第186話:魔術詠歌

 セルアシェルの魔術は、あくまで陽動にすぎない。


 本命は影の中にいるディリニッツだ。影を移動しながら、詠唱は成就じょうじゅしている。いつでも闇溜やみだめを発現させられる。準備万端だ。


「闇に包まれて死になさい」


 カイラジェーネの両手がセルアシェルに向かって突き出された。


「これは」


 言葉がれる。両手が伸びきる前に封じられていた。カイラジェーネの足元、そこに闇溜が展開されている。


「これはまた珍しいものを出してきたわね。私の時代でも、ほとんど使い手がいなかったわよ」


 闇溜から飛び出した数本の闇の腕ワギュロヴが、カイラジェーネの両手をからめ取っていた。強大な力で闇溜の中へ引っ張り込もうとしている。


「あらあら、私のような淑女しゅくじょに少々乱暴でなくて」


 余裕があるのか、笑みを浮かべている。いや、貼りつけているといった方が正確か。


「無駄な抵抗はするな。いかにお前が強くとも、闇の腕ワギュロヴからはのがれられない」


 ディリニッツの言葉を受けても、カイラジェーネの態度に変わりはない。闇の腕ワギュロヴの力をものともせず、平然と闇溜の中に立っている。


「両手を封じられていては仕方がないわね。大量の魔力を消費するから、こんなところで使いたくはないけど」


 カイラジェーネは深く息を吸い込むと、ゆっくりと時間をかけて吐き出していく。精神集中に入った証拠だ。


 そして口ずさむ。ここに来て、初めて見せる彼女の魔術だった。


「パーシェ・ルーアヴ・ミーリー・ウーフィ

 ペクテ・ベレーエ・イーシェ・ニエミィ

 キーリニー・ヴィジェ・ニム・ゼレーネ

 ロワラ・レヴェミー・シェス・フィリィ」


 魔術行使に絶対不可欠な詠唱ではない。彼女のくちびるからつむぎ出されていく一つ一つの音が、旋律せんりつとなって坑道内に反響する。


 調べは聞く者の胸の内へと浸透していく。カイラジェーネが奏でた音、それは紛れもなく歌だった。


「いかん。これは魔術詠歌えいかだ。よもや、使い手が残っていようとは」


 ギリエンデスが叫ぶ。


 今の時代における魔術詠唱は、主物質界において魔術を具現化する鍵を開くためのもの、すなわち体系化された魔術言語を読み上げることによってされる。


 かたや、カイラジェーネの用いた魔術詠歌は、鍵を開くためのものであることは同じだ。そして、体系化されていない散逸さんいつした無数の魔術言語を扱う。その組み合わせは無限とも言えよう。


 カイラジェーネが生きた時代の魔術師にとって、優劣は非体系化魔術言語をいかに自在に操れるかで決まった。それらを組み合わせ、歌として奏でることで魔術を行使するのだ。


 さらに、歌は声の調子で変幻自在、緩急、強弱、高低、様々な要素で構成される。言葉と音、二つの組み合わせによって、一つの旋律内で幾つもの魔術を織り込むことができる。それが魔術詠歌なのだ。


 かつて一世を風靡ふうびした魔術詠歌がいつ衰退すいたいし、存在さえ知られなくなったのはなぜか。分かる者はいない。


 千余年前に生きていたギリエンデスでさえ、ほんの一端いったんしか知らないのだ。


 カイラジェーネの魔術詠歌からは誰も逃れられない。影響はすぐさま現れた。


「魔術詠歌を知る。さすがは魔人族ね。でもね、知識だけではどうにもならないのよ。理解していない証拠ね。していたなら、私の前に無防備で突っ立っていないものね。あら、私としたことが。もはや意識朦朧もうろう状態ね」


 残忍な笑い声が木霊こだまする。


 カイラジェーネの声が頭に入ってこない。もやがかかったかのごとく、意識が薄れていく。強烈な眠りに支配され、全くあらがえない。


 魔術耐性の高い魔人族でさえ、この有様なのだ。人族の者たちは言うに及ばずだった。既に騎兵団の者はことごとくが倒れている。


 ディリニッツを除く十二将は辛うじて立っているものの、そろそろ限界に近づいている。このままでは確実にカイラジェーネの餌食えじきだ。


 頼みは、ディリニッツが行使している闇の腕ワギュロヴだ。それさえも様子がおかしい。カイラジェーネを闇溜に引き込む力が急速に弱まっているのだ。


「残念だったわね。闇の腕ワギュロヴも、私の魔術詠歌からは逃れられないわ。闇に生きるものたちにとって、最も苦手な力は何かしらね」


 闇の腕ワギュロヴの力が減衰している要因、それは闇の腕ワギュロヴまとわりついた、おびただしいばかりの光の粒だった。


 粒は肉眼でも分かるほどにきらめき、動いている。うごめいている。


 光蠢蟲フルヴドゥだ。


(まずい。このままでは全滅だ。我が何とかしなければ。我が心の主よりおおせつかったのだ。この者たちを何としてでも坑道出口までいざなわねば。今の我に何ができる。考えるのだ)


