第265話:漆黒の魔術陣の脅威

 パレデュカルの右手が虚空こくうに走る。えがくは闇の魔術陣だ。


 漆黒にいろどられた軌跡きせきが右手の動きに呼応し、魔術陣を飾る複雑な紋様もんようを生み出していく。


 プルシェヴィアがいなくなった今、魔術の行使に支障はない。眠りに落とされることもない。


「まさか、あの魔術陣は。パレデュカル、お前、本気なのか」


 無言のままパレデュカルは右手を動かし続ける。着々と構築されていく魔術陣を前にして、トゥルデューロのうめき声だけが周囲をざわつかせる。


「今すぐ防御結界を張るんだ。全員だ。急げ」


 焦燥しょうそう感にられながらも、冷静に指示を飛ばす。長老キィリイェーロとプルシェヴィアがいない中、全体の指揮権を取れるのはトゥルデューロのみだ。


 戦闘経験がほとんどない補佐役の二人にはあまりに荷が重すぎる。それでなくとも、パレデュカルの魔術陣を目の当たりにしてまれている。つい先ほど、魔霊鬼ペリノデュエズほふった時の威勢いせいのよさも全く感じられない。


「防御結界が張れない者は魔力供給に全力を注げ」


 既に幾人かの者がトゥルデューロの言葉を待つまでもなく詠唱に入っている。防御結界の展開と同時、魔術行使者へ魔力供給を行うためだ。


(トゥルデューロ、俺の魔術陣を解析したか。さすがに昔から目だけはすぐれているな)


 パレデュカルは魔術陣を構築しながら、トゥルデューロの一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくを注視している。的確な指示を出し続けるトゥルデューロは、パレデュカルが思っている以上に困難を極めている。


 パレデュカルは虚空に魔術陣を描き出しているのだ。すなわち、直上から魔術陣に内包された力が降りそそぐことになる。そして、その力こそが問題なのだ。


「奴の魔術陣は闇の力、絶対に触れさすな。触れたが最後、生きるしかばねになるぞ」


 その言葉に怖気おじけづく者は誰一人としていない。覚悟のうえでこの戦場にやって来ているのだ。


(闇の魔術陣、ジリニエイユから学んだ力だったな。この少人数で構築する結界で耐えきれるか)


 不安要素しかない。対抗しうるであろう防御結界を張れる者は、二百近くいるシュリシェヒリの者たちの中でわずか十人足らずだ。


 そのうえ、防御結界を維持するためには魔力を注ぎ続けなければならない。だからこそ、結界を張れない者たちは結界内でまもられつつ、魔力供給のにんに当たるのだ。


「トゥルデューロ、まずは小手調べだ。お前たちがどれほどのものか、見せてもらうぞ」


 いつしか右手の動きが止まっている。虚空を指した右手の先、巨大な漆黒の魔術陣がまるで生き物のごとく蠢動しゅんどうしながら浮かんでいる。


 魔術陣内に十の複雑な紋様が刻まれ、その全ての意匠いしょうが異なっている。それぞれに意味があるのだろう。全てを解析している時間はない。


"Mulaivas jasaanim kepiuys."


 パレデュカルが魔術陣の力を解き放つ。二つの紋様が弾け飛び、漆黒のもやが勢いよくあふれ出す。一見いっけんすると同じように見える靄も、漆黒でありながら微妙な差異を有している。目をらせば分かる程度に濃淡があるのだ。


てるがよい」


 淡い靄が最初に降り注ぐ。パレデュカルになさけなど一切ない。情のつながりが僅かばかりに残っているキィリイェーロとプルシェヴィアは既に排除済みだ。そして、トゥルデューロもその一人に間違いない。


(お前の目で解析したんだ。この程度なら防御できて当然だぞ)


 トゥルデューロも十二分に承知している。パレデュカルの行使した魔術陣がどのようなものか、かつて共に戦った際に一度だけ見たことがあるのだ。


 もたらす力が引き起こす顛末はあまりに凄惨せいさんだった。トゥルデューロは胃の中のものを全てき出すという失態をさらしてしまった。


(俺が知っている前提で使ってきたな。だが、あの時とは違う。もう一つの力が未知だ)


 次の攻撃、すなわち濃い靄は絶対に受けてはならない。本能が執拗しつように警告してきている。


(気づいたか。この攻撃はお前にも分からないだろう。だから)


 おもいはみ込む。トゥルデューロならば何とか切り抜けるだろう。


「魔力を切らすな。絶対にだ」


 トゥルデューロがあらん限りの声で叫ぶ。そこへ上空から降り注ぐ淡い靄が防御結界と激突した。


「ば、馬鹿な、たかが靄だぞ。どうしてここまで重いのだ」


 パレデュカルの邪気じゃき魔気まきが影響している。双方をまとった淡い靄は怖ろしいまでの圧力で防御結界を破壊しにかかる。頑強がんきょうなはずの防御結界が至るところで悲鳴を上げている。


