第201話:ザガルドアと三王女

 先駆さきがけて飛び降りていったグレアルーヴとディグレイオは、魔霊鬼ペリノデュエズとの戦闘に入っている。


 谷底に向かうソミュエラとブリュムンドは、フィリエルスが拾った頃だろう。


「イオニア、念押しだ。苦言は一切受けつけないからな」


 冗談じりで軽口のように言葉をかけると、ザガルドアも素早く行動に移った。やるべきことは一つしかない。フォンセカーロの準備も整っている。


「イプセミッシュ、上に向かうつもりだったが方針転換だ。後は頼んだぞ」

「承知した」


 二人の言葉は短い。兄弟として過ごしてきたのだ。十分すぎるほどに通じ合っている。


 ザガルドアの視線が、アコスフィングァに騎乗し、その場で待機しているフォンセカーロに向けられる。


 それが合図となった。ザガルドアが走り出す。フォンセカーロのアコスフィングァもまた羽ばたきをもって上空へと飛び立つ。


「シルヴィーヌ第三王女」


 大音量の声が響き渡る。名前を呼ばれたシルヴィーヌが思わず振り返る。そこには全速力でけてくるザガルドアの姿がある。


「は、はい」


 多分たぶんに疑問形だ。完全に裏返った、いささかなさけない声がシルヴィーヌの唇からこぼれた。


「行くぞ」


 固まっているシルヴィーヌをよそに、距離が一気に詰まってくる。


 これから何が起こるのか、セレネイアとマリエッタには想像がついたようだ。二人がいつでも行けるように備える。


「え、え、どこへ」


 満面の笑みでマリエッタが、大いに戸惑うシルヴィーヌに声をかけた。


「シルヴィーヌ、頑張りなさいね」


 何を頑張れと言うのだろう。シルヴィーヌは戸惑いだらけの表情を浮かべている。


 十二将に交じると、それほど目立たないザガルドアも、屈強な男の一人に違いない。速度を一切殺さず、両腕をもって、あっという間にシルヴィーヌを抱きかかえていった。


「これから自由落下の旅だ。舌をまないようにな」


 悪戯いたずらっ子のような無邪気むじゃきさだ。


 ザガルドアとは対照的に、狐につままれたような表情のシルヴィーヌは、もはやすがままだ。この状況ではまともに思考すらできない。


 ザガルドアは羽のように軽いシルヴィーヌを軽々と抱え上げたまま、一気に崖縁がけふちを飛び越えていった。


「来い、フォンセカーロ」


 一メルクほど飛び上がった後、重力の法則に従って、ザガルドアは急降下に移った。


 シルヴィーヌのすさまじい絶叫が大峡谷を駆け抜けていく。気を失わないだけ、まだましだったか。


「あらあら、シルヴィーヌったら、あんなに強くザガルドア殿にしがみついて」


 ここぞとばかりにマリエッタが追い打ちをかける。いつも妹にやりこめられているマリエッタにとって、唯一勝てるのがこの高所だからだ。もちろん、シルヴィーヌには聞こえているはずもない。


「マリエッタ、シルヴィーヌが可哀相かわいそうでしょう。いたかたないところもありますが。まさか、ザガルドア殿にご助力いただけるとは」


 高所を苦手としながらも、シルヴィーヌは自らの意思でこの地にやって来ている。ある程度の覚悟はしていたに違いない。


 いざとなれば、セレネイア自身がシルヴィーヌを抱きかかえて飛び降りるつもりだった。ザガルドアには感謝半分、不満半分といったところか。


 感謝はもちろんシルヴィーヌを抱きかかえて崖下がいかへ飛び降りてくれたこと、不満はシルヴィーヌの気持ちを考慮せず、何も告げないままの行動だったことだ。


「セレネイアお姉様、ご不満でしょうか」


 それが表情に出ていたのだろう。マリエッタが尋ねてくる。


「そうね。もちろん感謝が先にあるのよ。でも、少しばかりでよかったの。シルヴィーヌの気持ちを考えていただきたかったわ」


 マリエッタは姉セレネイアのこういったところが本当に好きなのだ。


「お姉様、そろそろ私たちも」

「ええ、行きましょう。崖下へ」


 二人は先に飛び降りたザガルドア、なおも悲鳴を上げ続けているシルヴィーヌを追うようにして崖下へと身を投じた。


 シルヴィーヌはザガルドアの首に両手を回し、最大の力を込めてしがみついている。悲鳴はとどまることなく、遠ざかっていく。暴れ回らないだけよしとしなければならない。


 ザガルドアはシルヴィーヌの背に手を回し、彼女が離れていかないように常に気を配っている。


 わずか五フレプト、距離にして百メルクほど落下したところでフォンセカーロの姿が目に入ってきた。


「陛下、真下に入ります。着陸のご準備を」


 片手を上げて応じる。


「第三王女、もう大丈夫だぞ」


 シルヴィーヌの背を一度だけ軽く叩き、ザガルドアは魔力制動を発動した。落下速度が極端なまでに緩やかになる。


 フォンセカーロによっていざなわれたアコスフィングァが近づいてくる。ザガルドアはシルヴィーヌを抱えたまま、真下に入ったアコスフィングァの背にゆっくりと音もなく着地した。


