第252話:暴走する魔力波と妖精王女の覚悟

 一種の仮死状態となったイプセミッシュの鼓動もまた動かない。呼吸さえしていない。今のイプセミッシュは金空光矢シエラメイラの力によって生かされているだけだ。


 金空シエメリクの光に包まれた全身は鉄壁の防御でまもられる。最上級魔術でさえ無効化するほどの優れた能力は、ただただ恩恵として享受きょうじゅできるわけもない。当然ながら、それがもたらす副反応が同時に生じているのだ。


 護られる以前にった傷などは一切治癒されない。傷の影響は確実に身体に蓄積されていく。


 影響を受けている時間が長くなればなるほど、回復時間を要するうえ、それが致命傷の場合、効力が切れた途端に処置不能となる可能性も捨てきれないのだ。


 イプセミッシュに致命傷は見当たらない。表面的にはだ。問題は魔食血蟲マグトゥジェに食われ、破壊された血管だった。


 血管の代わりとなっていた魔食血蟲マグトゥジェは、既に金空光矢シエラメイラによって完全消滅、イプセミッシュの体内から一掃されている。


金空光矢シエラメイラに再生能力はないわ。イプセミッシュの血管がどれほど失われているか。心臓が動き出した途端に」


 言葉が続かない。妖精王女も気が気ではないのだ。ルブルコスにしても同様だった。


 二人ほどの実力者であっても単純な治癒能力しか持ち合わせていない。失った血管を即時再生させるといった相当高度な治癒能力は、ごく一部の優れた治癒魔術師か、あるいはそのたぐい秘宝具ひほうぐでなければ実現できないのだ。


 イプセミッシュのそばまで近寄ったヨルネジェアの右手がゆっくりと持ち上がる。金空光矢シエラメイラを抜き出す方法は至って簡単だ。右手を心臓に添えて、ある一言をとなえるだけ、それだけで終わる。


(金空光矢シエラメイラを抜いてしまったら、私のせいでイプセミッシュを死なせてしまう。こわい。たまらなく怖い。私、どうすれば)


 ヨルネジェアは固まったまま動けない。その右手が大きく震えている。ルブルコスにも妖精王女にも見て取れるほどに、ヨルネジェアの心は恐怖にとらわれている。


 ヨルネジェアにも分かっているのだ。心臓を結ぶ血管の多くが失われ、今もなお再生されないままでいる。


 金空光矢シエラメイラを抜き去った途端、イプセミッシュの心臓は自発的に動き出す。全身の機能を正常化するには、心臓を結ぶ全ての血管が有効に機能しなければならない。


(駄目だめ、私にはできない)


 金空光矢シエラメイラの効力も永続ではない。いずれ消滅していく。それがいつなのかは誰にも分からない。


 ヨルネジェアがここで金空光矢シエラメイラを引き抜かずとも、効力が失われた時点でイプセミッシュは確実に死ぬ。早いか遅いかの問題でしかないのだ。


 妖精王女に救いを求めてヨルネジェアが振り返る。妖精王女はただ黙したまま、静かに首を横に振るだけだ。その表情が悲しみに沈んでいる。


「来たか」


 そこには多分に安堵あんどの感情がめられている。ルブルコスのこぼした一言とともに空間に亀裂きれつが入る。


 この特殊な半球空間に対して、魔術を外部から行使できる者などわずかしかいない。だからこそルブルコスは安心したのだ。


 おなじみの甲高かんだかい硬質音を響かせながら魔術転移門が開く。しかも二つの門が同時に開いていくのだ。


「呼ばれたからにはどこにでもせ参じますが、それにしてもいささか性急せいきゅうすぎませんか」


 文句を垂れながら姿を現したのは魔術高等院院長のビュルクヴィストだ。もう一方、訳が分からないまま無理矢理押し込められかのか、視線を彷徨さまよわせつつ降り立ったのは十二将が一人にして、ビュルクヴィスト自らがきたえたエランセージュだった。


 一時的ではあったもの、師弟関係の二人がそろったことになる。


 降り立った二人が真っ先に気づいたのは、およそ高度三千メルクで展開されているとは思えないほど穏やかで温暖な光降り注ぐ光景ではない。


 金色こんじき粒子りゅうしに包まれ、微動だにしないイプセミッシュと、その眼前でこちらもまた動かない一人の少女の姿だった。


「イプセミッシュ様」

「イプセミッシュ殿」


 声が重なる。二人が別々の方向から慌ててけ寄る。


 エランセージュが勘違いするのも無理はない。斜め前方に二人の姿を見ているのだ。しかもイプセミッシュを背にしている状態で、相対する少女がその胸に向けて右手をかかげている。攻撃の意図を持っての行動だと疑っても仕方がない。


