第285話:二人の駆け引き 後編

 オントワーヌもジリニエイユに負けずおとらず、狡猾こうかつに物事を進めている。


 相手の話術にまれたら負けは必定ひつじょう、双方ともに理解している。常に主導権を握っておかなければならない。


 そのためには、口からつむぐ言葉の一つ一つに細心の注意を払う必要がある。そして、最終的に勝敗を決めるのは、いかなる切り札を有しているかだ。


「私の過去など、他愛たわいもないことばかりですよ。それでも、オントワーヌ殿は知りたいのでしょうか。面白い話など、何一つありません」


 口調から分かる。平然としているようで、この話題から無意識のうちに遠ざけようとしている。触れられたくない部分があるのだろう。


 オントワーヌはつかんだ尻尾しっぽの先を決してのがさない。ここぞとばかりにたたみかけていく。


「そうですね。ここにはシュリシェヒリの皆さんもそろっています。ぜひとも彼らの前で語ってもらいたいものです」


 しばしの沈黙、ジリニエイユが明らかに思案しあんしている。


 最高位キルゲテュールを取り込んだ今、人としての心は捨てたも同然の状態だ。編み出した秘術によって最高位キルゲテュールの浸食はこばんでいるものの、姿形はもちろん、思考や感情までもが人として完全に崩壊している。


 同胞であろうと、賢者であろうと殺すことにいささかの躊躇ためらいもない。もともと、そのつもりでいるのだ。時期が早まるかどうかの差でしかない。


 今のジリニエイユの力をもってすれば、相手が誰であろうと負ける気はしない。先代賢者であろうとも、所詮しょせんは人の域を越えられない。容易たやすひねつぶせるだろう。


「ジリニエイユ殿、言うなればここまでは序章にすぎません。本当の戦いは、まさにこれからです」


 天を指差すオントワーヌの意味するところを誰もが理解している。当然、ジリニエイユも同じだ。彼の狙いの一つがそこにある。


 藍碧月スフィーリア紅緋月レスカレオ槐黄月ルプレイユの三連月は各々が高度を変えながら、刻一刻と直列に向かって進んでいる。


「その幕を貴男と私の戦いをもって開けてもよいのですよ」


 オントワーヌの言葉に刺激されたか。ジリニエイユの中にいる最高位キルゲテュール獰猛どうもう殺戮さつりく衝動が鎌首かまくびをもたげている。


 それをも見越していたか、本能が制御を上回る前にオントワーヌは動いた。


「私が真っ先に何をすると思いますか」


 パレデュカルを封じている白い箱を右手のひらの上にせ、ているであろうジリニエイユに示す。


「私が一言となえれば、この箱はある御方おかたのもとへと即時転送されます。貴男の力をもってしても、決して止められませんよ」


 あれほどまでに高まっていた最高位キルゲテュールの殺戮衝動が瞬時に収まる。ジリニエイユが強制的に抑止よくししたのだ。


「それは私も困りますね。オントワーヌ殿、どうかその白い箱を私にさずけてはもらえないでしょうか」


 ジリニエイユから感じられる口調は平静そのものだ。大きな抑揚よくようもなく、感情の揺れもない。オントワーヌは顔色一つ変えず、淡々と言葉を返していく。


「ええ、構いませんよ」


 キィリイェーロを筆頭に、誰もが愕然がくぜんとした顔を向けてくる。オントワーヌは彼らに向かって鷹揚おうよううなづくのみだ。


 それから一呼吸、ジリニエイユに口をはさませるときを与えず、即座に言葉をぐ。


「ただし、条件があります」


 まぎれもなくけ引きだ。ジリニエイユもオントワーヌも交渉成立の確率は限りなく低いと考えている。


「条件、ですか。私がかなえられる内容であればよいのですが。まずは聞かせてもらいましょうか」


 叶えられない条件などないだろう。そもそも、聞いたところでジリニエイユにはむ気など一切ない。本心は力づくでも奪い取る、なのだ。


「何、簡単なことですよ。貴男がフィヌソワロの里で封印して連れ去ったものを返してほしいのですよ。それと引き換えなら喜んで」


 即答で返ってくる。


「それは無理というものですね。あれは私にとって必要不可欠なものです。おめおめと渡すわけにはいきません」


 分かっていたことだ。交渉は決裂した。


 これにより、白い箱に封印されたパレデュカルはオントワーヌのもとに、黒きおりに封印されたエレニディールはなおもジリニエイユのもとにとどまることとなる。


「残念ですね。仕方がありません。この白い箱は」


 右手のひらの上の白い箱がオントワーヌの魔力で包まれていく。ジリニエイユでさえ動く余裕はなかった。


 "Perrva-sdiynus."


 オントワーヌの言霊ことだまを受け、白い箱を包む魔力が一際ひときわ強烈な輝きを発する。


 きらめきは刹那せつ、白い箱は眼前から消え去っていた。


「してやられましたね。やはり貴男はまごうことなき強敵です。これ以上は無駄な時間を過ごすだけ、今は退くとしましょう」


 すぐさま気配をつかと思いきや、言葉を出しあぐねているのか、ジリニエイユはこちらに向けている意識を手放さない。


愚弟ぐていキィリイェーロよ、何とも無様ぶざまだな。たかだが秘匿ひとく魔術ごときでそのていたらくとは。代々の長老の中でも最弱ではあるまいか。誠に情けない限りだ」


 オントワーヌに対する口調とは全く異なる。そこには憐憫れんびんの情など皆無、あるのは侮蔑ぶべつのみだ。


「そこの愚弟同様、お前たちはオントワーヌ殿に救われただけだ。一時的にな。次はない。すみやかに残忍極まる死を与えてくれようぞ」


 冷酷無比にき捨てる。同時にジリニエイユの意識も途絶えた。


(完全に離れましたね。それにしても、あの感情だけは残されているのですね)


「さて、これでこの場も安全です。と言っても、残念ながら戦いはいささかも待ってくれません。皆さんはできうる限り回復に務め、早急さっきゅうに次なる行動に移ってください」


 疲弊ひへいしきっているシュリシェヒリの者たちを見渡し、オントワーヌがいたわりの声をかける。


「オントワーヌ様、我らのためにご尽力じんりょくいただき有り難うございました」


 頭を下げてくるトゥルデューロとプルシェヴィアにうなづきをもって返す。


「それで、あの白い箱は、いったい」


 聞いてよいものかと思いつつ、聞かずにはいられない。


「急ぎ行かなければならない場所があります。その話はまた後ほどに」


 告げるなり、オントワーヌの姿は失せていた。この地に来た時と同様、魔術の兆候ちょうこうさえ一切感じられなかった。それほどまでに圧倒的実力差があるということだ。


「俺たちなど本当にまだまだだな。あまりに非力すぎる。パレデュカル一人相手にこのざまだ。もっと力をつけなければ」


 くやしさをひじませるトゥルデューロの言葉に、プルシェヴィアは無言を貫いている。彼女の意識は常にラナージットにそそがれている。


 確かに、この戦いは完全にシュリシェヒリの敗北だった。オントワーヌがいなければ全滅必至ひっしだった。誰もが認めざるをない、覆らない結果だ。


 その中で唯一の光明こうみょうと言えば、いとしい娘ラナージットがようやく戻ってきてくれたことだ。母としては、もうそれだけで十分すぎる。


 プルシェヴィアはラナージットを抱き締めながら、この一時ひとときだけは幸せをみ締めていた。

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