第137話:アーケゲドーラ大渓谷の事前視察

 アーケゲドーラ大渓谷が眼下に広がっている。


 まさに、百聞ひゃくぶん一見いっけんにしかずだ。いくら膨大な資料を読みこなしていても、実際に目で見てみると、その違いを痛感させられる。アコスフィングァの背に立つフィリエルスは、いっそうその思いを強くしていた。


 フィリエルスがゼンディニア王国最強の空騎兵団を率いるようになって、かれこれ五年がとうとしている。


 今や、彼女を中心に空騎兵団は向かうところ敵なし、常勝無敗を貫いている。団員たちのたゆまぬ努力はもちろんのこと、戦場の見定めを己の目で行い、最適な布陣を敷く。これに尽きた。


 上空は一見有利に見えて、実際はそうではない。平原だけでなく、森林や水中、地下など、戦場は千差万別だ。敵はどこにひそんでいるか分からない。機動性と視界を奪われてしまったら、最強の空騎兵団といえど、全滅する可能性もある。


 フィリエルスたちがいるのは、アーケゲドーラ大渓谷で最も低い高度およそ二千メルク地点だ。さすがに高度八千メルクにも及ぶ最高地点にまでは飛行できない。少なくとも、あと二千メルク程度は上昇できそうだった。


 それ以上に気になるのは真下だ。視線を向ければ、谷底が豆粒のようにかすかに見える。もう少し降下して、地形などを確認したいところだ。


 竜笛アウレトに、ゆっくりと息を吹き込む。


 降下指示を出すも、アコスフィングァは決して従おうとしない。二度、三度と竜笛アウレトを通して指示を送るも、徒労とろうに終わった。


 有翼獣はとりわけ魔力に敏感だ。これ以上、近づくべきではないと本能的に感じ取っている。


「このおぞましさ、身が震えるわね」


 谷底にうごめく冷たい鬼火おにびの光が幻想的だ。青白い発光が、ほのかに明滅し、こちらへ来いとしきりにいざなってくる。


 魔力量がそこまで多くないフィリエルスでさえ実感している。アコスフィングァの反応は至極しごく当然だ。


 ここにいてはみ込まれる。フィリエルスは早々に切り上げようと、一緒に連れて来ている四人に対して離脱の合図を送ろうとした。


 竜笛アウレトを口に当てる。その前に、副団長フォンセカーロから警告の竜笛アウレトが届いた。何事かと振り返る。


「総員、避難」


 咄嗟とっさのことで、思わず言葉が先に口をいて出てしまっていた。上空では、声が届くことはほぼない。そのための竜笛アウレトでもある。


 急ぎ、フィリエルスは竜笛アウレトに息を吹き込み、団員たちに離脱を急がせる。


 いち早く反応していたフォンセカーロが三人の団員を先に行かせ、その後ろから速度を上げながらこちらにやって来る。


「団長、このままでは引きずり込まれてしまいます。迎撃するか、さらに上空へと退避するか」


 すぐ隣に位置したフォンセカーロが対応を尋ねてくる。どこからいて出てきたのか、青白く光るつた状の何かが迫ってくるのだ。


 谷底の鬼火たちの仕業しわざか、さらには高度二千メルクまで、いったいどうやって上ってきたのか疑問は尽きない。


「もちろん退避よ。このまま一千メルク程度なら上昇できるでしょう」


 フィリエルスは周囲につどった他の団員たちにも見えるように、人差し指を上に示した。上昇の指示だ。


 それぞれが竜笛アウレトをもって、フォンセカーロはアコスフィングァに、他の三人はラグリューヴに上昇を命じた。


 ラグリューヴとは、左右一対の翼を持つ白銀色の巨大鳥で、鋭利なくちばしと体側に走る二筋の深紫こきむらさきが特徴だ。


 アコスフィングァに比べると、一回り以上小型で俊敏性にも優れている。気性は比較的穏やかで、知能はアコスフィングァよりも高い。


 命令を受諾した有翼獣たちが、垂直にも近い形でただちに上昇を開始する。


「団長、追いつかれます。このままでは」


 焦燥しょうそうられるフォンセカーロに対し、フィリエルスは冷静沈着に、かつ即座に判断を下す。竜笛アウレトで二つの命令を出す。


 ラグリューヴをる三人には、そのまま上昇を続け、安全地帯まで避難した後、その位置で待機だ。


 自身とフォンセカーロは、その場で即時反転、迫り来るつた状の物体に向けて攻撃を行う。


「こんなところまで鬱陶うっとうしいのよ。フォンセカーロ、やってしまいなさい」


 急降下に入ったフォンセカーロの手には長槍が握られている。


「これでも食らいなさい。氷霜舞柱疾刺撃ラグスティユル


 レスティーとの戦いで見せた槍術そうじゅつ奥義だ。あの時は床面、すなわち大地の水分を凍結させての氷柱つらら攻撃だった。今回は高度二千メルクの上空だ。大気中の水分を集めればよい。


