第111話:異界の三頭龍

 普段であれば心配する必要もない。レスティーの力は圧倒的で、全幅ぜんぷくの信頼を置いているからだ。


 今は状況が違う。相対しているのは、レスティーでも勝てない存在、尋常ならざる御方おかたなのだ。


「フィア、そのような顔は似合わないわ。心配は無用よ。ご覧なさい」


 幽幻闇虚獄牢無リグダヴァーゼヴを指差す。漆黒の壁に、わずかばかり亀裂きれつが入り始めている。


「誰だと思っているの。私の可愛い弟よ。相当に厄介な、次元の狭間はざまに飛ばしたに過ぎないもの。この程度、レスティーには何でもないわ」


 何をしてくれたのですか、と声を大にして叫びたい。それはかなわないし、通用もしない。フィアが口を挟む余地はない。


 こうなった以上、もくして、ただ見守るしかない。フィアは不安を押し隠しながら、幽幻闇虚獄牢無リグダヴァーゼヴを凝視する。亀裂は次第に大きくなりつつあった。


「あら、もう戻って来られたのね。さすがは私の弟だわ。私の想定を上回るなんて。姉として、これ以上の喜びはないわね」


 フィアは安堵のため息を吐いた。亀裂の隙間から光があふれ出す。やがて、光は奔流ほんりゅうとなって、漆黒を純白に塗り替えていった。宙に硬質音が響き渡る。


 これで終わりではない。砕けた幽幻闇虚獄牢無リグダヴァーゼヴ欠片かけらを再構成、異なる力へと変成させていく。


 レスティーの背後を飾るは、揺らめく純黒幕じゅんこくまく、異界からの召喚だ。


「防から攻への切り替えの早さといい、私の術理をそのまま転用する機転といい、申し分ないわ。よいでしょう。私の可愛い弟に敬意を表し、虚体きょたいではなく、真体しんたいでの顕現けんげんを許可します」


 レスティーは驚きと戸惑いがない交じった表情を浮かべたものの、一瞬で消し去る。二人がこの状況を楽しんでいるのは明白だ。


"Kafhsapeag okvimsilmng."


 レスティーの唇がかすかに震える。いかにレスティーとて、異界から真体を、しかも全能顕現させるには呼びかけの言語が必要となる。


 それさえも不要とするのが、この姉なのだ。既に結果は見えている。姉の前では、あらゆるものがひれ伏す。むしろ、召喚された真体への影響の方こそが心配だ。


 それを承知で、レスティーは試しておきたかったのだ。己の力の限界を見極めるために。


 純黒幕を通して異界の暴風が大量に流れ込んでくる。主物質界においては、ほぼ実現不可能な現象だ。それを可能とするのが、レスティーたちの立っている空間だった。


 姉と兄、この二人の力をもってすれば、創造空間内に異界を再現するなど容易たやすい。


 かつて、パレデュカルはジリニエイユを倒すため、ただ一度だけ異界より巨大な顎門あぎとを召喚した。この顎門は仮初かりそめ、すなわち虚体だった。虚体にも関わらず、代償としてパレデュカルは膨大な魔力、さらには右脚一本を食われている。


「姉上のお許しが出た。我が声にこたえよ。黒皇三頭破覇龍クドゥスドゥヴロニ、全能顕現にて来たれ」


 純黒幕を切り裂いて、真体が顕現する。


 一つの胴体に三つ頭を有する黒龍が、堂々たる威容を誇っている。不安定極まりないこごえた大地であろうと関係ない。強力無比の鉤爪かぎづめが凍土をえぐり取り、巨躯きょくをしっかり支えているのだ。


(フィア、そこを動くな。万が一もないが、しばらくはその結界内で)


 黒皇三頭破覇龍クドゥスドゥヴロニの顕現と同時、レスティーはフィアの周囲にすぐさま結界を展開させていた。


(私の愛しのレスティー、必ず、戻ってね)


 黒皇三頭破覇龍クドゥスドゥヴロニ顎門あぎとが開く。発せられるのは無論、本来存在すべき異界の言語だ。


「まずは、偉大なる創造主様へ、最大の敬意をこめて。我が真体をもっての全能顕現をここにお許しいただき、望外の喜びであります。心より感謝申し上げます」


 三つの頭が等しく、深く下げられた。その頭が横に振られ、ちょうどフィアと相対する形になる。六つの瞳は、フィアではなく、そのすぐ背後に向けられていた。


「等しく、感謝を」


 いつの間にやって来ていたのか、ラ=ファンデアを手にした兄が立っている。


「私に気をつかう必要はない。見学に来ただけだよ」


 気軽に応じて、フィアを守るように彼女の一歩前に歩み出る。レスティーにも、その動作は当然見えている。改めて、兄の気遣いに感謝する。


「レスティー、我の召喚主にして、異界の友よ。随分と久しいではないか。数百年ぶりになるか。我を召喚したということは、来たる戦いにおいて、今度こそ我の力を欲するということか」


 レスティーは首を縦に振り、答える。


「百年前の二の舞を演じるわけにはいかぬ。この手で必ず滅殺めっさつする。そのためにも、黒皇三頭破覇龍クドゥスドゥヴロニ、そなたの力を貸してほしい」


 主物質界での召喚になる。レスティーの力をもってしても、わずかの時しか真体を顕現できない。だからこそ、協力無比な力をもって、一気に決着をつける必要があるのだ。


 百年前のあの時、レスティーは黒皇三頭破覇龍クドゥスドゥヴロニを召喚する一歩手前の段にいた。ファルディム宮を多重結界で覆い尽くし、最上位キルゲテュールを閉じ込めたうで、真体を召喚、完全に滅するはずだった。


 結果的に、それは成し得なかった。


「よかろう。そなたには借りもある。何より、友の頼みを断る手もないであろう。だが、承知か。今、我が目に映るこの場所こそが戦いの場所なのであろう。我が全能を発揮すれば、跡形もなく消滅するぞ」

「姉上からお許しをいただいている。この程度までなら、何ら問題はない」


 レスティーは、姉から投影された数百万年前のアーケゲドーラ大渓谷の様子を、黒皇三頭破覇龍クドゥスドゥヴロニの脳裏に投影して見せる。


「なるほどな。これなら本気で暴れられるというものだ」


 黒皇三頭破覇龍クドゥスドゥヴロニの笑い声が響く。笑い声と言っても、人族のそれとは全く違う。喉元を通り抜ける際の吐息の摩擦まさつ音とでも言うのか、ざらつきのある音だ。


「そなたの真体を召喚したのは、レスティーのためでもあり、そなたの力の発散のためでもあります。最上位キルゲテュールごとき塵芥じんかい、私の足元にも及びませんが、仮想敵かそうてきとして相手をしてあげましょう」


 黒皇三頭破覇龍クドゥスドゥヴロニの動きが完全に止まった。


 創造主を仮想敵と見なして攻撃するなど、あり得ないし、考えたくもない、というのがいつわらざる思いだろう。それが創造主自らの口から発せられた。混乱するのも無理からぬ反応というものだ。


「お待たせいたしました、姉上。では、全力をもって」

「待て、レスティー。創造主様に攻撃を仕かけるなど、あり得ぬであろうが。我には無理ぞ」


 慌ててレスティーを止めようとする黒皇三頭破覇龍クドゥスドゥヴロニの三つの頭が、別々の方に向けられた。二つは創造主たる姉と兄に、一つはレスティーにだ。三人が三人とも、笑みをもってうなづく。


 黒皇三頭破覇龍クドゥスドゥヴロニは深いため息を一つ、そろってお墨つきが出たと思えば、あきらめもつくというものだ。


「分かった、分かった。やればよいのだな。やれば。では、レスティー、念のためだ。戦術を聞いておこうか」

「戦術などない。真正面から全力をもって挑む。ただ、それだけだ」

「やれやれだ。やむを得まいか」


 黒皇三頭破覇龍クドゥスドゥヴロニ巨躯きょくを起こし、さらには左右の黒翼を広げた。三つの頭が勢いよくもたげられる。


 全開まで広げられた三つの顎門あぎとから、一斉に漆黒の吐息が射出された。

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