 ヨルネジェアはヨルネジェアで戸惑いを隠せない。掲げた右手をどうすることもできないまま、ただ固まっているだけだ。


 そこへ突然の空間亀裂、魔術転移門が同時に開き、見知らぬ人族が姿を見せたことでさらに固まってしまい、何の行動もできずに立ち尽くす。


 そこへエランセージュの攻撃が来たのだ。


「指一本触れさせはしない」


 エランセージュは決して感情をあらわにしない。その彼女が怒りを発散させている。彼女が得意とするのは、生まれ故郷さながらの水氷系魔術だ。中でも氷を好んで使役する。


「ゼ=エーレ・ルフウ・シェイリ

 大気凍てつかせし霜槍刃ジュロレム

 氷をいだいて全てを貫かん」


 ヨルネジェアの足元が激しく蠢動しゅんどう、大地に次々と亀裂が入る。


「いけません、エランセージュ嬢」

「いけない、その魔術は」


 ビュルクヴィストでさえ、エランセージュの行動は予想できなかった。よもやいきなり魔術行使に及ぶとは思ってもいなかったのだ。


 そして、もう一人だ。妖精王女もエランセージュの行使しようとする魔術に咄嗟とっさに気づく。それがヨルネジェアにとって、最悪の結果をもたらすものだからだ。


 妖精王女の館内で水氷系魔術、特に氷系魔術を禁忌としている理由の一つでもある。


 エランセージュを制止せんとビュルクヴィストが動くも、時すでに遅しだ。わずかの反応の遅れが短節詠唱の成就じょうじゅかなえてしまった。


 もはや上書きする時間もない。成就を迎えたエランセージュの魔術が今にも解き放たれようとしている。


 ビュルクヴィストは動けない。妖精王女にも、この段階から間に合わせるだけの力はない。


氷尖細霜刃壁フィヌエミューレ


 亀裂をさらに広げて、大地より無数の氷柱つららが飛び出してくる。


 ここが雪氷嵐せっぴょうらん吹き荒れる本来の姿なら、間違いなくヨルネジェアの命はなかっただろう。何よりもエランセージュの魔術は直接攻撃系ではない。


 大地の揺れと自身の動揺もあってか、氷柱が突き出した瞬間、ヨルネジェアはその場に尻もちをついて倒れ込んだ。氷柱は身長およそ百五十六セルクの彼女の胸元めがけてせり上がってきている。


「これで動きを封じたわ」


 無数の氷柱が目標位置に達した時には、ヨルネジェアの身体ははるか下にある。ちょうど氷柱でふたをされた形になっている。


「ああ、駄目よ。お願いよ、貴男ならできるでしょう」


 まさしく氷柱による氷壁だ。完全に覆われてしまったヨルネジェアを目の当たりにした妖精王女が悲嘆ひたんの声を発し、すぐさまルブルコスに視線を投げかける。


 当のルブルコスは妖精王女の言葉を聞くまでもなく、既に氷霜細降龍凍リディグニファダラを振るいかけている。


「エランセージュ嬢、下がりなさい」


 ビュルクヴィストの命令にも似た激しい声が飛ぶ。そこには多分に焦燥感しょうそうかんめられている。


 ビュルクヴィストには、二つのものがえているのだ。


 一つは視覚で見ている。ルブルコスがまさに氷霜細降龍凍リディグニファダラを振るわんとしているところを。


 もう一つは魔力で視ている。氷壁に閉じ込められたヨルネジェアから膨大な魔力の波が溢れ出そうとしているところを。


「ちっ、間に合わぬか」


 氷霜細降龍凍リディグニファダラが振り抜かれ、氷壁を構成する全ての氷柱がその根元より瞬時に昇華しょうかしていった。


 しゃがみ込んだままのヨルネジェアをさえぎるものは何もない。け寄ろうと足を一歩踏み出した妖精王女が、その動作を止めざるをなかった。


 すさまじいばかりの絶叫が半球空間全体を揺るがす。全身にまとった魔力が無秩序にあふれ出していく。


「ああ、ヨルネジェア。このままでは取り返しのつかないことになってしまうわ」


 妖精王女はルブルコスにうなづいて見せる。ルブルコスもまた承知の意をもって頷く。


「私が行くわ。貴男はあちらの二人を絶対近づけないようにしてちょうだいな」


 事は緊急性を要する。妖精王女の表情は厳しく、楽観は全く見られない。それほどまでにヨルネジェアの状況は最悪なのだ。


 妖精王女が動き出すよりも早く、ルブルコスは魔術を行使、大地をすべるようにけ抜ける。


 エランセージュはただただ呆然と立ち尽くしている。その彼女の真横を通り過ぎる際、強引に首根っこを右手でつかむ。この乱暴とも言える扱い、常に冷静沈着であるはずのルブルコスが珍しく怒りをむき出しにしているのだ。


「女、動くな」


 ルブルコスは冷たくも、それだけの言葉を残すと、勢いを殺さずにビュルクヴィストめがけてエランセージュを放り投げる。声にならない悲鳴を上げ続けるエランセージュの意思など完全に無視だ。


 ビュルクヴィストが魔術障壁をもってエランセージュの身体を優しく抱き止めると同時、ルブルコスは二人と同位置に立っていた。


「ビュルクヴィスト、弟子の不始末はその方の責任だぞ。あれを見るがよい」

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