第195話:凍える刻と白銀の力

 ときこごえている。完全なる静寂が空間を満たしている。


 動く者は、誰一人としていない。あらゆるものが止まっているのだ。


 飛翔を終えたトゥウェルテナの身体は、既に大地にある。小さく折り畳んだ様は、まるで羽を閉じて丸まった小鳥のようにも見える。


 カイラジェーネは、両手を左右に広げたまま微動だにしない。全身を覆い尽くしていた黒きもやは消失していた。


「また、エトリティアに、会えるかしら」


 カイラジェーネの口から、声にならない声がこぼれる。続けざまに、薄氷はくひょうを踏み割ったような音が静かに鳴り渡った。


 まさしく、終焉しゅうえんを告げる破壊音だった。


 カイラジェーネの身体が、ゆっくりとくずおれていく。振り向きざまのトゥウェルテナが湾刀を捨て、慌ててカイラジェーネにけ寄る。


「カイラジェーネ、目を開けて。お願いよ」


 トゥウェルテナが、カイラジェーネの身体を抱き締める。


「嫌よ、カイラジェーネ」


 カイラジェーネの身体は、既に崩壊を始めている。足下から、おもむろにちりかえっていく。トゥウェルテナには止める手立てはない。


「嬉しいわ。私のために、泣いてくれるのね。でも、自分を責めないで。魔霊人ペレヴィリディスになった時から、いずれこうなる運命だったのよ。貴女のせいじゃないわ」


 核を失った魔霊鬼ペリノデュエズがどうなるか。その悲惨さは、ここにいる者なら誰もが知っている。


 トゥウェルテナの瞳から、止めどなく涙があふれ出す。触れようとカイラジェーネが右手を持ち上げる。


 その右手も崩れ去っていく。


「ねえ、お願いよ。誰か、何とかして。このままでは、カイラジェーネが」


 誰も動けない。自分でも無理な願いだと承知している。それでも、願わずにはいられないのだ。


「トゥウェルテナ、行って。無様ぶざまに崩れていく私の姿を見せたくないの。だから、私をここに置いて、すぐに去りなさい。貴女には、まだまだやることが残っているわ」


 笑みを見せるカイラジェーネとは対照的に、聞き分けのない子供のようにトゥウェルテナは何度も首を横に振った。


「そんなことを言わないでよ。そうよ、私の師匠なら、絶対に何とかしてくれるはず。待っていて」


 トゥウェルテナは、この状況を必ずているであろう師匠のルブルコスに助けを求めた。もはや、ルブルコスにすがるしかない。切なる願いでもあった。


≪師匠、ほんのわずかの時でよいの。師匠の力をもって、何とかしてください。師匠なら、何とかできますよね。一生に一度のお願い、どうか、どうか≫


 トゥウェルテナの懇願だ。叶えられるものなら叶えてやりたい。どう足掻あがこうとも、無理なものは無理なのだ。


≪私の力など、たかが知れている。核を失ったが最後、魔霊鬼ペリノデュエズがどうなるかはお前も知っているであろう。我が神でもなければ、どうすることもできぬ。済まない。あきらめてくれ≫


 カイラジェーネがかすかにうなづく。悟っている。あきらめの境地だ。


「無理なのよ。誰であろうと、魔霊人ペレヴィリディスとなった私を救うことなどできないわ。それにね。核を埋め込む際の誓約があるのよ。どうにもならないわ」


 刹那せつな、強烈な光がほとばしる。光は波となって、トゥウェルテナを中心とした空間を強く揺さ振った。


 波がカイラジェーネの身体をさらうように、またたく間に包み込んでいく。


「その者に、少しばかりの猶予ゆうよを与えよう」


 カイラジェーネのすぐそばに一人の男が立っていた。


「レスティー様」


 トゥウェルテナの唇が震える。


 光波に包まれたカイラジェーネの崩壊が止まっていた。彼女の身体に、レスティーの手のひらから白銀に輝く粒子りゅうしが注がれていく。


「これは、夢、なの」

「カイラジェーネ、レスティー様が、レスティー様が」


 崩れ去ったはずの足も右手も復元されている。信じられない思いで右手を持ち上げたカイラジェーネに、レスティーがおごそかに告げた。


「エトリティアとの約束を果たすときが来た。そなたを生き返らせることは私にもかなわぬが、その者たちに触れられるようにしておいた。それも限られたわずかばかりの間だ。核を失った以上、長くはもたぬ。語るべきことがあるなら、急ぐがよい」


 カイラジェーネの視線がトゥウェルテナからレスティーに移る。エトリティアの名前が飛び出したことで驚きもした。


 今なら分かる。エトリティアが真愛の宝珠ロイントレペの記憶の中で語った、とある御方とは、目の前に立つ男のことだったのだ。


「そう、貴男だったのね。あの時、エトリティアに力を貸したのは。余計なことを」


 憎まれ口を叩こうとするカイラジェーネの言葉をさえぎったのは、レスティーではない。トゥウェルテナだった。


 今一度、力強く抱き締める。カイラジェーネは言いかけた言葉をみ込むと、苦笑を浮かべた。


「もう、世話のかかる妹みたいね。まさか、貴女に触れられるようになるなんて。貴男にも感謝しないと」


 レスティーは黙したまま語らない。


 カイラジェーネは、こぼれ落ちるトゥウェルテナの涙を右手でぬぐいながら、苦しそうに言葉をつむいでいく。


「トゥウェルテナ、時間がないわ。よく聞いて。魔霊人ペレヴィリディスは七人いるの。高位ルデラリズから取り出した七つの核を一つずつ与えられた。七つの核は、一つ一つ強さが異なっているわ」


