第274話:最強との戦い

 今や邪気じゃきはパレデュカルの制御から完全に離れてしまっている。


 オントワーヌの言霊ことだまがもたらす力は邪気そのものを弱体化し、さらに漆黒の箱にまで及ぼうとしている。


「与えられし力、ここに平衡へいこうと調和の名のもと

 開きたるは閉じ、閉じたるは開き、あるべき姿へと立ち戻らん

 常世とこよ幽世かくりよ狭間はざまにて天秤に置かれたるもの

 正しき真なる界に渡りて具現ぐげんさん」


 先ほどとは異なる言霊がつむぎ出される。指が羊皮紙ようひし上をすべたびに漆黒のもやが色を失い、大気に溶け込むがごとく消えていく。


「あり得ん。ジリニエイユのあの力は、もとを正せばゾンゴゾラムの託宣たくせんの一冊だぞ。それを封じ、あまつさえ改変してしまうなど」


 ジリニエイユが真に恐ろしいのはその知識量、それをかす頭脳だ。


 クヌエリューゾの姿を借りたジリニエイユがフィヌソワロの里でエレニディールを封じ、ビュルクヴィストの左ひじから先を砂に変えた力こそ、古の魔術師ゾンゴゾラムが書きしるした七冊の内の一冊、オペキュリナの託宣だった。


 ここにもう一冊の禁書が加わる。モルヴフェルミの託宣という。


 この託宣にはしき力、よこしまなる力を自らの内に取り込み、制御し、それをもって他者を意のままに堕落だらくさせる啓示けいじしるされている。


 強制魔霊鬼ペリノデュエズ化、核の埋め込みによって創り出された魔麗人ペレヴィリディスは文字どおり、この託宣あってこそ成り立っているのだ。


「ゾンゴゾラムが記した七冊の託宣は最高重要機密に指定された禁書です。本来、シャヴァランシュ大禁書庫にて多層魔術封印をほどされているはずなのです」


 そこまでして厳重保管された禁書が、何故なにゆえにジリニエイユの手元に存在するのか。七冊全てがジリニエイユによって持ち出されたかいなか。否と答える方が難しいだろう。


 オントワーヌに与えられた使命の一つ目がシャヴァランシュ大禁書庫に立ち寄り、七冊の禁書の状態を確認することだった。


 先代三賢者の名前は伊達だてではない。すぐさま大禁書庫最終責任者たる金書庫長立ち合いのもと、五重に施された魔術錠が解除された。


 結果は予想どおりだった。ものの見事に禁書保管書庫内は空だった。まさしく伽藍洞がらんどう、一冊ごとに施された最終封印までかれ、全て持ち去られていたのだ。


 悪趣味ではあるものの、何事があっても顔色一つ変えない金書庫長が瞬時にして顔面蒼白となったのはかなりの見ものだった。


 ただちに厳重警戒警報が鳴り響いたものの、全く意味はさない。オントワーヌの目で視たところ、魔術痕跡こんせきは無論のこと、残滓ざんしさえ消え去っている。推察するに持ち出されて既に数年が経過している。


 すがるような目を向けてくる金書庫長に対して、オントワーヌは黙って首を数回横に振るしかできなかった。思わず深いため息が出てしまう。


 事実だけを確認したオントワーヌは、早々にシャヴァランシュ大禁書庫を後にして、次なる目的地に飛ぶのだった。


「誰にも気づかれず持ち出したその手口、鮮やかとしか言いようがありません。ジリニエイユのもとに七冊の禁書がそろっているなら、こちらも相応の備えが必要となります」


 オントワーヌの指が羊皮紙上で静かに止まった。パレデュカルのかかげた左手のひら、そのはるか上、制御を失って不安定な状態で浮かぶ箱は鮮やかな白で塗り替えられている。


るべき姿へとかえらん」


 立方体の表面に亀裂きれつ縦横無尽じゅうおうむじんに走る。全ての亀裂が一点に集約、立方体を形成する六面が分離、音もなくがれ落ちていった。


 箱の内部より靄がき立つ。黒ではない。白に彩られている。


 靄の中、おぼろげに人影が見える。二つだ。靄が風に流され、視界が徐々に戻ってくる。


「プルシェヴィア、長老」


 トゥルデューロの歓喜に満ちた声が響く。名前を呼ばれた二人は、置かれた状況がうまくみ込めないのか、いささか呆然ぼうぜんとしたままだ。このままではパレデュカルの攻撃を受けかねない。咄嗟とっさにトゥルデューロは彼に視線を転じた。


 パレデュカルもまた同様の状況だった。左手を掲げたまま固まってしまっている。唖然あぜんとした表情が意味するところ明白だ。目の前で起きたことがいまだに信じられないのだ。


 封印した漆黒の箱は、モルヴフェルミの託宣に記された特定の言霊でしか解封できない。ジリニエイユからもそのように聞かされている。解封されるはずのない箱が開き、二人が解放されている。


