第236話:未だ断ち斬れぬ想い
ルシィーエットはもちろん、ビュルクヴィストもエルフ語を自在に操れる。魔術高等院ステルヴィアの院長や賢者ともなれば、大陸共通語、各国の共通語は無論のこと、多種多様な言語を扱えなければならない。
人族が扱う言語は細分化されているものの、そこまで複雑ではない。エルフ語はその中にあって習得難度が高い言語の一つでもある。
「オドフィ・ハーラ・ピィアヴェクナカ」
<訳:このままで続けていいね>
ビュルクヴィストの
「ああ、話しにくいよね。大陸共通語でいい」
ヒオレディーリナにしては珍しい。かつての彼女なら、エルフ語で押し通してきそうなものだ。そうとなれば、ビュルクヴィストのやることは決まってくる。彼は即座に動いた。
極小で、すなわち三人のみを有効範囲として
「瞬時ね。腕は落ちていない。それ以上か」
張り巡らされた結界を興味深く眺めながら、ヒオレディーリナが声を上げている。そこに
「貴女にもこれぐらい
「ヒオレディーリナ、貴女の過去を
聞くまでもなく分かっている。当然のことだろう。かつての自分を知る二人に、今の身体がどのように映っているのか。
ビュルクヴィストもルシィーエットも賢者を引退しているとはいえ、かつては
「
変わらない。言葉数の少なさ、他者との距離感、昔のままだ。
ヒオレディーリナは、いったん懐に入れた者に対してはとことん世話を焼き、面倒を見る。そこまでの道のりが、他者と比べて異常なまでに長いのだ。
「こうして、また姿を見せてくれた。素直に嬉しいよ。だけどね、ディーナ、理由だけは聞かせてもらうよ」
僅かに眉を上げる。これもまたヒオレディーリナにしては珍しい。感情の中でも、とりわけ
「どうするの」
二人の間に流れる険悪な雰囲気を感じ取ったか、ビュルクヴィストがルシィーエットに代わって答える。
「そうですね。貴女の返答次第では、敵とみなさなければなりません」
ヒオレディーリナの両の瞳が閉じられる。よくない兆候だ。
かつての彼女であれば、瞳を閉じる行為は、すなわち
決断後の彼女は慈悲も容赦もない。再び瞳が開くと同時に抜刀、目にも止まらぬほどの速度をもって、あらゆるものが彼女の前に倒れ伏すことになる。
「そう」
右手は動かない。ビュルクヴィストが注視していたのは逆の手だった。本来、ヒオレディーリナは左利き、
最初に
「ヒオレディーリナ、左手はどうかしたのですか」
両の瞳が深紅に染まっていく。右手が動き、抜刀する。正眼に構えた切っ先がビュルクヴィストに向けられている。
さすがに百戦錬磨のビュルクヴィスト、ルシィーエットだ。一歩も引かず、真正面から相対、二人に抜かりはない。いつでも魔術が発動できる態勢にある。
切っ先が震えている。ヒオレディーリナの中で、二つの意識が戦っているのだ。一つは殺戮の衝動、一つはそれをさせまいとする制御だ。やがて震えが収まる。
「ごめん。完璧に
ヒオレディーリナの表情に変化は見られない。
ルシィーエットはビュルクヴィストと違い、ヒオレディーリナとは深いつき合いだ。随分と年齢の離れたヒオレディーリナは、ルシィーエットにとって、ある時は母、ある時は姉のような存在だった。
だからこそ、彼女の表情の裏側に
「ディーナ、そんな身体になってまで。まるで、
ヒオレディーリナは唇に指を一本添えることでルシィーエットの言葉を封じた。ルシィーエットも黙るしかない。いくら時が流れようとも、二人は心の奥底で通じ合っているのだ。
ルシィーエットもビュルクヴィストも、ここまでの行為に及んだ彼女の意思を完全には理解できない。それでも推察ならできる。彼女が
「行くわ。懐かしい顔に挨拶できてよかった。あと二人、会っておきたい者がいるの」
ヒオレディーリナは納刀すると、ビュルクヴィストが展開した結界外へ難なく出ていく。唐突な
ビュルクヴィストが結界を解除、ここからの会話は周囲の者にも伝わる。その背にルシィーエットが声をかけた。
「これが最後になるのかい」
ヒオレディーリナの足が止まる。言葉は返ってこない。再び歩を進めたところで、思い出したかのように立ち止まる。
「そうだ、ここに三姉妹はいるの」
ルシィーエットとビュルクヴィストが互いの顔を見合わせている。ここに来ている三姉妹といえば彼女たちしかいない。
「ジリニエイユ、知ってるわね。抹殺指令が出たわ。二人、向かってる。どうでもいいけど。知らせたわ」
顔面
最も
「ヒオレディーリナ、その二人の強さは」
ビュルクヴィストの問いに、振り返ったヒオレディーリナが答える。
「私より弱い。はるかに弱い。貴男やルーなら勝てる」
彼の顔に書いている。では、ヒオレディーリナの強さは、その二人と比べていかほどなのかと。
「
言葉足らずでも、それだけ聞けば十分だ。
ヒオレディーリナはまだ何か言いたそうにしている。反面で決して自らは口を開きそうにない。それを見越してルシィーエットがきっかけを作る。
「まだ何かあるんだろ。知っていることがあるなら教えてくれないかい。それとも」
昔からそうだった。ルシィーエットがどんなに我がままなことを言っても、ヒオレディーリナは必ず
無理難題だろうと、ヒオレディーリナにとっては造作もない。彼女の実力は誰よりも群を抜いて優れていたからだ。
「かつての三剣匠が一人、ヴォルトゥーノ流元継承者にして
ルシィーエットの言葉に騒然となる。飛び出た内容があまりに意外すぎたからだ。
イオニアやモルディーズたちからは、三人は明らかに顔見知りに見える。かつての賢者と剣匠なのだ。当然、協力体制に入るものだと信じて疑わない。その期待は次のヒオレディーリナの言葉で
「どうして。興味ないわ。その子たちが死んだところで」
思わず口を差し
「三姉妹の長女をセレネイアという。レスティー殿がいささか気にかけているのさ」
効果てき面だった。イオニアに向けた視線を即座に切り、ルシィーエットの言葉に食いつく。
「ルー、それは本当」
首を縦に振り、言葉を継ぐ。
「
考える素振りさえ見せず、ヒオレディーリナが迷わず尋ねる。
「ルーは私に頼らないの」
言い換えれば、私を頼れと言っているようなものだ。ルシィーエットの予感は的中した。それも悪い方にだ。
(ディーナ、想いは
表情には決して出さない。ルシィーエットは心の中で泣くしかできなかった。その思いを胸中に仕舞い、言葉を
「任せていいのかい」
一度だけ大きく
黙って見送ったビュルクヴィストが、寂しげに肩を落としているルシィーエットに問いかける。
「よかったのですか。ヒオレディーリナの前でレスティー殿の名を出すなど」
振り返ったルシィーエットの表情を見た瞬間、ビュルクヴィストはその先の言葉を
苦渋の決断だったのだろう。ヒオレディーリナのことなら、ビュルクヴィスト以上に知っているルシィーエットなのだ。
「私も行くよ。マリエッタのこともあるしね。ビュルクヴィスト、ここは任せたよ」
ルシィーエットの指差す先には、ラディック王国の者たちが説明を今や遅しと待っている。ビュルクヴィストは深いため息をつきつつ、頷くしかできない。
「仕方がありません。分かりましたよ。貴女も気をつけてください」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます