第129話:エレニディールの危機

 エレニディールははたと気づく。おもむろに上着のそでをまくり上げる。


「ようやく気がつきましたか。貴男にしては随分と迂闊うかつでしたね。大気以上に、大地を気にしているようでしたから、私としてもひやひやしました。いつ気づかれるのかとね」


 クヌエリューゾの性格からして、万全のうえにも万全を期さなければ気が済まない。特に、エレニディールが相手では慎重にならざるを得ない。


 クヌエリューゾの狙いは、エレニディールの魔術だ。正確に言うならば、二つある。


 一つは魔術行使のための詠唱だ。詠唱は、その身体に風をまとった状態では不可能で、そのために風を解除しなければならない。詠唱とは、かくも不便なものなのだ。


 もう一つはエレニディールに複数の魔術を行使させることだ。残念ながら、エレニディールはここまで二度しか魔術行使をしていない。ゆえに時間がかかってしまった。


「ようやくです。効果が目に見える形で現れ始めました。私の香の威力、いかがでしょうか。貴男もご存じでしょう。呼吸は口や鼻だけでするものではないのです。今、貴男が見ているものも立派に呼吸をしているのです」


 エレニディールの左腕、ひじ下の皮膚が変色している。薄紫うすむらさきに染まっている。恐らくは、既に全身に回っているに違いない。


「皮膚呼吸ですね。風を解除したあのわずかな時間で、貴男の香が私をとらえていたのですか」


 エレニディールが苦しそうに左膝を落とした。


「ご明察です。香は目に見えません。においも完璧に取り除いています。大地に行き渡らせていた私の香を貴男のどこか一部に忍び込ませる。その機会だけを捉えればよかったのです」


 エレニディールは、最初からクヌエリューゾの術中だったのだ。里全域が彼の掌中にあることは分かっていた。だからこそ警戒してきたつもりだった。クヌエリューゾの方が一枚上手だったということだ。


「もはや、フィヌソワロの里内で魔術発動はかないません。重力場と香術によって、貴男の身体もまもなく動かなくなるでしょう。エレニディール、みです」



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 大気を揺らし、衝撃音がけ抜ける。


 ヴェレージャとディリニッツは思わず互いの顔を見合わせ、即座に魔力探知を向ける。今、二人がいるのは、ちょうど真南に位置する里の出入口だ。


 衝撃音は三方向、北と東西、里からの一方通行出口より伝わってきている。


「何だ、この悲鳴は」


 衝撃音に続き、同時に上がる苦悶くもんに満ちた叫び声が鼓膜こまくを震わせる。


「ディリニッツ、最悪だわ。ここと同じ状況よ」

「ああ、魔霊鬼ペリノデュエズに間違いない。しかも、同時に三体だ」


 二人がほぼ全力で立ち向かって、ようやく中位シャウラダーブ一体を倒すのが精一杯なのだ。現実を直視すれば、到底三体もの魔霊鬼ペリノデュエズを相手にできる状況ではない。それは百も承知だ。


「エレニディールは私を一時離脱させるため、里内に残ってクヌエリューゾと対峙たいじしているわ。決して魔霊鬼ペリノデュエズどもをクヌエリューゾと合流させては駄目よ。私たちで何としてでも食い止めないと」


 ヴェレージャの言葉に、絶望はなくとも、悲壮感がただよっている。北と東西、三体の魔霊鬼ペリノデュエズを同時撃破するのは不可能だからだ。


 こちらは二人しかいない。しかも距離がある。個々に撃破できたとしても、二体同時が関の山、一体は確実に取りこぼすだろう。


「三体同時撃破が理想だが、広範囲で効力を発揮する魔術を持ち合わせていない。まずは二体の確実な撃破を最優先にしよう。残り一体は、どう足掻あがいても間に合わない。エレニディール殿には、さらに負担をかけてしまうな」


 エレニディールは、魔術高等院ステルヴィアが誇る三賢者の一人だ。ヴェレージャの魔術の師匠でもある。きっと二人の知識が及ばない魔術を有しているだろう。希望を持って信じるしかない。


「そうね。だからこそ、私たちは義務を果たすのみよ。できる限りすみやかにね。私は東に向かうわ。貴男は最も離れた北に向かってくれるかしら。ここでなら、操影術そうえいじゅつも使えるでしょう」


