第255話:ヨルネジェアとエランセージュ

 ルブルコスにともなわれ、妖精王女とヨルネジェアが向かってくる。その前にエランセージュがけ出していた。たちどころに妖精王女の強烈な視線に射貫いぬかれる。


「止まりなさい。それ以上、近寄ることは許しません」


 妖精王女がつむぐ特殊な言霊ことだまには、相手を絶対従属させる力がある。呪言プレクローテと呼ぶ。効果範囲は狭く、対象も少数、しかも対象者の瞳をとらえる必要がある。


 妖精王女の瞳を見てしまったエランセージュはもはや従属状態だ。全く動けなくなっている。そこにビュルクヴィストが助け舟を出す。


「妖精王女殿、お初にお目にかかります。私は」


 エランセージュに向けていた視線がかすかに揺れ、ビュルクヴィストに向けられる。彼もまた視線を合わせている。


「魔術高等院ステルヴィア院長ね」


 視線はエランセージュに向けた時と同様に厳しいままながら、敵愾心てきがいしんっていない。恐らくはエランセージュに対しても同じなのだろう。差異は実際に魔術を行使したかいなかでしかない。


「その差異が大きすぎるわ。しかも氷を用いるなど」


 エランセージュに追いついたビュルクヴィストが彼女の一歩前に進み出て、かばうように立つ。


「私をご存じでしたか。光栄ですね。では単刀直入に申し上げましょう。彼女の拘束をいていただけないでしょうか」


 妖精王女とは対照的におだやかで柔らかい視線ながら、そこには確固たる意思がこもっている。ビュルクヴィストも事を荒立てるつもりはないし、妖精王女は己よりも上位の存在だ。そもそも戦う意味など一切ない。


「条件があるわ」


 聞くまでもない。即答で返す。


「全てみましょう」


 さすがに意表を突かれたか。妖精王女の表情に戸惑いが見られる。ビュルクヴィストにしても、妖精王女が無謀な条件を突きつけるとは思っていない。だからこその丸呑みなのだ。


「聞いていたとおりね。全てはあの御方のお言葉どおりに。それもまた必然なのでしょう」


 言葉の意味を正しく解釈できたのはビュルクヴィストとルブルコスだけだ。動けないエランセージュの頭の中は疑問符だらけだった。


「動いてもよいわよ」


 呪言プレクローテが解ける。


 ようやく自由になったエランセージュは立ち止まったまま、深々と頭を下げた。ビュルクヴィストも師として、また一人の人として同じく頭を下げる。


「意外だわね」


 妖精王女のつぶやきは何を意味していたか。


 頭を下げている二人から何かを読み取ろうとしているのか、ヨルネジェアはわずかにおびえのまじじった瞳で凝視している。


 泣きらした瞳は充血したままだ。あれほどまでに荒れ狂っていた感情は多少の揺らぎはあるものの、落ち着きを取り戻している。


 妖精王女が彼女を愛おしげに見つめ、短く言葉をかけている。ビュルクヴィストにも理解できない。知識のかたまりのような彼にしてみれば、分からないことが悔しくて仕方がないのだろう。


 何やらしきりに独り言をつぶやいている。案の定、周囲は聞こえないふりをしている。いつものことだ。


「もういいわよ。悪気がなかったのは分かったし。頭を上げなさいよ」


 幾分ふるえがちではあるものの、至って冷静な口調だった。うながされた二人は対照的だ。頭を素直に上げたビュルクヴィスト、頑なに頭を下げたままのエランセージュ、置かれた立場の違いもあるだろう。


 なおも頭を上げようとしないエランセージュにヨルネジェアは困惑を隠せない。しきりに妖精王女に確認の視線を投げかけている。妖精王女は苦笑を浮かべつつ、首を縦に振ってみせた。ヨルネジェアがため息を一つつく。


≪私は頭を上げなさいと言ったのよ。聞こえなかったの。肝心の貴女がいつまでもその状態だと、話が進まないじゃないの≫


 直接、脳裏に言葉が飛び込んでくる。エランセージュも初めての経験ではないにしろ、普段は口から言葉を発している。魔術は便利なように思えて、実は不便だったりする。


 魔力感応フォドゥアと呼ばれるこの会話方法は、圧倒的上位者でない限り、唐突に相手の心に言葉をきざむことはできない。互いに魔力波長を知ったうえで、魔力接触する合意があってこそ成り立つものだ。