 うなりをあげて突き進む長槍の周囲に、次々と氷が生じている。長槍が蔦状の物体と衝突した。氷は蔦状の物体にまとわりつくと、その面積を広げ、厚みを帯び、瞬時に凍てつかせていく。


 大気中にはあり余るほどの水分が含まれている。水を呼び寄せ、氷に変え、そして凍結させる。それを延々と繰り返すのだ。これこそがフォンセカーロの氷霜舞柱疾刺撃ラグスティユルだ。


「まだよ、フォンセカーロ」


 完全に凍結した蔦状物体はくだけ、谷底へと落下していくものの、それを上回る数の物体が次から次へといて出てくる。きりがない。


 長槍は旋回を終えて、再びフォンセカーロの手に戻っている。体力の続く限り、長槍を投擲とうてきし続けるか、あるいはすきを見て上昇するか。


「もう一度だけ投擲を。長槍が戻ってきたら即時離脱、上昇に転じるわよ」


 フォンセカーロがフィリエルスの意を受けて、再び投擲の動作に入る。まさに、投げ下ろそうとしたその時だ。


「駄目よ。人がいるわ。あの断崖絶壁の上、三人いるわ」

「襲われています。すぐに助けに向かいます」


 フィリエルスは、その必要はないとばかりに首を横に振る。怪訝けげんな表情を浮かべて団長を見るフォンセカーロは、次の瞬間、彼女が正しかったことを知る。


 爆裂音がとどろき、空中に幾つもの業火ごうかの花が咲き誇ったのだ。


「距離を置くわよ。このままだと炎に巻き込まれてしまうわ」


 炎が生み出す高熱の余波が上空にまで伝わってくる。フィリエルスもフォンセカーロも竜笛アウレトを操り、アコスフィングァに急上昇を命じた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「おお、素晴らしきかな。ここがかのアーケゲドーラ大渓谷なのですね。念願かなって、私はこの大地に足をつけています。何と雄大で壮観な光景でしょうか」


 心の思いの独白は全て筒抜つつぬけだ。少し距離を置いて立つ二人が、心底しんそこあきれている。


「モルディーズ、感動にひたっている場合ではないのですよ。目的を忘れたのですか。ここには事前視察にやって来ているのですよ」


 少女が辛辣しんらつな言葉を投げつける。


「これは大変失礼いたしました。マリエッタ様、早急に調査を済ませてしまいましょう。それにしても見渡す限りの断崖絶壁、最も低いと言われている高度二千メルク地点でこれですからね。大規模な軍を配置するなど、到底できそうにありません」


 地質学に造詣ぞうけいが深いモルディーズの言を待つまでもなく、誰が見ても明白だ。平坦な場所は皆無、足元には大小様々な岩石が転がり、行く手をはばんでいる。


 加えて、高地ならではの気温と酸素濃度も問題になってくる。


 高度二千メルクの地点なら、防寒対策さえおこたらなければ問題ないだろう。その上によろいを着こめば万全だ。酸素濃度も平地よりは若干薄くなるが、すぐに影響が出るようなものでもない。


 これ以上の高度となると話が変わってくる。決戦場所はアーケゲドーラ大渓谷と分かっているだけで、そのどこなのかまでは特定できていないのだ。


「騎兵団がまともに動けるのは、ここから一千メルクほど上がった地点までだろうね。それ以上の高度となると、魔術師でもなければ無理だね」


 言葉を発したルシィーエットの考えにマリエッタも同感だ。


「我が王国の騎兵団のほとんどが平地での戦いを主としています。このような足元、しかも酸素の薄い場所での戦いは経験したことがありません。ここで戦えと言われたら、全滅の可能性さえあります」


 ルシィーエットがうなづく。燃えるような深紅の長い髪が、吹きすさぶ風に乱されている。ルシィーエットは気にも留めず、なすがままに任せている。


「あ、ちょっと、モルディーズ、危ないわよ」


 目を離した隙に、モルディーズは断崖絶壁のへりまで歩を進めていた。眼下をのぞき込んでいたのだろう。マリエッタの声を聞くよりも早く、腰を抜かしてしまっている。その場に尻もちをつき、慎重に後退してくる。


「マ、マリエッタ様」


 その声が震えている。ちょうど覗き込んでいた位置だ。すさまじい勢いで、青白く光る蔦状の物体が、幾本も突き出してきたのだ。

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