第153話:マリエッタの危機

 マリエッタは一人、ファルディム宮左翼最上階の自室に向かっている。


 本来であれば、戻るやいなや、玉座の間で国王イオニアに無事の帰還ならびに視察結果の報告におもむくべきところだ。


 アーケゲドーラ大渓谷での魔術行使で、衣類はもちろん髪も幾分くさく感じられる。さらには、マリエッタにとって嬉しい誤算でもあった有翼獣に騎乗するという名誉も得られた。


 それ相応の汚れやにおいは仕方がなかった。国王イオニアは実の父でもある。多少の無礼は許されるに違いない。


 そうは思うものの、マリエッタは性格ゆえ、たとえ父であっても薄汚れた姿は見せたくない。三姉妹にあって、最も綺麗好きな彼女らしい一面でもあった。


「あら、マリエッタお姉様、お戻りでしたか」


 通路の向こうから、声をかけてきたのは妹で第三王女のシルヴィーヌだ。小走りで近寄ってくる。その姿が何とも愛らしい。


 マリエッタは自然とほおが緩んでいく。二つ違いの妹、年齢とともに小憎こにくたらしい部分も増えている。それでも、この妹が可愛くて仕方がないのだ。


「お姉様、この匂いはいったい何なのですか」


 抱きつかんばかりの勢いで近づいたシルヴィーヌが、たまらないとばかりに顔をそもける。はしたないと思ったか、さすがに直接鼻を押さえるような行為はしない。そこから一歩も前に進まず、立ち止まる。


「え、ああ、やはり。自分ではなかなか気づかないものね。私にとっては、何とも思わない匂いでも。ねえ、シルヴィーヌ」


 マリエッタが、シルヴィーヌに近寄ろうと一歩踏み出す。慌てて、シルヴィーヌが一歩下がる。それを二度、三度と繰り返す。マリエッタの頬が自然と膨らんでいく。


「ちょっと、シルヴィーヌ、どういうことかしら。なぜ、離れていくのよ」


 詰め寄るマリエッタを鮮やかにかわしつつ、シルヴィーヌが言葉でも軽やかにいなした。


「マリエッタお姉様、既にお気づきではありませんか。それよりも、お父様へのご報告がまだなのでしょう。一刻も早くお着替えなさってください」


 いつの間にか、マリエッタの自室前に立つシルヴィーヌが素早く扉を開き、マリエッタに入室を促す。


「もう、本当にこの子ときたら。分かったわよ。すぐに着替えてくるわよ」


 年下のシルヴィーヌに、いつも主導権を取られがちのマリエッタだ。百面相のごとく、目まぐるしく表情を変えつつ、口では全くかなわないことも悟っている。ため息混じりに、渋々といった様子で室内に入っていく。


「マリエッタお姉様ったら、子供みたいなのですから。私がしっかりしないと仕方がありませんわね」


 シルヴィーヌも、相手がマリエッタだからこそ、この手の発言をしているのだ。マリエッタも当然理解している。仲睦まじい二人の関係だった。


(それにしても、マリエッタお姉様から妙な気配を感じました。ほんの一瞬のことでしたので、私の錯覚かもしれませんが。何事もなければよいのですが)


 一度気になってしまうと、とことんこだわる性格のシルヴィーヌだ。マリエッタを室内に放り込んだら、すぐにでも別の場所へ移動するつもりだった。思いとどまり、マリエッタが出てくるのを待つ。


 十五メレビルほどった頃か、それまで聞こえていた室内からの物音が全くしなくなった。マリエッタの着替えが終わったのか。シルヴィーヌは声をかけるべきか迷った。


 いくら姉妹であっても、許可なく扉を開けるような真似はできない。このままマリエッタが出てきてくれたら、シルヴィーヌの心配は杞憂きゆうに終わる。もしも、出てこないとなれば非常事態だ。


「マリエッタお姉様、着替えは終わられたのですか」


 扉の前から声をかけてみる。応答はない。シルヴィーヌはただ首を横に振って、扉を、さらには扉の向こう側を凝視する。


 シルヴィーヌの魔力量は、セレネイアとマリエッタの中間辺り、ヒューマン属が有する平均魔力量よりやや上といった程度だ。


 セレネイアのように剣技に、マリエッタのように魔術、とりわけ直接攻撃系にすぐれているわけでもない。


 シルヴィーヌがセレネイアよりもマリエッタよりも優れている点、それは魔力を薄く伸ばし、網のように広げる感知系、魔力探知能力、そして魔力制御能力なのだ。


(マリエッタお姉様、ごめんなさい。シルヴィーヌは非常事態と判断いたしました。やむを得ず、お姉様の部屋の隅々まで魔力探知いたしますわ)


