第318話:香術師の真の力

幻視香げんしこうと言います。心の中にある最も大切な人物が目の前に現れるのです。よかったですね、モレイネーメ」


 ジリニエイユの顔には、あからさまな嘲笑ちょうしょうが浮かんでいる。これから起こる惨劇さんげきをその目に焼きつけなさい、と言っているようなものだ。


 モレイネーメも、姉弟がどうなるのか、想像するまでもなく理解できた。


(ああ、ゼーランディア、ガドルヴロワ、何もしてあげられない無力な私を許して)


「他の六人は睡魔香すいまこうで倒れてしまうなど、役立たずもよいところです。あれでは、なりそこないセペプレにも到達しないでしょう。それに比べて、この二人はどこまでえられるのか。楽しみですね」


 目の前に立つのはクヌエリューゾだ。ゼーランディアとガドルヴロワには、彼の姿がモレイネーメに見えている。


 三種の香気は、霧に紛れて同時に放たれていた。鈍麻香どんまこうと睡魔香はあくまで、幻視香のためのおとりでもある。


 幻視香は吸い込んでから、その効力が発揮されるまでに相応の時間を要する。そして何よりの特徴がある。わずかながらに刺激臭しげきしゅうを発するのだ。


 香術師こうじゅつしと一度でも戦ったことがある実力者なら、最大限警戒すべき香気の一つだと知っている。残念ながら、傭兵ようへいにすぎないゼーランディアとガドルヴロワにその機会は与えられなかった。


 そして、これからクヌエリューゾが用いようとしている香気もその一つに含まれる。


 姉弟にはクヌエリューゾの言葉も、モレイネーメが話しているがごとく脳内で変換されている。幻視香にとらわれてしまったが最後、効力が切れるまで決してけない。


「残念だわ。せっかくお前たちと遊べると思っていたのに。どうやら、次で終わりみたいね」


 モレイネーメの言葉の意味が理解できない姉弟は困惑しきりだ。


 次第に幻視香の威力が増していく。


 理性ではモレイネーメではないと思っているゼーランディアだ。その意識が混濁こんだくし始めていた。


 ガドルヴロワは既に術中じゅっちゅう、モレイネーメだと信じて疑っていない。ゆえに攻撃態勢にさえ入っていない。もはや、クヌエリューゾの思うつぼだった。


「お前たちには幻滅げんめつしたわ。もういいわ。ここで私の手にかかって死になさい」


 クヌエリューゾがいつものごとく、切り札の一枚を切ろうとする。そこにすかさず魔力感応フォドゥアが来た。


≪クヌエリューゾ、それを使うことは許さぬ。その者たちの肉体を一切損壊そんかいさせず、我が前に連れてくるのだ≫


 攻撃が来る。そう思った瞬間、突然のことクヌエリューゾがひざまずく。ゼーランディアもガドルヴロワも最大の機会を逃してしまったことに気づかない。


≪我が神ジリニエイユ様、おおせのままに。この者たちに試してみたい香があります。お許しいただけますでしょうか≫


 恍惚こうこつとした表情を浮かべながら虚空こくうを見上げるクヌエリューゾ、二人にはモレイネーメだ、を呆然ぼうぜんと眺めるしかできない。


「お母さん、どうしてしまったの。それに、私たちに死になさいって」


 意味が分からないとばかりに悲しげに見つめてくるゼーランディア、ガドルヴロワも同じだ。いや、それ以上に動揺が激しい。


「母さん、うそだよね。私たちを殺すなんて、冗談じょうだんでも笑えないよ。確かに、私たちは母さんの反対を押し切って傭兵稼業かぎょうに就いた。それをうらんで、このような」


 普段のガドルヴロワであれば、決してこのような考えには至らなかっただろう。既に幻視香が全身隅々にまで行き渡り、彼をむしばんでいる。もはや、正常な思考はできないのだ。


