第102話:闇と光の力

 ディリニッツは確実に仕留めにきている。パレデュカルには反撃の手段はない。


 いや、あるにはある。黒く染まった双三角錐そうさんかくすいの物体、すなわち魔霊鬼ペリノデュエズの核だ。これを使うわけにはいかない。


 ラナージットまでも巻き添えにして、命を奪いかねないからだ。かすかに残った魔力で防御に徹する。


 ディリニッツの詠唱が始まった。


「リグヴ・レエデ・リヴィ・エルトー

 フォガーザ・エヴェレン・ダロド・ミーリィニ

 パダルー・ピニヴィデ・パドロー・ヴィンディ」


 詠唱が続く中、ようやく正気に戻ったヴェレージャがディリニッツを咄嗟とっさに止めようとする。


「ディリニッツ、めなさい。その魔術は危険すぎるわ。闇の腕ワギュロヴを使えば、貴男だってただでは済まないのよ」


 ヴェレージャの言葉を受けて、ラナージットが息をんだ。すかさず問いかける。


「ヴェレージャお姉さん、あの魔術を使えば、ディリニッツさんは、それにパレデュカルさんは」


 迷ったものの判断は一瞬だ。ラナージットに嘘をついても仕方がない。ヴェレージャは正直に答えた。


「パレデュカルは間違いなく死ぬわ。闇の腕ワギュロヴに引きずり込まれてね。ディリニッツも、闇の腕ワギュロヴにえに満足しなければ、同じく引きずり込まれてしまう。生きて戻れる保証はできない」


 ラナージットの顔が悲しみにゆがむ。ヴェレージャに向けていた視線をディリニッツたちの方へ移す。


 ディリニッツの詠唱が、刻一刻こくいっこくと成就へと近づいていく。


「深き奈落より瘴気しょうきまといてでよ

 汝ら絶えなき絶望と苦痛を抱えて

 血と肉その全てをむさぼり食らえ」


 詠唱の成就とともに、ヴェレージャとラナージット、二人が抱くのは絶望感だった。


 魔術が発動してしまえば、間違いなくパレデュカルは死ぬ。ディリニッツも無事に済むという保証はない。ディリニッツが行使しようとする魔術は、それほどまでに強力かつ凶悪なのだ。


