第103話:ラナージットの思い

 ディリニッツとパレデュカル、二人から先ほどまでの殺気が消えた。


 ラナージットは、先にどちらに駆け寄るべきか一瞬戸惑ったものの、やはり命の恩人が優先だろう。まずはパレデュカルのもとへと急ぐ。


 律儀りちぎにも、ディリニッツのかたわらを通り過ぎる際、頭を下げていく。ディリニッツは無言で軽く手を上げ、ラナージットに応えた。


「パレデュカルさん、大丈夫ですか。今、怪我の手当てを」


 ディリニッツの放った光矢を無数に浴びたパレデュカルは、苦しそうに大きく息をついている。あろうことか、差し伸べてきたラナージットの手を邪見じゃけんに振り払う。


 その手を呆然ぼうぜんと見つめるラナージットの顔が、悲しみにいろどられる。これには、さすがのヴェレージャも黙っていられなかった。


「パレデュカル、いい加減にしなさい。ラナージットに対するその態度はいったい何ですか。貴男は、礼節さえも忘れてしまったのですか」


 ヴェレージャの静かで、冷たい怒りを聞くまでもない。パレデュカルは後悔していたのだ。無意識下の行動とはいえ、ラナージットの手を払ってしまうとは。まさしく、後悔先に立たずだった。


 よりによって、絶対に傷つけてはならない少女に突き放すような真似をしてしまっていた。いまだ思考が追いつかない。


「ラナージット、済まない。しばらく、一人に、してくれ。頼む」

「パレデュカルさん」


 これ以上は何も言えない。ラナージットは言葉をみ込んだ。


 背後からディリニッツに肩を軽く叩かれる。ゆっくりと振り返る。


 何も言わず、ただうなづくだけのディリニッツに、ラナージットはそれでも踏ん切りがつかない。


「既に闇溜やみだめは消え失せている。そこで頭を冷やせ。ラナージットは、俺とヴェレージャで小屋まで送り届ける」


 告げるなり、きびすを返す。決心がつかなさそうなラナージットにも言葉をかける。


「ラナージット、行くぞ。奴なら心配無用だ。ほとぼりが冷めるまで、一人にさせてやるといい。いずれ、戻ってくるだろうさ」

「は、はい」


 ディリニッツを見てから、再び視線をパレデュカルに向ける。ラナージットはまたも頭を下げた。


「待っていますね、パレデュカルさん」


 去っていく二人の背を見つめながら、パレデュカルは天を見上げ、つぶやく。その声は、誰に聞こえるでもなく、ただ空に吸い込まれていった。


「ディリニッツ、あのままでよかったのかしら。強引にでも、連れ帰った方が」


 歩を進めつつ、見返ったヴェレージャが問いかけてくる。ディリニッツは一度だけ首を横に振った。


「奴はあまりにも一つの思いにとらわれすぎて、雁字搦がんじがらめだ。ほどけないほどにな。お前や俺と、あそこまでやりあったのがその証左しょうさだ。今は距離を置く方が、奴にとってもよいだろう」


 二人の会話に割り込んではいけないと思いつつ、ラナージットはたまらず言葉を発した。


「あの、パレデュカルさん、きっと、戻ってきてくれますよね。そうじゃないと、私」


 涙を流すラナージットを見て、百戦錬磨の二人もさすがに焦る。ヴェレージャは今度は慎重にラナージットを抱き締めると、優しくその背をでる。


「何を考えているの、ラナージット。あまり思い込まない方がよいわよ。もしかして、彼が好きなの」

「おい、いきなり、何を聞いているんだ」


 ディリニッツがすかさず突っ込む。ヴェレージャは全く意に介していない。むしろ、聞いて当然だという顔をしている。


「分かっていないわね。これだから、男は駄目なのよ。ディリニッツ、貴男、恋人はいるの」


 いきなりの振りに、何の話だよ、と思いながらも、言葉に詰まるディリニッツだった。いるか、いないか、答えはどちらかしかない。至って簡単な問いだ。答えるのはなぜかしゃくさわる。


「ねえ、ラナージット、どちらだと思う。私は、いないと思うわ」


 無茶が過ぎる。ヴェレージャはすっかり楽しんでいる。


「え、えっ、私は」


 うつむき加減で考え込むラナージットに、訴えるような目を向けるディリニッツが何とも滑稽こっけいに見える。


「私は、いると思います」


 顔を上げて微笑むラナージットに、二人が同時に声を上げた。


えらいぞ、ラナージット」

「ラナージットは、優しいのね」


 もちろん、前者がディリニッツ、後者がヴェレージャだ。何が偉いのか理解できないラナージットが、小首をかしげている。ようやく、ヴェレージャが話をまとめにかかった。


「とにかくよ。ラナージットがパレデュカルを好いているなら、彼を死なせるわけにはいかないわ。それでなくとも、彼は着実に死に近づいているのよ。このまま好き勝手させるわけにはいかない。私たちエルフが止めなければ」


