からダルタス、ベネレイド、ミルジェリオだ」
シェルラは表情一つ変えず、軽く頭を下げるのみだ。男三人は歯を見せながら陽気に笑いかけ、よろしくな、と言葉をかけていく。
少年も、こちらこそよろしく頼む、と
「お待ちかねの時間だ。さあ、お前のことを話せ。もちろん、言いたくないことは言わなくていい。だが、言葉には責任を持て。つまりは絶対に嘘をつくな。嘘をつけばすぐに分かるぞ」
少年はザガルドアの言葉に耳を
(こいつ、いい目をしてやがる。決して
それからおよそ一ハフブル、少年は
危険を承知のうえで身分まで明かしたのだ。それは
少年が話し終えても、誰一人として口を開こうとはしない。いや、できないと言った方が正しいだろう。ザガルドアたちにとってみれば、あまりに常軌を逸した事実だったからだ。
王宮内で、きな臭い話が出回っていることぐらいはザガルドアでも知っていた。その手の噂の大半はこの掃き溜めの地にも入ってくる。その時には尾ひれ背びれがついた、どこに真実があるかも分からない状態だ。
この少年、イプセミッシュと名乗った彼の言葉は、紛れもなくその中にいた当事者の言葉だ。疑う余地はなかった。
「とんでもない話だな。よし、今日を最期にイプセミッシュの名は捨てろ。そうだな。お前はファルディオだ。俺が弟のように可愛がっていた奴だった。死んだ奴の名はいやだったか」
イプセミッシュはただ黙したまま首を横に振る。
「イプセミッシュ、よく聞け。お前はもはや貴族でも何でもない。俺たちと同じ、ただの人だ。そして、今この時より俺たちは兄弟になった。お前の夢は俺たちが叶える。そして俺たちの夢はお前が叶える。何年かかるかなど分からない。ただ光を求め、力をつけていくだけだ」
こうして、イプセミッシュは大切な名前と身分を隠し、少年警護団の一人に加わった。ザガルドアが仮の名として可愛がっていた弟分の名を与えたのは、きっと真のファルディオが取り持った縁だったのだろう。
イプセミッシュがダルタス、ベネレイド、ミルジェリオの順で抱き合っていく。今まで味わったことのない、力強い兄弟の愛を感じつつ、思わず涙が
「悔しいだろう。哀しいだろう。泣きたい時は泣けばいい。ここにいる奴らは気持ちのいい連中だ。誰もお前を責めたりしない」
ザガルドアはそっぼを向いてしまっている。彼は他者が流す涙を見るのが好きではないのだ。
「今のその涙を決して忘れるな。そして、いつか必ず嬉し涙に変えるんだ」
三人と抱き合った後、シェルラのもとへ向かうも、そこはザガルドアが許さない。
「シェルラは駄目だぞ。俺の女だからな」
また始まったよ、とばかりにダルタス、ベネレイド、ミルジェリオの三人がイプセミッシュの肩を叩いてくる。
「握手では駄目か」
ここに入ってきた時からイプセミッシュは気づいていた。二人の関係が特別なものであることに。
(よいものだな。私にもいずれこのような女性が現れるのだろうか。それもこれもここで生き抜いて、王宮に戻れたらの話だな)
ザガルドアの了承をもって、シェルラと握手を交わし、最期にザガルドアと抱き合う。
「イプセミッシュ、強くなれ。俺たちも強くなる。俺たちはこの先、ずっと一緒だ」
イプセミッシュの瞳から止めどなく涙が流れ落ちていく。ザガルドアはその涙が収まるまで、決してイプセミッシュを離さなかった。
それから、およそ十年の歳月が流れた。
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