 急激な重力から解放されたシルヴィーヌは、なおも緊張状態のままだ。ザガルドアにしがみついたまま動かない。悲鳴だけは止まっていた。


 浮遊感がなくなっている。頭では理解できていた。身体がまだついてこない。


「よくえた。よく頑張ったな」


 ザガルドアの声が浸透しんとうしてくる。その声で、ようやく落ち着いたか。シルヴィーヌは恐怖のあまり、固く閉じていた瞳を開く。


 五フレプト程度の出来事は、彼女にとって永遠とも思えるほどのものだった。


 ザガルドアに抱え上げられたことは覚えている。それ以降は完全に記憶の外だった。とにかく無意識のうちに絶叫するしかなかった。ザガルドアにしがみついたことさえ覚えていない。それだけ無我夢中だったのだ。


 現状を認識したシルヴィーヌが、再び身体を硬直こうちょくさせている。言葉も出てこない。


「シルヴィーヌ第三王女、少しは落ち着きを取り戻せたか」


 首に回された両手から少しばかり力が抜けたことを察し、ザガルドアが言葉をかける。


「そなたの父上の承諾しょうだくを得たとはいえ、手荒な真似をしてしまった」


 父イオニアとはまた違う、張りのある、それでいて優しい声だった。


 シルヴィーヌは平静を取り戻しつつある。正気に戻るにつれ、現実が襲いかかってくる。この状況を直視するのが怖い。


(私、何とはしたないことを。このような姿をお姉様たちに。きっと見られていますね)


「高所が苦手なそなたがこの地に来ただけでも大したものだ。俺が何もせずとも、第一王女が何とかしたのだろう。刻一刻と過ぎていく時が惜しい。ゆえに、俺の独断で斯様かよう仕儀しぎに至った。恐怖を与えてしまったな。済まなかった」


 シルヴィーヌは恐縮しきりだ。相手はゼンディニア王国の現国王であり、しかも言葉では表現しがたい魅力を有している。


「あ、え、あ、いえ、私こそ、も、申し訳ございません」


 顔から火が出るほど恥ずかしい。


 これほどの至近距離で、ザガルドアと相対あいたいするのは無論むろん初めてだ。


 驚くほどに精悍せいかんな顔つき、さらに時折ときおり見せる少年のような笑みがシルヴィーヌの心を鷲掴わしづかみにしていく。


 王族の一員として、謁見えっけんの機会は過去一度もない。両国間の関係悪化が要因だった。初めて挨拶できたのは、ザガルドアが共闘のためにラディック王国を訪れたつい先日のことだ。


 実年齢を含めて、ザガルドアの出自しゅつじなどは一度たりとも聞いたことがない。見た目から想像するに、まだ若いはずだ。


「俺の顔に何かついているか、第三王女」


 じっと見つめ続けたまま動こうとしないシルヴィーヌを怪訝けげんに思ったか、ザガルドアが問いかける。


「は、また、私、重ね重ね、本当に申し訳ございません」


 気にさわったわけではない。真っすぐに向けられる少女の視線がいささか気恥ずかしいだけだ。


 ザガルドアは平謝ひらあやまりしてくるシルヴィーヌを、素直に可愛らしく思うのだった。


「謝る必要はない。それよりも、立てるか、ほら」


 右手一本でシルヴィーヌを抱えたまま、ザガルドアは彼女の両足をアコスフィングァの背にゆっくりと下ろしていく。それを少しばかり残念に思うシルヴィーヌだった。


 崖下の途中、降下地点からおよそ二百メルクほど下りた岩場にセレネイアとマリエッタの姿がある。途中でアコスフィングァを追い抜き、マリエッタの魔術制動によって無事に着地を終えていたのだ。


 二人の視線が上空、まさにアコスフィングァの背に降り立とうとしているザガルドアとシルヴィーヌに注がれる。


「あらあら、いったい何をしているのやら、困った妹だこと。それにしても、実に興味深いですわね。セレネイアお姉様もそうは思われませんか」


 マリエッタの悪いくせが出ている。小悪魔めいた笑みが如実にょじつに物語っていた。


「マリエッタ、いい加減にしなさい。それよりも二体です。まもなく来ますよ」


 セレネイアはいち早く気づいていた。恐らくザガルドアもフォンセカーロもだろう。


 グレアルーヴとディグレイオは、セレネイアたちよりもさらに二百メルクほど下りた岩場に陣取って魔霊鬼ペリノデュエズと激しく戦っている。そこから新たにこぼれ出たのだろう。


「セレネイア第一王女、一体は任せろ。もう一体を仕留めてくれ。信頼しているぞ」


 ザガルドアの声が届く。シルヴィーヌもこちらに向かって、ぎこちなく手を振ってくる。


「心得ました」


 セレネイアは力強く答えた。

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