第235話:ヒオレディーリナの正体

 ビュルクヴィストは、フィリエルスによって搬送されてきたホルベントの容体を一目見た瞬間に悟った。


(完全治癒は無理です)


 エランセージュにさわりを聞いた際に嫌な予感はしていたのだ。


 治癒魔術をほどこしてはいる。意識は治癒そのものではない。ホルベントの身体を侵食し続けている異質な血に向けられている。


(やはり血縛術サグィリギスでしたか。エランセージュ嬢から聞く限り、対峙たいじしていたのは人族のはずです)


 さすがに魔術高等院ステルヴィア院長たるビュルクヴィストの力をもってしても、血縛術サグィリギスの即解除は不可能だ。術者以外で唯一可能なのはレスティーぐらいだろう。


 血の浸食をできうる限り遅らせるための補助的治癒でしかない。氷礫ひょうれきをゆっくり流し込みながら、血流を減速させているのだ。


 最も確実な方法は、一刻も早く術者を仕留めることに尽きる。ビュルクヴィストは信じている。必ずや成し遂げてくれることを。


 そして、ようやくにしてその時が訪れる。


(血縛術サグィリギスが消えました。よくぞやってくれました。これで治癒に専念できます)


 ビュルクヴィストが意識を血の流れから治癒そのものへと切り替える。血縛術サグィリギスが消えたとはいえ、急激な魔術行使はホルベントの身体に負担を強いる。


 血管に流し込んでいた氷礫を解除、体外へと放出する。そのうえで新たな氷礫を生成、ホルベントの血管内へ浸透させていった。


 今度は血管内で少しずつ溶けていく氷礫だ。ホルベントの自己治癒力、すなわち血流の強さに応じて溶けるように魔術制御されている。


 ビュルクヴィストは氷礫を完璧に制御しつつ、ホルベントの血流を魔力を通して観察している。さすがにホルベントは歴戦の雄だ。年齢を感じさせない回復力を見せている。


 ビュルクヴィストは安堵あんどのため息を静かに吐き出した。このまま治癒を続ければ、後遺症もなく、もとの状態に戻れるだろう。ビュルクヴィストが最後の仕上げにかかろうとした矢先だ。


(これは)


 魔力が向けられている。敵意、害意はせられていない。突き刺すほどのものではない。それでいて皮膚を刺激してくる。


 ビュルクヴィストはホルベントに意識を向けながらも、大半をそちらにかたけることを余儀よぎなくされた。それほどまでの魔力だったのだ。思わず視線までも向けてしまうほどに。


 互いの視線が交差する。驚愕きょうがくするしかなかった。一方で相手は歓喜しているように見える。


(まさか)


 さやから抜刀されている。その相手、女は右手で剣を握っている。ビュルクヴィストは違和感をいだいていた。


 大気の分厚ぶあつい幕が彼女を優しく包み込んでいる。女のくちびるが動いた。ビュルクヴィストは動かない。


 右手が優雅に振られた。大気をける雪氷嵐せっぴょうらんがまるで意思を持ったかのごとく、彼女から遠ざかっていく。


 わずか一振りだ。大気を切り裂き、それが推進力となり彼女の身体が静かに降下していく。


 ビュルクヴィストは視線を切れない。彼女の行動に釘づけ状態だ。意識が完全に彼女に持っていかれている。明らかにホルベントへの治癒がおろそかになっている。


 彼女は高度二千メルク地点、ビュルクヴィストたちが集う大地に何ら問題なく、柔らかく降り立った。視線は常にビュルクヴィストに向けられている。


 右手の剣を鞘に納刀、長い金空シエメリクの髪が風になびいている。神々こうごうしいばかりの彼女のたたずまいの何と美しいことか。ゆっくりと歩を進めてくる。


 ビュルクヴィストからおよそ十歩間、そこで立ち止まる。


「お久しぶりね、ビュルクヴィスト。元気そうで何より」


 優しげで温かみのある声だ。一度聞けば決して忘れられない。まるで母にいだかれたかのような心持ちになる。


「ジェンドメンダは死んだわ。ねえ、私が代わろうか」


 ビュルクヴィストが口を開きかけたところを手で制し、彼の眼前で仰向あおむけになっている男を指差す。呆気あっけに取られているビュルクヴィストの手が完全に止まっている。


「そうでした。こちらを優先しなければ。少し」


 待ってください。口にしようとしたところで思いとどまった。魔術行使を他人に代わってもらうなど、ビュルクヴィストにしてみれば己の沽券こけんにもかかわる由々ゆゆしき事態だ。


(今の彼女の力を見せてもらうにはちょうどよい機会ですね。それにあの状態は)


 ビュルクヴィストは思いを振り切るかのように、一度だけかぶりを振る。


「では、お願いできますか。方法はお任せいたしますよ、ヒオレディーリナ」


 小さくうなづく。その仕草がいささか子供らしく見える。ビュルクヴィストは思わず笑みをこぼしそうになったところをこらえた。


(危なかったです。容姿は変わらずとも、私よりもはるかに年長者です)


