第196話:魂は混沌へ還る
出口に向かって進む者たちの背を見送ったレスティーは、軽く右手を振った。
何をしたのか、カイラジェーネには分からない。周囲に変化もない。尋ねたい言葉を
「最後に見送ってくれるのが貴男だなんて。皮肉めいたものを感じるわ」
相変わらずの憎まれ口だ。予想どおり、返答はない。
レスティーは手のひらを開くと、再びカイラジェーネの身体に
「ど、どうして」
崩壊を始めていた身体が再構成されていく。二度目の奇跡を前に、カイラジェーネの言葉は途切れ途切れにならざるを得ない。
「そ、そんな、この力は」
カイラジェーネの視線が一瞬、トゥウェルテナの方へ向けられた。
「あの者たちに今の状況を見ることはできぬ。たとえ振り返ったとしても、見えるのは、そなたが崩壊していく姿のみだ」
安心したのか、それとも全く反対の気持ちか。カイラジェーネ自身でもよく分からない。
「そなたの死は
カイラジェーネは自らの意思によって、
天秤にかけたうえで、エトリティアとの約束が重かった。それだけのことだ。不本意とは言ったものの、そのために幾つも骨を折ったことを告げるほどに
「無理よ。貴男がどれほどの力を有しているのかは知らないけど、私を混沌に還すなんて。私は
これ以上ないというほどの冷酷な瞳に
「消滅するそなたへの
それは、エトリティアが死の
レスティーは、エトリティアの言葉をそのまま伝える。
「『私より先に
「これが最後だ。『たとえ、どれほどの時が流れようとも、必ず私がカージェの魂を見つけ出してみせますから』。そう言い残して、あの娘は息絶えた」
カイラジェーネの表情とは対照的に、レスティーのそれに一切の変化はない。ただただカイラジェーネを見つめるのみだ。
「ああ、エトリティア、貴女は、本当に、貴女は、馬鹿よ」
涙が止めどなく
「私にとって、貴女は初めてできた友達、そして
降り注ぐ黄金色の粒子がカイラジェーネを完全に覆い尽くした。彼女の身体は完全に復元され、輝きを放っている。
静けさの中に、
「その音色は、まさか」
レスティーの手から落ちる。カイラジェーネは両手を高く持ち上げ、壊れものを受け取るがごとく手のひらで受け止めると、優しく包み込む。
「言葉とともに、そなたに、と託されたものだ。エトリティアは己の命の一部を注ぎ、そなたの魂の欠片を
人は死して、肉体は滅び去り、魂は混沌へ還る。カイラジェーネの魂も、本来であれば命の炎が消えた時、混沌に還るはずだった。
彼女のあまりに激しい恨み、憎みが障害となり、魂は混沌の道を探し出すことができず、永遠に
それに気づいたエトリティアは、
「エトリティア、私などのために何てことを。やっぱり、馬鹿よ」
カイラジェーネは、柔らかな白を帯びた
およそ二千年の時を経て、二つの
「貴男、いえ、貴男様は」
尋ねたところで、答えは返ってこないだろう。カイラジェーネは
だから、話題を変える。
「エトリティアに会うべき資格が、私には」
冷酷な瞳は、幾分和らいでいた。
「私は、そなたを混沌へと還すと言った。そこから先、魂の
「混沌への道を開く。そなたの肉体は完全に消滅する。魂は解放され、混沌の中で溶け合う。どれほどの
レスティーは両手を軽く開くと、胸前まで持ち上げた。それに応じて、カイラジェーネの肉体がゆっくりと浮上していく。
同時に黄金色に
「貴男様に、そしてエトリティアに、心からの感謝を込めて」
笑みを浮かべた表情は、安らぎに満ちていた。
カイラジェーネが残した最後の言葉だった。
"Avelijn, Kaapoksul podrumslui."
レスティーの声が高らかに響く。
掲げた右手に導かれて、
音もなく、揺れもなく、地上へと抜けた
ここにいる、ありとあらゆるものの動きが停止した。
人も
呼吸さえ忘れてしまったかのように微動だにしない。全ての視線が一つの
「あれは、いったい」
そこかしこから聞こえてくる
「涼やかで美しい音色ですわね」
「でも、どこか、もの悲しさも感じます」
高度二千メルク地点に立つ三姉妹、先に言葉を発したのはマリエッタだ。応じたのはシルヴィーヌ、言葉を発するつもりはなかったものの、無意識のうちに口をついて出ていた。
交互に鳴り響く二つの音色は、あたかも会話をしているかのようだった。
高らかに澄んだ鈴の音が響き渡り、高度二千メルク地点を瞬く間に通過、勢いを衰えさせることなくはるか上空へと翔け上がっていく。それに伴い、二つの
首が痛くなるほどに見上げていた視界から、二つの
そして、光が爆散した。
僅か十メレビルにも満たない、それでいて誰もが心を奪われる光景だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「これは、いったい」
カイラジェーネの目の前には、色とりどりの花が咲き乱れる緑地が広がっている。
忘れもしない。初めてエトリティアと出会った砂漠の中の唯一の緑地帯、プラタヴェルと呼ぶ場所だった。
間違いなく肉体は滅び去り、魂だけの存在になったはずだ。カイラジェーネは混乱していた。
「こんなことが。きっと、夢か幻よね」
呆然としたまま立ち
「そうね。私たちの記憶から読み取った光景を具現化しているのよ。その意味では夢、幻よ。ようやく会えたわね、カージェ。ずっと、この時が来るのを待っていたわ」
その声を忘れるはずがない。振り向きざま、カイラジェーネは
「本当に泣き虫なんだから。出会ったあの時と変わらないじゃない」
「リティ、ごめんなさい、本当にごめんなさい。私、
一呼吸置いたカイラジェーネの背を優しく
「もうよいのよ。不幸の上に不幸が重なった結果なの。カージェにも、私にも、何もできなかったわ。いえ、私が貴女に真実を包み隠さず伝えられていたら何かできたかもしれない。違う道があったかもしれない」
今さら言ったところで
「私にこそ大きな責任があるし、間違っていたのは私も同じなのよ」
少しは落ち着いたか。ようやくエトリティアから離れたカイラジェーネが尋ねる。
「記憶を読み取ったものを具現化と言ったわね。リティは、これがどういうものか知っているの」
やや見上げる形のカイラジェーネに、エトリティアは優しく微笑む。
「ええ、あの御方、レスティー・アールジュ様からの
そのとおりだった。混沌の
この摂理は、レスティーでさえも
「貴女に出会えるまで、私に
強く抱き合う二人の
「リティ、もうこれでお別れなのね」
視覚が閉ざされる。
それでも、エトリティアが
「私は、
聴覚が閉ざされる。
エトリティアの言葉は感覚となって、カイラジェーネの意識の中に伝わってくる。
「ええ、きっとよ。私も信じているわ。今度は、私がリティの魂を探す番よ。待っていてね。どれほどの時がかかろうとも、必ずリティを見つけ出してみせるから。愛しているわ、リティ」
触覚が閉ざされる。
抱き合った二人は一つとなった。二つの魂が融合する。
「貴女が私に残してくれた言葉、本当に嬉しかったわ。だから、私も返すわね。私にとっても、カージェは初めてできた友達、そして掛け替えのない親友よ。今までも、そしてこれからもずっと、その気持ちに変わりはないわ。心から愛しているわ、カージェ」
全ての感覚が閉ざされた。
金色に強く輝く、融合した魂が改めて二つに分離、一度寄り添い、それから別々の方向へと飛び立っていった。
「必ずまた会えるわ」
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