第308話:解放の時、ここに来たり

 あれから、いかほどの時が流れただろうか。


 この空間に封じられて以来、時間の感覚が全くない。どこを向いても漆黒しっこくの闇しかない。視界はおろか、他の感覚も鈍感になっている。


 当然のごとく、魔力も練りこめない。体内を循環する魔力をかろうじて感じ取れるのみだ。


(既にアーケゲドーラ大渓谷での最終決戦が始まっていることでしょう。皆は無事でしょうか)


 不安な気持ちを隠せない中、待ちに待ったものがようやく訪れる。


 完璧に隔絶かくぜつされた空間内には、外部からも内部からも干渉不可能だ。超越できる者など、この界に一人しか存在しない。


≪待たせたな、エレニディール≫


 安堵あんどすると共に、まずは状況がどうなっているか、最も知りたかったことを尋ねる。


≪高度二千メルク付近から谷底までを戦場とした序盤の複数の戦いが終わりつつある。幸いなことに誰一人欠けてはおらぬ。今のところはな≫


 欠けてはいない。言葉が意味するところは、死者がいないということだ。


 魔霊鬼ペリノデュエズ、それも中位シャウラダーブ以上、高位ルデラリズとの厳しい戦いになっていることなど容易に想像がつく。負傷者は多数いるだろう。


 そこに加われない己自身が腹立たしく、また賢者として胸が痛む。


≪そなたの意思を聞こう≫


 一刻も早く皆のところへ、戦場へ戻りたい。その一方で、どうしても気がかりなこともある。


逡巡しゅんじゅんしているな≫


 指摘されたエレニディールは心の内を素直に吐露とろする。


≪迷いは必ずすきを生み出してしまいます。そのような時は動くべきではないのでしょう。心ははやるばかりですが≫


 当代賢者の中ではエルフゆえに最年長、経験も豊富だ。実力に文句をつける者もいないだろう。それでも先代との比較は避けようがなく、彼らの域にはまだまだ遠い。忸怩じくじたる思いをめる。


≪先代賢者であり、我が師でもあるビュルクヴィストなら、どのように行動したでしょうね≫


 レスティーの言葉に迷いは一切ない。


≪ビュルクヴィストとそなたは違う。経験も知識も、魔術師としての力量もだ。だが、ビュルクヴィストも人だ。その判断の全てが必ずしも正しいとは限らぬ。間違うのもまた人であろう≫


 エレニディールはレスティーを旧友のように見ている。そうは言っても、出会ってからの歳月としつきはたかが知れている。レスティーの全てを知っているなど、口が裂けても言えない。


 そんな中で、ただ一つ正確に理解していることがある。レスティーは明確な答えを決して与えてくれない。彼ほどの存在ともなれば、それぞれの者にとっての最適解を容易たやすく用意できる。


 レスティーは決してそれをしない。よしともしない。かねてより公言しているとおり、彼は主物質界の守護者でも何でもなく、大局から俯瞰ふかんする傍観者ぼうかんしゃの一人にすぎない。


 もっと乱暴に言うなら、主物質界が滅ぼうと、それが人の手による限り、気にもめないに違いない。


 エレニディールはレスティーをいささかも薄情はくじょうとは思わない。力ある者の力の振るい方というものを、彼の行動から学んできているからだ。


 ビュルクヴィストもまた同じだ。ビュルクヴィストはレスティーを見て、そしてエレニディールは師でもあるビュルクヴィスト、さらにはレスティーを見て成長してきた。誤解を招きかねないレスティーの側に立てる希少きしょうな存在でもある。


≪間違った時にどういった行動を起こせるか。その行動によって、どのような結果を導くのか。強き者は正しき者でなければならぬ。そなたの思うがままにするがよい≫


 意地の悪い問いだと分かっている。エレニディールはあえてそれを口にする。


≪もしも私が間違った時は、レスティー、貴男が私を≫


 言葉をさえぎる形でレスティーの言葉が返ってくる。


≪その時の尻拭しりぬぐいは、そうだな、ビュルクヴィストがするであろう。そなたを解き放つために、左肘下ひだりひじしたを犠牲にしながらも、オペキュリナの託宣たくせんを奪ったのだからな≫


 あまりの驚愕きょうがくの事実にエレニディールは言葉を失う。あのビュルクヴィストが不覚を取るなど信じたくもない。


 ビュルクヴィストから詳細は聞かされていない。かつてジリニエイユと一度だけ対峙たいじしたことがあり、その際はルシィーエットの灼火重層獄炎ラガンデアハヴであと一歩のところまで追い詰めていた。


 とどめを刺すまでとはいかず、それからも彼の痕跡こんせきを探し続けたものの、結局は見つけ出さないまま今の状況へと至っている。


≪そなたの弟子になるか。ヴェレージャを救うため位相いそう反転を行使、並行して凍結界とうけっかいを発動したものの、わずかに間に合わなかった≫


 ビュルクヴィストはそういう男だ。だからこそ、エレニディールは師として、また一人の人として尊敬してやまないのだ。


≪私がクヌエリューゾの姦計かんけいはまったために。ビュルクヴィストにどうやって謝罪すれば≫


 その言葉にこそエレニディールの間違いの本質がある。あの時、あの場所でエレニディールは気づけなかった。身体こそクヌエリューゾそのものだった。真の姿は魔力重層化によるジリニエイユの化身であったことにだ。


≪魔力重層化による化身に気づけなかったそなたの落ち度だ。あの男こそが、ジリニエイユだったのだ≫


 先ほどとは比較できないほどの驚愕、そして己に対する失望がエレニディールを襲う。


≪落ち込んでいる時間はない。エレニディール、決断せよ。望むなら、私が今すぐき放とう。ビュルクヴィストを待つというのであれば、それでも構わぬ≫


 どちらに、より気を奪われているか。それによっておのずと答えは決まる。


 レスティーの言葉を反芻はんすうする。


 間違うのが人だという。そして、間違った時にどのような行動を起こせるか、その結果がその者の価値を示すのだ。


 決して己を強者だとは思っていない。もちろん、賢者としての矜持きょうじを忘れたことはない。常に正しき道を歩めると断言できるほどにおごってもいない。今の己にできる最善の選択をするしかない。


≪これは私にしかできないことです。レスティー、よろしくお願いいたします≫


 深々と頭を下げてくるエレニディールの決意は固い。揺らぎは感じられない。


≪そなたの決断を尊重しよう。行くがよい≫


 すさまじいまでの圧倒的な魔力がエレニディールの全身を覆い尽くしていく。


≪これは≫


 レスティーの力に驚いていても仕方がない。それでも、これには目を疑うしかなかった。エレニディールを包む魔力は八色の光の輝きを放っている。


根元色パラセヌエ、よろしいのですか。このような力を私に与えても≫


 主物質界の人には決して扱えない力だ。ビュルクヴィストでさえ、時空の王笏ゼペテポーラスを介さなければ行使できない。しかも、その力は根元色パラセヌエのごく片鱗へんりんでしかない。


≪構わぬ。私が認めている。それに根元色パラセヌエでなければ、界渡りモルセヴェランはできぬ≫


 根元色パラセヌエによって満たされた空間、すなわちオペキュリナの託宣による黒き檻は無数の亀裂きれつきざまれ、音もなく消滅していく。


 八色の光はなおもエレニディールを包んだまま、ゆっくりと身体を持ち上げていく。


≪エレニディール、既には落ち、天頂には三連月が輝いている。まもなく皆既月食かいきげっしょくへと移行する。それまでに戻るのだ≫


 レスティーの言葉を受け、エレニディールが力強く頷く。


≪Sirallet, yuhdi staivuyäj rimyg maazjoilhim.≫


 レスティーの唱える言霊ことだまが脳裏に響く。全く理解できない言葉だ。師同様に知識欲の塊たるエレニディールも、この状況下で教えをうわけにはいかない。それだけの節度せつどはあるつもりだ。だから、これだけでませる。


≪レスティー、無事に戻ったら、今の言霊をぜひご教授ください≫


 苦笑を浮かべるレスティーの姿が明瞭に浮かんでいる。


≪全ての使命をげたなら、褒美ほうびに教えてやろう≫


 破顔一笑はがんいっしょう、エレニディールの姿は次の瞬間、跡形あとかたもなく消え去っていた。


≪やはり、こちらの道を選んだか。エレニディールらしいと言えばらしいが≫


 柔らかく、それでいて美しい声が反応を返してくる。レスティーの左腕にしなれかかっているフィアだ。


≪私の愛しのレスティーは、あのエルフをこの界に残した方がよかったと考えていたの≫


 フィアにとって、エレニディールがどこに行こうとも、重要な問題ではない。珍しくレスティーに迷いが見られるからこそ尋ねただけなのだ。


≪そうだな。あの娘のもとへは私とフィアで行く方がよかったのだろう。こちらに残した戦力を見ても≫


 レスティーはあくまでもエレニディールの意思を尊重した。エレニディールは主物質界で生きる者であり、守護すべき立場、賢者の地位に立つ者だ。


 根元色パラセヌエの力を行使してまで、危険極まりない界渡りモルセヴェランをさせるべきではなかったかもしれない。


≪今さら言ったところで詮無せんなきことだ。行くと決めたエレニディールに託すしかあるまい≫


 フィアがレスティーの肩に頭を乗せて、歌うようにささやく。


≪きっと大丈夫よ。なぜって、私の愛しのレスティーが信じているから≫


 レスティーは黙したまま、ただ優しくフィアの頭をでるだけだった。

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