 ヴェレージャの言葉に異論はない。ディリニッツにしても同じ思いだからだ。


「ヴェレージャお姉さん、私、パレデュカルさんが好きか、嫌いかと問われれば、好きです。恋愛感情があるのか、今の私には分かりません」


 ラナージットは思い出したのか、シュリシェヒリの里にいた当時のことを話し始める。


「好きな人が、できました。他の里の方でした。今になって思えば、私はただ利用されていただけだと分かります。まだ、子供だったのでしょう。私は、すっかり夢中で、その人の言うことなら何でも信じ、言われるがままに行動していたのです」


 ラナージットが裏切られたと気づいた時には、既に遅かった。彼女が見た光景、それは自身に向かって振り下ろされる剣だったからだ。


 死を覚悟した。結果的に、彼女は死なず、次に目覚めた場所は馬車内だった。首と手足に、絶対外せない奴隷錠が装着されていた。


「私は不幸を招く女です。両親やシュリシェヒリの里の皆さんを悲しませ、私をあの地獄から救い出してくれたパレデュカルさんまでも不幸にしようとしている。私など救い出さなければ、今の状況も変わっていたのではないか」


 ラナージットの瞳がれている。それを見た二人は何も言えなかった。


「この戦いもです。私が、無謀にも邪魔をしたせいで、ヴェレージャお姉さんもディリニッツさんも、危険な目にわせてしまいました。私など、いなくなった方が」


 ヴェレージャは、つい抱き締める手に力を入れてしまった。


駄目だめよ、ラナージット。それ以上、言っては駄目よ。貴女は誰も不幸になどしていない。断言できるわ。貴女は、心の美しい優しい子よ。何だったら、今すぐにでも私の妹にしたいぐらいだもの。ディリニッツ、そうよね」


 ラナージットの言葉を受けて、何と答えるべきかずっと思案中のディリニッツは、反応が遅れた。すかさずヴェレージャの爪先攻撃が飛んでくる。


 的確にディリニッツのすねとらえる。脛はきたえようがない。激痛が瞬時にけ抜ける。何とか声を上げずに耐えきったディリニッツが、ヴェレージャをにらみつけている。


 どこ吹く風とばかりに、ヴェレージャはすずやかな笑みをもって、ディリニッツをあしらった。


「何とか言いなさいよ、ディリニッツ。ああ、そうそう、恋人は、いないんだったわね」

「お前、それは関係ないだろう。ああ、いないさ、恋人なんてな。満足したか」


 なかば、投げやりに答えるディリニッツが何ともあわれに思える。ヴェレージャの手のひらの上で遊ばれているのは間違いなかった。気を取り直し、ディリニッツが続ける。


「ラナージット、お前のその考えは間違っている。お前が不幸を招く。そんなことがあるものか。俺もヴェレージャも絶対に認めない。お前の両親も、そんなことを思っているわけがないんだ」


 ディリニッツの熱のこもった口調に、ラナージットはもちろん、ヴェレージャまでもが驚いている。二人の様子に気づいたのか、ディリニッツはいったん言葉を切ると、幾分か冷静な口調に戻し、続ける。


「お前を助けたい。その一心で行動している。その過程で傷つくのは、おのれの責任だ。お前が気にむ必要は一切ない。お前は、今までの分を全て取り返し、幸せになる権利があるんだ。だから、二度とそんなことを言うんじゃないぞ」


 ラナージットも、彼女を優しく抱いているヴェレージャも、どことなく戸惑いつつ、賞賛にも近い表情でディリニッツを見つめている。


「二人そろって、どうしたんだ。まずいことでも言ったか」


 怪訝けげんな表情を向けてくるディリニッツに対し、ヴェレージャは否定の意を示した。


「拙いことなんて何も言っていないわ。貴男の言葉に感動したのよ。よいことを言ってくれたわね、ディリニッツ」

「有り難う、ディリニッツさん。私、幸せになってもよいのですか。こんな、私が」


 ディリニッツとヴェレージャ、二人が同時に力強くうなづく。


「当然だ。こんなにも愛されているお前が、幸せにならなくてどうするんだ。皆が望んでいるんだ。もちろん、パレデュカルもな。お前の両親と同じぐらい、奴が一番それを願っているだろう」


 三人の視線が、そろってパレデュカルに向けられる。彼はこちらを一顧いっこだにせず、その場にうずくまったままだ。


 天空に浮かぶ三連月が、さびしげで弱々しい光を静かに散らしている。まるで、パレデュカルの心の内を投影しているかのようでもあった。

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