第098話:ジリニエイユの変貌

 天に輝く三連月を憎しみのこもった目でにらみつけている。男は上空に視線をえたまま、ただ一人、闇の中にたたずみ、配下からの報告を聞き流していた。


 ただ一人、そう、ここには彼以外の人族はいない。配下全てが魔霊鬼ペリノデュエズだからだ。


 その男、ジリニエイユは右手で無意識のうちに自由の効かない左腕をつかみ、厳命した。


「計画どおりに進んでおらぬ。増産を急がせるのだ。まもなくときが満ちる。それまでに必ず終わらせるのだ。よいな」


 二体の低位メザディムが一言も発することなく、深々とこうべを垂れた。速やかにこの場から去っていく。


低位メザディムごときでは役に立たぬな。所詮しょせんは、知性も持たぬくずどもだ。命じられたことすらできぬとは。やはり中位シャウラダーブ以上の魔霊鬼ペリノデュエズを動かすしかないな。忌々いまいましい限りだ」


 ここはフルレーゼ大陸の最北端、複雑に入り組んだ荒々しい海岸を見下ろす断崖絶壁の地、ノーディケネロだ。


 海抜およそ九百メルク、ケイナツァーラ王国の領土内でありながら人の侵入をこばみ続けている。王国から見捨てられて幾星霜いくせいそう、今や翼を持つものたちにとっての楽園と化している。


 ジリニエイユがここに拠点を構えたのは、およそ三百余年前になる。ノーディケネロの長所は魔霊鬼ペリノデュエズの研究に打ってつけの環境を有することだ。何しろ人が迷い込む心配もない。


 逆に短所は空から簡単に見つけられてしまう点だ。常に大小様々な有翼生物が空を飛び回っているため、好んでこの地を訪れようとする酔狂な人はいない。


 ジリニエイユにとって有翼獣など問題にならない。細心の注意を払うべきものは唯一だ。魔術高等院ステルヴィアの監視の目のみだった。


「奴らの目をかいくぐってここまでぎ着けたのだ。あの二人に追い詰められたのも、今や遠い昔の出来事だ。理知的な男が院長に就任し、この左腕を使い物にならなくしてくれたルシィーエット嬢は賢者を引退している」


 つい昔を懐かしく思い出してしまう。ジリニエイユは頭を振りながら、記憶を振り払う。


 振り返ったジリニエイユの背後から三連月の淡い光が差し込み、彼の顔をわずかに浮かび上がらせた。正視せいしするにえない。もはや人の顔の形をとどめていない。


「荒れているな、ジリニエイユ」


 声はすれど、姿はない。ジリニエイユには、声の主が誰なのかすぐに分かった。


「闇に乗じて、忍び込んだか。我が弟子パレデュカルよ。随分と久しいではないか」


 闇から溶け出すように姿を見せたパレデュカルが、ゆっくりとジリニエイユに近づいていく。思うところは数多あまたある。口にはしない。聞きたいのはただ一つだけだからだ。


「サリエシェルナ姉さんは、問題なく無事だろうな」


 苦々にがにがしく思っているのだろう。顔をしかめている雰囲気が伝わってくる。ジリニエイユのその態度はいつものことだ。


 パレデュカルは気にもめず、返事を待った。


「よくも飽きぬものだ。辟易へきえきとするぞ。何度言えば分かるのだ。サリエシェルナ姫はつつがなく無事だ。お前に無断で、姫の魂と肉体を分離したことについてはびたではないか」


 気分を害したか。ジリニエイユを刺激しすぎるのはよくない。パレデュカルは口調を幾分いくぶんやわらげる。


「分かっている。ああ、分かっているさ。ジリニエイユ、俺の気持ちにもなってくれ。崩壊していく姉さんの幻影を見せられた、あの日以来、俺は姉さんの生きた姿を一度たりとも見ていないのだぞ。それで、どうお前を信じろと言うのだ」


 沈痛な面持ちでうつむくパレデュカルを見て、ジリニエイユも言い過ぎたと思ったか。態度を少しだけ軟化させた。


「済まぬ、パレデュカル。ここのところ何かといらつくことが多くてな。あの役立たずのくずどものせいだ。もはやえさにしてしまうべきであろうな。なりそこないセペプレ低位メザディムなど不要だ」

「計画どおりに進んでいないのか。間に合うのか、ジリニエイユ」


 すさまじい形相ぎょうそうで笑い出す。頭でもおかしくなったのか。パレデュカルの思いとは裏腹、ジリニエイユは至って正気そのものだ。


「問題はない。いざとなれば食わせればよいのだ。なりそこないセペプレ低位メザディムの餌だ。その低位メザディム中位シャウラダーブが喰う。さらに、その中位シャウラダーブ高位ルデラリズが食う」


 今、ジリニエイユが手駒としている魔霊鬼ペリノデュエズは、無数のなりそこないセペプレ低位メザディム五十体、中位シャウラダーブ三十六体、高位ルデラリズ七体という構成だ。