 ディリニッツが了承の意を込めてうなづく。操影術を発動させかけた途端、再びの異変が二人の動きを封じた。


 すさまじい咆哮ほうこうが響き渡る。苦悶などという生易なまやさしいものではない。憎悪ぞうお怨嗟えんさ嫉妬しっと、破滅、憤怒ふんぬといったあらゆる負の感情がないぜになった、まさしく断末魔だった。


「馬鹿な。いったい何が起こったというのだ。自滅した、だと。魔霊鬼ペリノデュエズが自らの意思で、いや、それは絶対あり得ない」


 二人も何が起きたのか、厳密な意味で理解できていない。魔霊鬼ペリノデュエズの断末魔、周辺のよどみと魔力の流れ、禍々まがまがしさが薄れていくことから、自滅したという事実だけは納得できた。


 それ以外の事柄ことがら、理由や目的といった全てが、論理的思考外にある。一方で安堵する気持ちも少なからずある。


 まずは、エレニディールの待つ里内に魔霊鬼ペリノデュエズが侵入せずに済んだこと、また自分たちが魔霊鬼ペリノデュエズと戦闘せずに済んだことからだ。


「戦わずに済んだのは幸いね。魔力も多少は温存できたわ。急いでエレニディールの待つ中心部に戻らないと。ディリニッツ、貴男も一緒に来て」


 ヴェレージャに言われるまでもなく、もとよりディリニッツもそのつもりだ。


 二人が里内へ再び足を踏み入れようとした瞬間だ。フィヌソワロの里が激しく揺さ振られた。里の外にいた二人も、立っているのがやっとという状態だ。


「離れろ、ヴェレージャ」


 ヴェレージャの腕を強引に取って引き寄せると、ディリニッツは躊躇ためらわず影にもぐった。


 二人が倒した魔霊鬼ペリノデュエズ死骸しがいを起点に、漆黒の魔力柱まりょくちゅうが立ち上がる。北と東西、三ヶ所でも同様だ。


 計四本の魔力柱が、腕を伸ばすようにして漆黒しっこくの円陣を描き出していく。さらに、里の中心部辺りから、もう一本の魔力柱が天に向かって伸びていく。


 五本となった魔力柱がはるか上空で結びつき、フィヌソワロの里を内包する形で巨大なふたを作り上げていく。


 里の外、さらに距離を置いて影から出てきたディリニッツは、舌打ちせざるを得なかった。


「まずいぞ。里の内外が隔絶されている。恐ろしいほどの結界強度だ。相互干渉もできない」

「私たちは里内に戻れなくなったのね。この結界がある限りは」


 魔力柱による強力な隔絶結界を前に、二人はただ歯噛はがみするしかなかった。この結界を外から破壊するなど不可能だ。


「ディリニッツ、この結界を消滅させる方法はないの。このままでは、エレニディールが」

「一つだけ、あるにはある。だが、実質的には、ない、と同義だ。二人の力を合わせたとしても無理だ」


 ディリニッツの禅問答のような答えに、ヴェレージャは苛立ちを隠し切れない。


「そんな小難こむずかしい言い方ではなく、もっと分かりやすく説明しなさいよ」


 あせりと怒りで、ヴェレージャ自身、どうしてよいか分からないのだ。ディリニッツが相手では、多少口調もきつくなるというものだ。ディリニッツも慣れたもので、反論は一切しない。


「この結界は、そびえ立つ五本の柱によって構築されている。完全無効化には全ての柱を消滅させる必要がある。だが、里内の一本は事実上不可能だ。となれば、四本の柱が立ち上がった起点を潰すしかない。少なくとも、周囲を覆う結界は消滅するだろう」

「そうよ。最初からそのように言えばよいのよ。それで、その方法は」


 即答だ。ディリニッツは視線をヴェレージャに向けることなく、言い切った。


「ない」

「この役立たず」


 なかさげすみの目でディリニッツをにらみつける。それが筋違いだということはヴェレージャも重々理解していた。ディリニッツは冷静に受け止め、感情をはいして言葉を返す。


「ヴェレージャ、それはお前も同じだぞ。分かっているんだろうな」

「分かっているわよ。分かっているからこそ、無性むしょうに腹が立つのよ。自分自身に対してね」


 なすすべなく、ただ魔力柱による結界をながめ、立ち尽くす二人の背後からいきなり声がかかった。


「少し遅かったようです。間に合いませんでしたか。エレニディールは隔絶された内側ということですね」


 気配を悟らせず背後から近づいた者に対して、二人は殺気を込めて振り返った。


「貴男は」


 ディリニッツの表情が、一瞬にして驚愕きょうがくに染まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る