 ジェンドメンダとカイラジェーネに与えられたそれは最弱の二つだ。残った五つを植えつけられた五人は、彼女たちとは比べようがないほどに強力で、高位ルデラリズにも匹敵するほどの力を有している。


「貴女たちの魔術や武器では倒せない。だから、助力をあおぎなさい。そこに立っている御方にね」


 恐ろしいことを平然と口にする。


 自らを最弱と称したカイラジェーネとの戦いでさえ、ここにいる十二将がほぼ総がかりで相対、ようやくにして倒せたのだ。


 倒せたといっても、真っ向勝負で勝ったわけではない。彼女の意思が変わらなければ、確実に全滅していただろう。その彼女よりも強い存在が他に五人もいる。正直なところ、絶望的でもあった。


「私もそうだったように、他の六人も同じよ。深い悲しみと苦悩にとらわれ、そこから決して抜け出せないでいる。それゆえに、私たちは私たちが神と呼ぶあの方の呼びかけに応じたの」


 その神とは、ディリニッツが指摘したとおり、やはりジリニエイユだった。魔霊人ペレヴィリディスも、ジリニエイユにとってはただの捨て駒に過ぎない。彼らは単なる兵器として、戦いの中で死する運命なのだ。


「だからこそ、貴女たちの力で悲しみや苦悩をぬぐい去り、無に帰してあげてほしいの」


 カイラジェーネとトゥウェルテナ、二人の視線が同時にレスティーに向けられる。


「その力は与えている。そなたが湾刀の刃を輝かせたように。他の者の中には、この戦いで機会が訪れるやもしれぬ。力は眠っている。目覚めさせるのはそなたたち自身、その方法も各々で異なる」


 カイラジェーネは瞬時に理解した。


 トゥウェルテナは視線もそのままに、怪訝けげんな表情を浮かべて固まっている。


「貴女の持つ湾刀がその力の一端いったんなのよ。あの御方は、他者にも与えたとおっしゃったわ。いつ、どのような時に、力が目覚めるかは分からないけど。勝てるかもしれないわね。もちろん、目覚めさせられたらの話よ」


 視線をカイラジェーネに戻したトゥウェルテナがたずねてくる。言葉ではない。疑問符だらけの表情でだ。


「どうしてかしら。貴女の背後に、本当にエトリティアがいるようだわ。彼女もそうだったのよ。言葉以上に表情、仕草で雄弁ゆうべんに語るの」


 持ち上げていたカイラジェーネの右手が、力なく落ちた。


 凍えていた刻が、ようやく動き出す。


「カイラジェーネ、身体が」


 再び崩壊が始まった。先ほどに比べると進行は緩やかだ。


「どうやら、ここまでのようね」

「嫌よ、カイラジェーネ、もう少し待ってよ。貴女とは、もっと」


 トゥウェルテナが、背後に立つレスティーを振りあおぐ。


「レスティー様、本当に、もう」


 レスティーはトゥウェルテナを見つめ、ただ一度だけ首を横に振った。


「ああ、カイラジェーネ」


 微笑んで見送りたかった。今のカイラジェーネには、それすらもかなわない。口だけを何とか動かす。


「トゥウェルテナ、行きなさい。すべきことを成すために。私は、ここで消え去るのみ。貴女に出会えて、本当によかったわ」


 レスティーがすぐそばで控えているヴェレージャとディリニッツに合図を送った。


かしこまりました」


 二人の声が重なり、即座に行動に移る。


 トゥウェルテナは、カイラジェーネを抱き締めたままうずくまっている。その彼女を両横から抱え上げる。なすがままのトゥウェルテナに二人が声をかけた。


「行くわよ、トゥウェルテナ。ここで立ち止まっているわけにはいかないわ」

「カイラジェーネの最後の願いだ。叶えてやるのがお前の責務だろう」


 二人に両脇から抱えられたトゥウェルテナが力なくうなづいた。涙が止めどなくあふれる。


「さようなら、カイラジェーネ。さようなら」


 別れの言葉を口にする。今のトゥウェルテナにできる、精一杯のことだった。


「行くがよい。ここは私が引き受ける」


 レスティーの言葉を受けて、残った者たちも立ち上がる。トゥウェルテナを抱えたままのヴェレージャとディリニッツを先頭に、一同は目前に迫った坑道出口に向かって歩み出した。


 何度となく振り返るトゥウェルテナに、ヴェレージャが何かささやいたように見えた。それ以降、トゥウェルテナが振り返ることはなかった。

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