 ギリエンデスは強烈な眠りに耐えながら、状況打破のための手段を考える。焦燥感が邪魔をする。さらに意識が混濁してきた。足がもつれる。


(このようなところで立ち止まるわけにはいかぬ。我が配下のものたちは)


 カイラジェーネの魔術詠歌は、闇の腕ワギュロヴにさえ有効なのだ。死霊団も同様と考えるべきだろう。彼らもその場に固まったまま動かない。


「さあ、光蠢蟲フルヴドゥよ。この鬱陶うっとうしい闇の腕ワギュロヴを食らい尽くしなさい」


 常に飢えている光蠢蟲フルヴドゥは、特に闇に生きるものを好んで捕食する。まさしく悪食あくじき、一体一体は極小、それが群れになった時、初めて恐ろしさを発揮する。


 手当たり次第にむさぼり食い、残骸さえ残さない。それゆえに、光蠢蟲フルヴドゥの恐怖を知らない者がほとんどなのだ。運悪く出会ったら、最後だと思った方がよい。


「馬鹿な、闇の腕ワギュロヴを食っているだと。あり得ない」


 今や、ディリニッツの戦略は根底からくつがされている。闇の腕ワギュロヴでカイラジェーネを闇溜に引きずり込み、そのまま消滅させることが最重要戦略だったのだ。


 完全に引きずり込めずとも、拘束状態で、ある程度は封じ込められるだろう。目論見もくろみは完全に瓦解がかいしていた。


 闇の腕ワギュロヴが、みるみるうちに食われていく。それに伴い、光蠢蟲フルヴドゥの輝きが増していった。群れが肥大化、いっそう強いきらめきを放っている。


「まもなく片づくわね」


 カイラジェーネの両手を封じていた闇の腕ワギュロヴは消え失せ、自由を取り戻している。闇溜の規模が縮小していく。


 カイラジェーネの足元には光蠢蟲フルヴドゥが群れとなって集い、次なる命令を待っている。


「待たせたわね。この私に傷をつけた女、お前の番よ。光蠢蟲フルヴドゥ餌食えじきにしてあげるわ。さぞかし恐怖よね。少しずつ食われていくの。痛いわよ。想像を絶するほどにね。恐怖と苦痛にゆがんだお前の顔、存分に見せてもらうわ」


 セルアシェルは何とか倒れずに踏ん張っていた。倒れた瞬間に終わりだ。待つのは死のみだ。ここで死ぬわけにはいかない。


 強烈な眠気に負けないよう、両腕をつかんで、五本の指の爪全てをその柔肌やわはだに食い込ませていた。血が流れるのもいとわない。


 くちびるがかすかに震えている。カイラジェーネの魔術詠歌が浸透しきっている今、できることと言えば対抗魔術をもって、少しでもその効力を弱体化することだけだ。


「ゲーリ・オラーウェ・イスプ・ガナ

 ウェーアン・ゼドレイ・アレ・プシス」


 セルアシェルの抵抗が続く。


「ゲーリ・オラーウェ・イスプ・ガナ

 ウェーアン・ゼドレイ・アレ・プシス」


 二重詠唱も、時と場合による。意識が明瞭でない時の詠唱は、予期せぬ事態を招きかねない。


≪セルアシェル、待っていろ。今、助けにいく。それまで何としてでもこらえろ≫


 闇溜が完全に破られた今、ディリニッツにできることといえば、再び影にもぐり、セルアシェルを救出することだ。


 ディリニッツが影を移動してセルアシェルに辿たどり着くのが先か、それともカイラジェーネの命のもと、光蠢蟲フルヴドゥがセルアシェルを取り込むのが先か。


「あら、対抗魔術を唱えるだけの力がまだ残っていたなんて。少しは見どころがありそうね。ぞくぞくさせてくれるわね。さあ、もっと、もっと抵抗してみなさい。そして、私を楽しませるのよ」


 カイラジェーネの声がセルアシェルの意識をなおも奪い取っていく。このままでは倒れてしまう。そうなれば悲惨な死はまぬかれない。


光蠢蟲フルヴドゥに食わせはするけど、その綺麗な顔だけ傷つけずに残してあげる。鑑賞用として永久保存してあげるわ」


 カイラジェーネの不敵な笑い声だけが空間を満たしていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る