 パレデュカルにしてみれば、あり得ない光景を眼前に突きつけられているのだ。


「オントワーヌ、お前が手にする、それは何なんだ」


 怒りに満ちあふれたパレデュカルの叫び声に、キィリイェーロもプルシェヴィアも我に返ったか、まずは揃ってパレデュカルに目を向け、そこからトゥルデューロの前に立つオントワーヌへと移す。


 キィリイェーロはトゥルデューロ同様、ラディック王国での会議時に顔合わせを終えている。一方のプルシェヴィアは初対面となる。


「急げ、プルシェヴィア」


 その声で二人はすぐさまトゥルデューロのそばに戻るべくけ出した。


 パレデュカルからの攻撃は来なかった。オントワーヌがにらみをかせていたこともある。それ以前の問題として、パレデュカルの心境に変化が生じている最中さなかだったからだ。


(ビュルクヴィストにも、ルシィーエットにも感じなかった怖ろしさを持つ男、そしてこの俺が先代三賢者最強と目した男、してやられたな。今ここで戦ってみたい)


 優れた魔術師としての矜持きょうじだろうか。それとも、強者を求める戦闘狂としての生き様だろうか。


 パレデュカルの胸中にあるのは、ただただ純粋に強者と戦ってみたい、その想いだけだった。己では気づかないうちに、頭の中の、心の中の靄が少しずつ晴れていく。


 人質を取るなど卑怯ひきょうな手法は論外だ。駆け引きなしで、己よりも明らかに力量が勝る者と戦ってこそ、血き肉おどるというものだろう。


「先代ルプレイユの賢者に敬意を表して」


 パレデュカルが取った動作、それはエルフ属における最敬礼だった。意外な一面を垣間かいま見たオントワーヌは、興味深げに彼の心の中を見つめている。


(面白いですね。心にかかった霧が晴れようとしています。心境の変化があったということですね)


「一対一での魔術戦を所望しょもうする。どうか受けてもらいたい、オントワーヌ」


 オントワーヌに断る理由はない。魔術高等院ステルヴィアでは一度も果たせなかった手合わせだ。およそ三百年の時をて、ようやく果たせるこの機会を逃す手はない。


「喜んで受けましょう。条件は」


 最後まで告げる前に即座に答えが来た。


「なくて結構だ。俺の全力をもってしても、お前に通じるかは分からん。小細工などしたところで意味はない」


 キィリイェーロとトゥルデューロは驚きの表情をもってパレデュカルを凝視している。プルシェヴィアには表情の変化が見られない。


 男と女で観察眼は異なる。姉ミジェラヴィアの傍でパレデュカルを見てきたのだ。だからこそ、パレデュカルがミジェラヴィアに強い好意を抱いていることを即座に見抜くこともできた。


 そして、姉の死がサリエシェルナを奪われたのと同様、彼の心に想像を絶するほどの深い傷を刻み込んだことも理解していた。


(ダナドゥーファ、貴男は本当は優しい人なの。長年にわたって娘を探し続け、救い出してくれたことからも分かるわ。そうでなければ、ミジェラヴィア姉さんが好きになるはずがないもの)


 プルシェヴィアは切に願っている。パレデュカルがかつてのダナドゥーファに戻ってくれることを。


「随分といざぎよいのですね。覚悟のうえということですか。よいでしょう。貴男の魔術、存分に見せてもらいますよ」


 オントワーヌは身構えもせず、両腕をらしたままの姿勢を維持している。


 目だけで告げた。先手は譲りますよ、と。パレデュカルがうなづきをもってこたえる。


「よろしかったのですか、オントワーヌ殿。我らエルフ属、しかもシュリシェヒリの問題に貴殿を巻き込んでしまって」


 本心から申し訳なく思っているのだろう。シュリシェヒリのエルフのみでジリニエイユをち滅ぼす。キィリイェーロ自身が啖呵たんかを切ったのだ。その手前、他属の手を借りることに忸怩じくじたる思いをいだくのは当然だ。


「キィリイェーロ殿、お気になさらず。彼とは以前から手合わせをしてみたいと思っていたのですよ。それに、右脚のこともあります」


 言わんとしているところを即座に理解する。右脚だ。ジリニエイユとの戦いで異界の黒焔こくえん顎門あぎとを召喚、その代償として食われた。


 完全に機能を失った右脚がどうして動いているのか。シュリシェヒリの目をもってすれば一目瞭然いちもくりょうぜんだった。


「彼の意思か、それとも。いずれにせよ、きゅうえる必要がありますね」


 キィリイェーロが頭を下げている姿を興味深く眺めるパレデュカルが詠唱の準備に入る。


(先手を譲ってくれるとは余裕だな。その余裕がどこまで本物なのか。試してやる)


 楽しんでいる自分がいる。初撃で行使する魔術は決まっている。幸か不幸か、得意とする魔術はオントワーヌのそれとほぼ同じだ。なおさら、あれこれと考える必要もない。全力をぶつけるのみだ。


 パレデュカルは静かに瞳を閉じる。この時、頭と心から一切の邪念が消え去っていた。精神を深く集中していく。


 瞳が開く。そして詠唱に入った。

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