 当然、エランセージュは目の前に立つ妖精とは初対面、そもそも妖精に知り合いなどいない。


 そこまでの思考は一瞬だ。相手が上位者であることも明白であり、頭を上げろと伝えてきている。エランセージュに逆らう勇気はない。


≪イプセミッシュを思ってのことでしょう。さすがにあの場面で魔術を使われるとは思っていなかったけど≫


 ようやく頭を上げたエランセージュがヨルネジェアの容姿を見て、驚きの表情を浮かべている。その表情が何を示しているかはヨルネジェアにもすぐ理解できた。


≪私の姿を見て驚いたのでしょう。少女にでも見えたかしら≫


 エランセージュが驚いたのも無理はない。そこに立つのはまがうことなき少女でありながら、言葉では表せないほどの美しさを秘めた存在だ。


 十二将で最も低身長、童顔を気にしている彼女からすれば、あまりに不公平だと声を大にして言いたいに違いない。


≪あら、低身長、童顔を気にしているの。人族の美の基準なんて知らないけど、貴女、可愛いわよ≫


 たちまちのうちに赤面してしまうエランセージュだった。こういうところに全く免疫のないエランセージュにしてみれば、あまりに予想外すぎる言葉だったからだ。


 ヨルネジェアは上位者として魔力を通じて彼女の心に触れた。彼女の想いは筒抜つつぬけ状態で、妖精たるヨルネジェアからしてみれば、妙なところで悩んでいるなといった程度にしかすぎない。


「ヨルネジェア、そろそろ頃合いよ。いつまでもイプセミッシュをあのままにはしておけないわ」


 話が脇道にれていきそうなところで妖精王女が軌道修正に入る。肝要なのはイプセミッシュを元どおりに戻すことであり、それ以外のことは全て後回しだ。


「さて、ヒューマン属の娘よ、いったい貴女に何ができるのかしら」


 まるでいどむような、そしてためすような口調だ。赤面状態のエランセージュはその一言で表情を引き締めると、妖精王女の視線を真っ向から受け止める。


「あの御方がわざわざ呼び出されたのです。何もないはずはないわね。求められし力、ここで示しなさい」


 イプセミッシュを助けたいという想いはヨルネジェアにも負けない。その自負はある。今一度、幼いあの時にかけられた言葉を思い浮かべる。


≪どんな魔術師になりたいのか≫


「私が目指すのは、人を笑顔に、そして幸せにできる心を持った魔術師」


≪魔術を使って何を成し遂げたいのか≫


「私は魔術で人を傷つけるのではなく、負った傷を癒したい。心を癒したい。そのためだけに魔術を使いたい」


 ビュルクヴィストの手が優しく背に触れた。そこからぬくもりが伝わってくる。


「答えは出ましたね。エランセージュ嬢、貴女は一時的とはいえ私の弟子だったのです。自信を持ってもらわなければ困りますよ」


 エランセージュにとって、ビュルクヴィストから教わったことは一生の宝物だ。短期間であれほど濃密した時を過ごせるとは思ってもいなかった。


 ビュルクヴィストの魔術指導は一切の容赦がない。普段の飄々ひょうひょうとした姿はなく、歴代最強ともうたわれた先代スフィーリアの賢者そのものだった。


(ビュルクヴィスト様の優しさが伝わってきます。厳しい中にもどこか私をいたわる気持ちが。だからこそ私は耐えられたのです)


 胸が熱くなってくる。エランセージュを包む光がさらに輝きを増していく。その様子を見たヨルネジェアも何かを感じ取ったのだろう。


「エランセージュと言うのね。今から始めるわよ」


 説明も何もなしだ。それはビュルクヴィストの仕事だと言わんばかりに、ヨルネジェアがイプセミッシュのそばへ改めて近寄っていく。


「エランセージュ嬢、心して聞きなさい。今、イプセミッシュ殿の体内にある血管の大半が損壊そんかい状態です。一時的に心臓を仮死状態にして彼の命をつなぎ止めているのです」


 エランセージュの顔から血の気が引いていく。そこまでの状態とは想像していなかったのだろう。


「彼の命はあちらの妖精のお嬢さん、そして貴女にかっています。すべきことは分かっていますね」


 思わず大きく息をむ。先ほどから背筋に冷たい汗が流れている。これまでのエランセージュの人生で味わったこともないほどの緊張が走る。


 失敗したら終わりだ。イプセミッシュは確実に死ぬ。現十二将筆頭、次期ゼンディニア王国国王であり、この先、自分が仕えるかはどうあれ、絶対に死なせてはならない存在だ。


「想いが力になります。心を強く持ちなさい。大丈夫です。この私がついているのですから」


 ビュルクヴィストの言葉がどれだけ気持ちを楽にしてくれるか。エランセージュは最大の感謝をもって大きくうなづく。自分の成すべきことは分かっている。問題はその方法だけだ。


 エランセージュもまたイプセミッシュのもとへ近寄っていく。


≪レスティー殿、これでよろしかったのですね≫


 皆まで語る必要はない。


≪あの娘に眠る鍵を目覚めさせたのはそなただぞ、ビュルクヴィスト。責任をもって見守ってやるがよい。私もている≫


 まさしく手のひらの上だなとの思いをいっそう強くするビュルクヴィストが、エランセージュの後を追って歩を進めた。

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