≪言ったとおりだ。それさえ達せられるなら、いかようにでもするがよい≫


 神の言葉をその身に浴び、クヌエリューゾは額を大地にこすりつけんばかりに平身低頭だ。


「我が神からのお許しを頂戴いたしました。これを生者せいじゃに使うのは初めてです。どのような症状しょうじょうが現れるのか。とくと楽しみにしていますよ」


 今度はクヌエリューゾの左手が静かに動く。姉弟の目に映っているのは、モレイネーメが唇をふるわせ、魔術詠唱を始めた姿だ。


「お母さん、めて。どうしてなの。私たちが間違っているならあやまるから」


 ゼーランディアの悲痛な叫びは通じない。


 当然のことだろう。何しろ、相手はクヌエリューゾなのだ。今のクヌエリューゾは新しい香気を試したい、その一心で嬉々ききとして術に入っている。


「お二人がどこまで耐えられるのか、見せてください」


 クヌエリューゾの言葉は、モレイネーメの言葉として変換され、二人に伝わる。


「お前たちはどこまで持ちこたえられるかしらね。ふせいでみなさい」


 映し出された映像を前に、モレイネーメには絶望しか残されていない。最後の気力を何とか振りしぼり、言葉をつむぎ出す。


「やめて、お願い、やめて。あの二人を殺さないで。貴男の言うとおりにするから」


 さすがにこれにはジリニエイユも驚いたか、感嘆かんたんの表情で見つめてくる。


「意思の力ですか。泣けてきますね。それほどまでに、あの二人がいとしいのですか。貴女の実の子供ではありません。死んだところで、痛くもかゆくもないでしょう」


 ジリニエイユは理解不能だとばかりに首を横に振る。そして、とどめとなる言葉を口にする。


「残念ですが、貴女のご期待にはえません。あの二人は実験体なのですから」


 容赦ようしゃのない残酷さでジリニエイユがりこんでくる。


 魔霊鬼ペリノデュエズ化を促進そくしんするためにも、強い精神力は邪魔でしかない。それを取り払うには、心の揺さぶりが最も効果的だと分かっているのだ。


「そこでよく見ているのです。愛する者の手にかかって、死にゆく子供たちの姿をね。どうです。私は慈悲じひ深いでしょう」


 えつるジリニエイユに対して、モレイネーメは冷静でいられない。それが彼の策略だと分かっていながら、おさえきれなかった。められなかった。


「どこに、どこに、慈悲があるというの。ふざけないで。人を実験体とみなすお前に、親子の愛情など分かるはずもない」


 空気が一瞬にして変わった。ジリニエイユを包む魔力とともに、その肩がふるえている。初めて見せる感情は憤怒ふんぬか、それとも悲哀ひあいか。モレイネーメには、いずれにも感じられた。


「お前のような小娘ごときに何が分かる。最愛の者たちを何もできず、目の前で奪われていった。この私と同列で語るなど笑止千万」


 き上がった異様なまでによどんだ魔力が、周囲の物をことごとく破壊していく。余波よはをまともに食らったモレイネーメは、かろうじて立っているだけが精一杯だ。


(何なの、このジリニエイユという男は。全く理解できない)


 最愛の者を殺されたくやしさや悲しさが伝わってくる。一方で自身がまさに同様のことをしているのだ。それは同列であり、言動があまりに矛盾むじゅんしている。


 明らかに苛立いらだっている。魔力の発散によって、執務室のほぼ全てが次々と破壊されていった。ジリニエイユの視線は目まぐるしく動き、なおも獲物えものを追い求めてるかのようでもある。


≪クヌエリューゾ、何をもたついている。私は忙しい。悠長ゆうちょうに時間をかけている暇などないのだぞ≫


 怒りは衝撃波と化し、遠く離れたクヌエリューゾにまで襲いかかっていった。


 神の憤怒ふんぬをその身に浴び、クヌエリューゾはまさしく額を大地にこすりつけ、平身低頭の姿勢を取った。


「我が神がお怒りです。お二人につき合う時間がなくなりました。残念ですが、ここまでです。もうよいでしょう。終わりにします」


 クヌエリューゾは左腕をかかげ、わずかに静止させた後、残酷なまでにゆっくりと振り下ろした。


 視界でも嗅覚きゅうかくでもとらえられない香気が瞬時に散開する。自然の流れにゆだねて放った一度目とは異なる。


 高位の香術師がしんに恐れられる理由は、多種多様な香を自在に操る能力に加え、魔術を上乗せすることにある。


 香気は種類によって色もあれば、においもある。特殊な効能を生み出す香になればなるほど、とりわけ臭いはけようがない。


 クヌエリューゾが必殺の際に用いる絶対的な香に、即死香そくしこうと呼ばれるものがある。文字どおり、鼻や口から吸い込むだけでなく、肌に付着もしくは吸収された時点でただちに死に至る。


 それほどまでに強烈な威力を誇る即死香唯一ゆいいつの弱点が、非常に甘いみつのごとき臭いであり、香術師にとっても諸刃もろはつるぎ的な香なのだ。


 その弱点を魔術を用いることで消し去ってしまう。だからこその数少ない高位香術師であり、その一人こそがクヌエリューゾだった。


 そして、クヌエリューゾが二度にわたって用いていたのが、即死香を改良した毒葬香どくそうこう命名めいめいしたものだ。


「一度目の香で既に動けなくなっているでしょう。我が神のご命令どおり、お二人の見かけの肉体は一切損壊そんかいしません。ただし、呼吸器こきゅうきだけは別ですよ。苦しいでしょうね」


 即死香が苦痛を感じる間もなく、一瞬で死に至らしめる香に対し、毒葬香は呼吸器のみを毒で浸食、長時間にわたって苦痛を与え続ける。その挙げ句、最後に命を奪うという非人道的な香だ。


 姉弟の周囲は、もはや毒葬香によって満たされている。逃げ場などどこにもない。もがき苦しみ出している姉弟の姿を、クヌエリューゾは愉悦ゆえつひたりながら眺めている。


「母さん、どうして、どうして」


 ガドルヴロワがのどきむしりながら、声にならない苦悶くもんの声を上げている。


 ゼーランディアも毒におかされ、行使した風の精霊の制御を失ってしまっていた。風で身をまもることさえできない。姉弟の命運は尽きようとしていた。


「お母さん、苦しい、助けて、お母さん」


 ゼーランディアとガドルヴロワ、二人のかすんでいく瞳に映るモレイネーメは悪鬼あっきと化している。聞く耳など持たない。


 詠唱の成就じょうじゅ、さらにき放たれる魔術は、姉弟への死の宣告だ。


 姉弟が耳にした最後の言葉は、奇しくもクヌエリューゾのそれと同じだった。


「死ね」

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