「駄目だ。持ちこたえられない。他の結界下へ逃げるんだ」


 トゥルデューロがすかさず声を発した男、デランディズに意識を向ける。デランディズは魔弓警備隊の一員ではないものの、里内では屈指の結界魔術師だ。その彼をもってしてもパレデュカルの攻撃をしのげない。そうなると、他の防御結界が崩れるのも時間の問題か。


「お前たち、早く行け」


 デランディズは覚悟しているのだろう。皆を無事に逃がすまで耐えきるつもりだ。犠牲になるのは一人だけでよい。彼の顔にはそう書いてある。


(済まない、デランディズ。俺は無力だ)


 落ちそうになる涙をこらえる。泣いても仕方がないのだ。犠牲をどこまで少なくできるかはトゥルデューロの双肩そうけんにかかっている。


「トゥルデューロ、後のことは頼んだぞ」


 皆が他の結界内へと避難すると同時、デランディズの張った防御結界が靄の圧力に耐えきれず、砕け散った。


「デランディズ」


 もはやデランディズをまもるものは何もない。淡い靄がまたたく間に彼をみ込んでいく。


 デランディズを助けようと今にも数人が結界外へ出ようとしている。慌てたトゥルデューロが鋭い口調で制止する。


「出るな。巻き込まれるぞ」


 分かっている。その靄が生半可なまはんかなものでないことぐらいは。それでも意思とは無関係に、身体がおのずと動くことだってあるのだ。


めろ、ネイレソワラ。お前まで」


 トゥルデューロが必死に止めようとする声は確実に届いている。全力で走り出しながら、ネイレソワラは一瞬だけ視線をトゥルデューロに転じる。その顔を見たトゥルデューロは歯を食いしばって耐えるしかできない。


「デランディズ、すぐ行くわ」


 ネイレソワラの魔力量は底をつきかけている。デランディズの結界維持のために魔力を注ぎ続けたためだ。恐らく上級魔術を一回行使できる程度だろう。


 それでも迷わない。残された魔力は己の防御ではない。デランディズを助けるためだけに使う。


「私にとって誰よりも大切な人、だからずっと一緒よ」


 走り出す前から魔術行使のための短節詠唱を続けている。既に淡い靄はデランディズの身体をむしばみ、崩壊へと続く道を突き進んでいる。


 魔気だけでなく邪気をもまとった闇の力を、これから行使する光の力で退しりぞけられるか自信はない。


「やるしかないわ。耐えて、デランディズ。光破清覇浄波聖ピルメセヴーシェ


 淡い靄の上から光が帯状おびじょうと化して舞い下りる。デランディズの身体はもとの体積を失いつつある。


 このままではネイレソワラの魔術が効力を発揮する前に、事が終わってしまう。それ以前の問題として、淡い靄に対する効果があるかいなかだ。


 光の帯はおだやかな優しい波となって淡い靄をぬぐい去っていく、かのように見えた。


 確かに、靄の表面だけは波にさらわれるがごとく、せていっている。それだけだ。靄の勢いは止まらない。光に打ち消されたところに新たな靄が派生、さらに広がりながら次の獲物えものたるネイレソワラに襲いかかった。


「ネイレソワラ、戻れ」


 トゥルデューロは無駄と知りながらも声をしぼり出す。ネイレソワラが一瞬だけ微笑んだように見えた。


「貴男を一人にはしないわ」


 まとわりついてくる靄を必死に振り払いつつ、もはや何の反応を示さないデランディズに向かってネイレソワラは躊躇ためらいなく己の身体を投げた。


「ネイレソワラ」


 トゥルデューロだけではない。悲嘆ひたんに染まった声が周囲から幾つもあふれ出す。


 淡い靄はネイレソワラをからめ取り、容赦なく内包していく。ネイレソワラは一切の抵抗を見せない。デランディズと共にいることを選んだすえの結果だった。


「ごめんね、デランディズ。貴男を護れなかった」


 それが生きている彼女の最後の言葉となった。


 靄がネイレソワラを完全に包み込み、たちどころにその身体を崩していく。


 一度ひとたび靄にらえられてしまうと、引きがすことはほぼ不可能だ。方法がないわけではない。デランディズもネイレソワラもそれを知らなかった。あるいはキィリイェーロがいたならば、どうにかなったかもしれない。その彼は囚われの身だ。


「俺は何もできない。許してくれ、デランディズ、ネイレソワラ」


 トゥルデューロの苦悶くもんに満ちた声がこぼれる。


(あと一歩押すだけだ。トゥルデューロ、お前は、お前だけは)


 パレデュカルの目的は、単純にシュリシェヒリの者たちを皆殺しにすることではない。それが主たる目的なら、キィリイェーロとプルシェヴィアを隔離したうえで最上級魔術を立て続けに行使すればよい。


 いくらシュリシェヒリの者に優れた魔術師がいようと、パレデュカルはかつて里内で最強ともうたわれた魔術師だ。彼が本来の力を発揮すれば、殲滅せんめつなど容易たやすいだろう。


「トゥルデューロ、よく見ておけ。あの二人がどうなるかをな」

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