 これを高位ルデラリズ十体以上、さらに生き残った高位ルデラリズに匹敵する中位シャウラダーブ数体にするのがジリニエイユの計画なのだ。


 高位ルデラリズ一体を生み出すには、現状では全く餌が足りていない。それ故の最終決戦の場でもある。ジリニエイユは、何とでもなるだろうとたかくくっている。


「愚かな人どもが万といるのだ。全てを贄として捧げ、さらに作り上げた高位ルデラリズをも餌にすれば、最高位キルゲテュールの完全復活が可能かもしれぬ」


 ジリニエイユの野望はどこまでも尽きない。当初の目的さえ忘れているような気がする。


「我が命に代えてでも必ず復活させてみせる。このためだけに長い歳月をかけて、種をき、じっくりと仕込んできたのだ」


 神をも嘲笑あさわらうかのごとく、ジリニエイユは天に向かってえた。恐れるものなど何もないという状態だ。今の彼を見れば一目瞭然いちもくりょうぜんだろう。


(この男は危険すぎる。精神も肉体も全てが変わりすぎた。当初の目的も既に忘れているだろう。魔霊鬼ペリノデュエズ、しかも最高位キルゲテュール復活を悲願にかかげる、今となってはな)


 パレデュカルも、もはやジリニエイユの術中から抜け出せない。首元まで泥船に沈み込んでいる状態だ。魔術高等院ステルヴィアで過ごした際、ビュルクヴィストがあれほどまでに忠告してくれていた。決して魔霊鬼ペリノデュエズには関わるなと。


(それも仕方がないのだ。俺にとって、サリエシェルナ姉さんが全てなのだ。姉さんを取り戻すためなら何でもするさ。イプセミッシュでさえも罠にめたのだからな)


 パレデュカルは十二分に自覚している。既にちるところまで堕ちている。神の断罪をも覚悟しているのだ。


 沈黙の中に焦燥と葛藤を隠したまま、パレデュカルは背を向けた。ジリニエイユから声がかかる。


「パレデュカルよ、共に祝おうぞ。三百二十四年というときて、我らが悲願の叶う瞬間をな。決戦の地、アーケゲドーラ大渓谷で待っているぞ」


 腹の中での化かし合いが終わった。二人にとってはいつものことだ。


 ジリニエイユは目的のためにひたすら邁進まいしんしている。


 強大な力を得るため、自身を依代よりしろとして魔霊鬼ペリノデュエズを取りかせ、それをおのがものとした。


 本来、依代となった者は魔霊鬼ペリノデュエズに肉体も精神も食い尽くされ、消滅するしかない。ジリニエイユは長年の研究によって、遂に魔霊鬼ペリノデュエズの浸食を制御する方法をみ出したのだ。


 根幹となるのが、魔霊鬼ペリノデュエズの心臓とも言うべき核だった。今のジリニエイユを動かすのは、人としての心臓と魔霊鬼ペリノデュエズの核を融合させた複合心臓とも言うべきものなのだ。


 その代償として、彼のエルフとしての身体は崩壊を続けている。崩壊した肉体を魔霊鬼ペリノデュエズの肉体が補うという構図だ。それゆえの変貌だった。


 ゼンディニア王国に戻ってきたパレデュカルは、どうすべきか迷っていた。真実を告げるため、イプセミッシュを訪ねるか、あるいはラナージットを見守るべきか。


 結局、面倒な方を後回しにした。


 小屋の周囲に展開している、結界の状態を確認する。先日のような違和感はない。もちろん結界に異常はなかった。くぐり抜ける。


 結界内に入ったからといって、警戒の手をゆるめることはない。パレデュカルは魔力探知をすぐさま発動、小屋内を隅々すみずみまで調べたうえで、ようやく中に足を踏み入れた。


(あの時に感じた違和感はいったい何だったのだ。ヴェレージャの魔操人形トルマテージェ、いや、そんなものではない。もっと緻密ちみつで洗練された一切のすきのない魔力だった。人ごときが扱えるのか)


 あれ以来、パレデュカルの頭から離れない。いくら考えたところで答えは出ない。さらにパレデュカルを驚かせたのは、その違和感を持って以来、なぜかラナージットの状態がよくなっていることだった。


 しかも、回復度合いが考えられないほどなのだ。


「ラナージット、まだ起きていたのか」


 夜のとばりが下り、小屋の周囲は完全な闇に包まれている。ラナージットのいる部屋だけは、柔らかく温かな魔術光で満たされていた。決してまぶしくもなく、暗くもない。目のよいエルフにとって快適な明るさが保たれている。


「お帰りなさい」


 この笑顔を向けられるだけで、わずらわしさなど簡単に吹き飛ぶ。パレデュカルは改めて実感していた。よくぞここまで回復してくれたと。


 その時、扉を叩く音がかすかに聞こえてきた。


 魔力探知を発動し続けているパレデュカルだ。それが誰の訪問であるか、確かめるまでもなかった。

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