 言葉はない。表情に変化も見られない。ヒオレディーリナはわずかの変化も見逃さない。ビュルクヴィストの堪えた笑みにも気づいたはずだ。あえて見逃したということなのだろう。


 納刀したばかりの剣を鋭く抜刀、静かに左下段に置く。


 ビュルクヴィストの後方、居残っているラディック王国の者たちが騒ぎ立てている。一喝いっかつをもって押しとどめたのはルシィーエットだ。


「騒ぐんじゃないよ。黙って見ていな」


 ルシィーエットの言葉には誰も逆らえない。騎兵団の者たちは無論のこと、たとえ国王であってもだ。そのイオニアは剣を握る女に視線を向けたまま、静観の構えを崩していない。


(生きていたんだね。それにしても、いったい何なんだい)


 下段に置いた剣が大気に溶け込んでいく。剣身が消えていく。常人にはそうとしか映らない。


 実際に消えたわけではない。ヒオレディーリナの魔力を受けた剣が大気と一体化した結果だ。


 ゆるやかに踊る。ヒオレディーリナの動きは視覚ではとらえられない。微動だにしない彼女を前に、ただ剣だけが舞い踊っている。何とも不可思議な光景だった。


 ヒオレディーリナによって描かれた剣軌けんきに沿って、ゆっくりと駆け上っていく。彼女の目は剣軌ではない、ホルベントの体内へと注がれていた。


 ジェンドメンダの血縛術サグィリギスによって浸食を受けた血管、そこからつながる臓器、骨といったあらゆるものをているのだ。


 おだやかな風、水、氷をともない、彼の全身をでていく。まるで柔らかな羽毛でくるむかのように、それぞれの力が体内へと浸透していく。


 剣を振り抜いたヒオレディーリナは手首を軽く返すと、ホルベントの様子を確認するまでもなく即座に納刀した。剣のつばさやが触れ合い、澄んだ音色を響かせる。


 彼女の立ち居振る舞いに注目していた者たちは、ここで初めて気づく。ヒオレディーリナが動いていたことに。そして剣が振られ、今まさに納刀されたことに。


「終わったわ」


 誰にともなく、それだけを告げる。ビュルクヴィストが頭を下げてくる。


 見守っていた騎士団の中から様々な声が上がっている。大半が感嘆と賞賛、それ以外は彼女の容姿、とりわけ剣姿けんしの美しさをたたえる声だ。


「相変わらずね。悪い気はしないけど」


 彼女が言わんとしているのは、ヒューマン属からの反応だ。僅かに視線をかたむけた先、もう一つの知った魔力の持ち主が立っている。


 ヒオレディーリナの表情がビュルクヴィストの時よりも柔らかくなっているように感じられる。


「ルシィーエット、そう」


 その先の言葉は決して口にしない。時の流れはあまりに残酷すぎる。


 ヒオレディーリナがルシィーエットを知ったのは、彼女がレスカレオの賢者になる前のことだ。そこから交流が始まり、ルシィーエットのレスカレオの賢者就任を経てなおしばらく続くものの、途中でいきなり途絶えてしまう。


 ヒオレディーリナが突如として消息不明になってしまったからだ。原因は分からない。理由も告げず、ヒオレディーリナは去ってしまった。


「ナダセニミファ、ディーナ」

<訳:久しいね、ディーナ>


 二人の視線が交差する。先に口を開いたのはルシィーエットだ。語りかける。リンゼイア大陸における共通語ではない。


「スティ・ラァ」

<訳:そうね>


 ヒオレディーリナが短く応じる。二人が交わす言葉の意味を知り得るのは、この場にはビュルクヴィストを除けば二人だけだ。その一人がつぶやく。


「エルフ語ですか」


 エンチェンツォの言葉を受けてモルディーズが答える。


「そうですね。それにしては、あの方には」


 そう、ヒオレディーリナはエルフ属なのだ。


 彼女はタトゥイオドの里の出身、成人を迎える前から早々に里を出て、各大陸を回りながら剣技の腕前をみがいてきた。


 エルフ属には珍しく、魔術は得意としていない。行使できないわけではない。賢者などの一部の高位魔術師と比して、という意味合いだ。


「はい、エルフ属特有の耳ですね。それが見られません」


 好奇心旺盛な二人は聞きたくてたまらない。この場の状況が断じてそれを許してくれない。黙って見守るしかできない。


 ヒオレディーリナとルシィーエットの交わす視線のさらに奥、そこでかすかに火花が散っている。


「ディシニ・リィハ・ウィフ」

<訳:聞かないの>


 ヒオレディーリナの問いかけにルシィーエットが苦笑を浮かべている。


「ディセニィ・エジェヌ・アゾリェ」

<訳:聞いてほしいのかい>


 僅かの感傷か。今度はヒオレディーリナが苦笑を浮かべ、緩やかに首を横に振った。

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