「ああ、駄目よ、ディリニッツ。発動させてはいけない」


 ディリニッツは魔術発動のために意識を集中している。この状態では、もはや誰の声も届かない。


 パレデュカルの足元には、夜よりもなお暗い闇溜やみだめが出現、大地を侵食しつつ広がっていく。


「もはや、逃げ場はないぞ。魔霊鬼ペリノデュエズともども、ここで滅ぼしてやる」


 魔術が、発動する。


 ヴェレージャは動けなかった。ラナージットは違った。


闇堕餓落血肉崩葬ドゥヴォーロドニィ


 闇溜やみだめから漆黒に染まった腕が無数に出現、パレデュカルをとらえようといっせいに襲いかかる。


「やめて、ディリニッツさん。お願いです。パレデュカルさんを許してあげてください」


 先ほどとは逆の現象が起きている。ラナージットがパレデュカルとディリニッツの間に割って入り、あまつさえ、両手を横に広げてパレデュカルを守ろうとしているのだ。


「ラナージット、そこから離れろ」

「ラナージット、そこから離れなさい」


 ディリニッツとヴェレージャの声が重なる。ラナージットは首を何度も横に振り、決してそこから動こうとしない。


「パレデュカルさんは、私にとって、命の恩人です。私は、パレデュカルさんがどのようなことをしてきて、どのようなことをしようとしているのか、何も知りません」


 ラナージットの瞳には、強い意志がめられている。


「ただ、これだけは言えます。ひたすら死を望み、絶望の淵に立っていた私をあの城から救い出してくれた、大切な人なのです。お願いします、ディリニッツさん」


 闇溜やみだめの浸食は、ラナージットの足元にまで迫っている。闇の腕ワギュロヴは新たな贄を見つけ、喜びもあらわに彼女の広げた両手にからみついた。


「ディリニッツ、何とかしなさい」


 ヴェレージャの悲鳴がとどろく。


 ディリニッツが行使した魔術、闇堕餓落血肉崩葬ドゥヴォーロドニィは特定領域に闇溜やみだめを展開、その内部に闇の腕ワギュロヴを顕現させる。


 腕しか持たない漆黒の闇は、闇溜内では無敵だ。血と肉に飢えたそれは、あらゆる生き物を引きずり込み、むさぼり食らい、そしておのが同胞と化す。


 闇溜やみだめが消えない限り、無限に増殖を続け、生き物が存在しなくなるまで永遠に食らい尽くすのだ。


 今や、パレデュカルの半身は闇溜やみだめに引きずり込まれてしまっている。必死に抵抗、絡みついてくる腕をいなしている。


 次から次へとき出てくる闇の腕ワギュロヴの前では、無力も同然だった。


 ラナージットも、二本の闇の腕ワギュロヴつかまれ、闇溜やみだめの中へと次第にいざなわれていく。このままでは、二人を待つのは確実な死だ。


「ああ、ラナージット。ディリニッツ、急いで」


 悲痛な叫び声がさらなる焦燥を誘う。ディリニッツも、闇溜やみだめを解除しようとして必須に制御力を高めている。


 一度ひとたび展開した闇溜やみだめ闇の腕ワギュロヴを、使役しないままに消滅させるのは至難のわざだった。


 魔術は、一度ひとたび発動してしまえば、決して還元できないのだ。強制解除するには、圧倒的魔力をもって上書きするか、あるいは対抗魔術をぶつけて消滅させるかのいずれかしかない。


 今のディリニッツにできるのは、後者しかなかった。月並みだが、闇を打ち消す力は光だ。暗黒エルフたるディリニッツにとって、光系魔術は精霊魔術と並んで最も不得手ふえてで相性の悪い魔術だ。


 今はそんなことを言っている場合でもない。緊急事態なのだ。


 ディリニッツは叫び返した。


「ヴェレージャ、もう一つの魔術巻物を寄越よこせ」

「分かったわ」


 左腰に差していた魔術巻物を素早く取り出し、ディリニッツに向けて放り投げる。


 二巻ふたまき用意していてよかった。魔力が尽きているヴェレージャは、何もできない自分をなげかわしく思いつつ、ディリニッツに全てを託すしかなかった。


 空中で受け取ったディリニッツが、そのままの勢いで魔術巻物を即座に開封、闇溜やみだめの真上に投げ込む。


 内封されていた魔術が、瞬時に解き放たれる。凄まじい光の氾濫はんらん、まるで昼かと見間違うほどにまばゆい光彩が降り注ぐ。


「ラナージット、私に向かって走って」


 光の奔流ほんりゅうをまともに浴びた闇の腕ワギュロヴが、一時的に勢いを失う。からめ取っていたラナージットの腕から離れ、闇溜やみだめの中に消えていく。


 ラナージットは、力のあまり入らない両脚に活を入れて、ヴェレージャに向かってけ出す。


 これが一時しのぎに過ぎないことは理解している。ディリニッツは間髪かんはつをいれず、次の魔術のための詠唱に入った。


「ノーダス・ルツ・アルデミ・ヴレ

 イミールディ・ムルド・スキューロ

 ティエーラ・スピーリド

 果てなき茫洋ぼうようなる光の波々よ

 暗き空と地をあまねく照らし出したまえ」


 苦手ながらも、わずかに使える光系魔術の中から短節詠唱可能な唯一の術を選び出す。


「パレデュカル、多少の痛みは我慢しろ。いくぞ」


 二人の視線が交差する。根本的な部分では、決して分かり合えないだろう二人も、この時ばかりは思いを一つにした。


 ディリニッツが両手を高々とかかげる。パレデュカルには警告した。多少どころか、かなり傷つくだろうが知ったことではない。むしろ自業自得だ。


 ディリニッツは両手を振り下ろし、魔術を解き放った。


光矢迅破照閃チューリイェンタ


 熱を帯びた無数の光の矢が、上空から一気に駆け下りる。縦横無尽、あらゆる角度から降り注ぐ光矢は輝きをき散らし、乱反射を引き起こす。


 その光のきらめきだけで、闇溜やみだめはまたたく間に面積を失い、領域を狭めていった。


 光矢に貫かれた闇の腕ワギュロヴは、熱で焼かれて蒸発、見る見るうちにその数を減らしていく。


 闇の腕ワギュロヴに自由を奪われ、胸の辺りまで飲み込まれていたパレデュカルも、力を徐々に失いつつある闇の腕ワギュロヴを強引に引きはがし、何とか自力で闇溜やみだめ内から脱出していた。


 その間、全身に光矢を浴び続けた。致命傷は避けたものの満身創痍状態だ。


「本気で俺を殺すつもりだったんだな、ディリニッツ。さすがに、あの魔術を行使するとは思わなかった」

「言ったはずだ。お前は許さないと。それゆえに、殺すつもりで魔術を行使した。当然だろう」


 にらみ合い、互いに言葉の応酬を繰り出す。二人の表情からは、もはや険悪さが消えているように思えた。


 その様子を、ラナージットは気をもみながら見つめていた。

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