第237話:高度三千メルク地点の戦い
高度三千メルクを少し超えた地点だ。はるか先を行く男に追いつこうと、ひたすら両の脚を動かし続けている。
悪路は大小様々な岩石が転がる足元だけではない。吹きすさぶ
立ち止まれば、たちどころに凍てつきそうだ。イプセミッシュは両脚を前に繰り出しつつ、
(これではとても追いつけそうにない。今さら下に戻ることもできない)
もはや方向感覚も狂っている。この状況下では、前を行く男と
(私の魔力に気づいているはずだ。立ち止まってくれる気配は一切ない。相変わらずの厳しさだな)
口には出さない。心の中で
前を行く一人の男、ツクミナーロ流継承者たるルブルコスは、イプセミッシュが魔力で接触してきていることを把握している。
当然だ。彼は魔剣士、どんな
イプセミッシュはこれ幸いとばかりに歩を進めようとするも、彼もまた足を止めざるを
(何だ、この膨大な魔力は。触れられるだけで全身に刺激が走る。私を確かめている。
そこへルブルコスの声が飛んでくる。
≪イプセミッシュ、そこを動くな≫
それだけ告げられ、即座に切られる。三剣匠の一人に動くなと言われたのだ。それを無視するほどイプセミッシュは愚かではない。
切迫した状況なのだろうか。考えても仕方がない。
(私が行ったところで、どうにもなるまい)
リンゼイア大陸最強の武人にして十二将筆頭、かつてはビスディニア流の序列五位に在籍していたとはいえ、イプセミッシュは己の実力を
この魔力の持ち主は尋常ではない。しかも、人族の魔力でもあり、そうでもない。得体の知れぬ恐ろしかが感じられる。それらを全て含んで、イプセミッシュは剣の
立ち止まれば、それだけ次に身体を動かすのが困難になる。イプセミッシュはひたすら剣の柄を握っては離しを繰り返し、絶えず右手を動かし続けている。
ルブルコスは異質な魔力が接近していることにいち早く気づいていた。害意は
相手の魔力が己の身体を通り抜けていく。その際、皮膚への刺激と共に、
(反応を示したか。敵対意思はないな。それにしても面白い魔力質だ。どこかで、今はどうでもよいことだ)
魔力網を広範囲展開しているのはヒオレディーリナだ。手合わせしたい気持ちが強いものの、彼女の最優先すべき目的はそれではない。
二人は互いの魔力を感じつつ、何事もなく別れていった。再び動き出すルブルコスの姿が小さくなっていく。
≪動いても構わぬ≫
イプセミッシュへの指示も忘れていない。それで終わってもよかった。ここで悠長に話をしている時間もない。
完全な闇が迫っているのだ。太陽が残していった少しばかりの光も消えんとしている。既に三連月は天頂と地平線の中間辺りに位置し、淡く
≪何用があって私を追ってきているのだ。ここはお前が来てよいところではないぞ≫
イプセミッシュの亡き父ウェイリンドアとは古くからの
記憶封印という予想外の行動に出たイプセミッシュは、父ウェイリンドアの死を他人として見送ることになってしまった。ルブルコスにとっては、知らなかったこととはいえ後悔が残る出来事だったに違いない。
だからこそだろう。決して口には出さないものの、気にはかけているのだ。意外に心配性なルブルコスの一面がうかがえる。それはトゥウェルテナの一件を見ても明らかだろう。
≪貴殿に教えていただきたいことがあります≫
ルブルコスがイプセミッシュに教えられることは二つしかない。すなわち、敵たる魔霊鬼のことか、あるいは亡き父ウェイリンドアのことか。わざわざここまで追ってきたのだ。
≪ウェイリンドアの何が知りたい。言っておくが、私の語れることは多くないぞ≫
イプセミッシュの喜びの感情が伝わってくる。意識をイプセミッシュに集中しようとした矢先、大峡谷を
(先に始めたか。ならば、こちらも目的のものが近いはずだ)
これで決まった。イプセミッシュとの話は後回しだ。
≪敵が来る。お前では
ルブルコスから張り詰めた緊迫感が伝わってくる。それでいて心は乱れなく落ち着いている。どこか楽しんでいるかのようでもある。
イプセミッシュは冷静に状況を分析、ルブルコスの言葉からして敵は
十二将筆頭として先読みのザガルドアならぬ、今は先読みのイプセミッシュとしての真価を発揮しなければならない。
彼は即座に高速思考により何度も戦術を組み立てては捨て、また組み立てては捨てを繰り返す。導き出した結論、すなわち最善の一手だ。
(行くも戻るも地獄だな。ならば、より犠牲の少ない方へ。
イプセミッシュは前に脚を踏み出す。依然として魔力は繋がっている。
ルブルコスほどの実力者ならば、いつでも魔力を断てる。戻ることを絶対強制するなら、容赦なく断つべきところだ。それをしないということは認めたも同然だった。
(厳しさの中の優しさといったところか。早く追いつかねばな)
大峡谷を挟んだ対岸、光が弾け飛んだ。ロージェグレダムの振るう
星をも砕かんばかりの剛なる
上段からの振り下ろし、さらには左からの
「見かけによらず
言葉どおり、見かけだ。その男らしき者の何と
縦におよそ四メルクと、
「ほうほう、名高い三剣匠、期待していたがこの程度とは。がっかりだ。干からびた
声だけは至って普通だ。低音ではあるもののよく響く。
男は両腕を大きく開くと、自らの身体に巻きつけていった。異様なまでの
「何をするつもりじゃ。これではまるで。いかん、この技は」
異様な光景を前に、ロージェグレダムは
圧縮の限界を迎えた肉塊が奇妙な音を立てて、次々と断裂を起こし、肉の小片と化していく。数にして百数十といったところか。小片といっても、一つ一つが常人の胴体ほどもある。
これまでの
胸部以外は一切影響を受けておらず、しかも圧縮された部分を補充しようと粘性液体が呼吸をするかのごとく
身体が再構築され、再び正常な肉塊へと戻った。男は緩慢な動作でゆっくりと両手を開く。恐怖を植えつけるためか、あるいは身体への何らかの負担でもあるのか。
ロージェグレダムにしてみれば、どちらでも一向に構わない。油断ならない敵であり、しかも肉片が危険なものであることも理解している。考えるべきは対処法のみだ。
男の表情に笑みが見える。浮かんでいるのは笑みだけではない。引き千切られた肉片も同様、男の周囲を包むようにして漂っているのだ。
男の両手が振られた。まるで指揮者のごとく、自在に様々な角度で折れ曲がっている。およそ人体の構造を無視した動きだ。
それに呼応して、浮かび上がった肉片が踊る。
「
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