 頭脳明晰で鳴らすシルヴィーヌだ。もう一つの肝心なことも、決して忘れていない。


≪セレネイアお姉様、非常事態発生です。今すぐに、マリエッタお姉様の部屋までお越しいただけないでしょうか≫


 セレネイアがファルディム王宮内にいることは分かっている。即座に応答が返ってくる。


≪分かったわ、シルヴィーヌ≫


 その言葉だけで十分だった。理由を問う必要もない。シルヴィーヌが非常事態と判断したのだ。それを疑うセレネイアではなかった。


 セレネイアが動いてくれたら、間違いなく彼も動いてくれる。シルヴィーヌの頭の中では、既に戦略ができ上がっている。


 瞳を閉じる。両脚を肩幅かたはば程度まで広げ、両手をやや前に突き出す。マリエッタの部屋の扉に向け、精神を集中、体内の魔力をゆっくりと練り上げていく。


 練り上げた魔力を、今度は限りなく薄く広げていく。全方位でない分、制御も楽だ。楽と言っても、集中力を切らせてしまっては元も子もない。


 その証拠に、制御を始めてからわずか五メレビルで、シルヴィーヌの額には玉のような汗が浮かび上がっている。


 シルヴィーヌが織り上げた魔力の網が、マリエッタの室内に浸透していく。内部の様子がシルヴィーヌの脳裏に鮮明に描き出されていった。


(な、何ですか、これは)


 つた状のものが室内を縦横無尽に覆っているのだ。あまりの衝撃に、思わず集中力が途絶えそうになってしまう。


 シルヴィーヌは懸命に制御し直すため、張り巡らされた魔力網に、再度魔力を流し込んだ。


 最優先ですべきことを行う。すなわち、マリエッタが無事か否かの確認だ。


(お姉様は。見つけた)


 衣装棚のすぐそば、そこにマリエッタが倒れていた。倒れていたと言っても、彼女の姿は一切確認できない。何しろ、蔦状のものでまゆのごとく覆い隠されているのだ。


 マリエッタが先ほどまでまとっていた衣類が床に落ちている。清潔な衣類に着替えたところを襲われたようだ。蔦状のものは、彼女が着用していた衣類から根を生やしたかのように複数の幹を伸ばしている。


(息は、しています。マリエッタお姉様はご無事のようですが、この状態でははっきりとしたことが分かりません。私にもっと強い力があれば)


 歯痒はがゆい思いをみ締めつつ、シルヴィーヌは幾分感情を魔力に乗せてしまった。そのせいで魔力が揺らぐ。


 揺らいだ魔力は、すなわち異物だ。蔦状のそれは異物を即座に感知した。


「シルヴィーヌ、マリエッタは無事なのですか」


 大慌てでやって来たセレネイアが背後から声をかける。刹那せつなすさまじい衝撃がマリエッタの室内を駆け抜けていった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 ファルディム宮屋上に、甲高い硬質音が響き渡った。宙を割って、魔術転移門が出現、その中から勢いよく飛び出したのは二頭の有翼獣アコスフィングァだ。


 続けざまに、フィリエルスとフォンセカーロが降り立つ。即座にアコスフィングァの背に騎乗、竜笛アウレトは不要だった。両翼を大きく羽ばたかせた二頭が急上昇に移る。


「マリエッタ殿はその中です。頼みましたよ」

「やれ、フィリエルス、フォンセカーロ」


 ビュルクヴィスト、そしてザガルドアが魔術転移門内から叫ぶ。


 ビュルクヴィストの用事はまだ終わっていない。フィリエルスたちが上空へと飛翔したことを確認した後、速やかに魔術転移門を閉じた。


「させるものですか」


 巨大な蔦状の妄念塊もうねんかいが、二頭のアコスフィングァを敵と認めた。マリエッタが内包されてしまっている以上、迂闊うかつな攻撃はできない。


 妄念塊のみなら、炎をもって焼き尽くすか、あるいは氷をもっててつかせてしまうか。それ以外にも取るべき手段は幾つもあるだろう。


「傷一つつけずに、マリエッタ殿を救出、そのうえで妄念塊を滅する。言うはやすく行うはかたし、ね」


 妄念塊の猛襲をたくみに躱しつつ、フィリエルスもフォンセカーロも有効な手立てが思いつかない。


 その時だ。粉々に吹き飛んだ窓から一人の男が姿を見せた。


「助力いたしますよ」

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